普通の女
依頼人は5分もしないうちに現れた。ビルの下から、私をいる場所を見上げて電話をしていたとしか思えない。
見た目の印象は三十代半ば。映画やドラマに出てくる図書館司書を思わせる、おでこを出して後ろに束ねた髪形。黒縁の眼鏡は裸眼の時の顔を想像できなくさせる。鎖骨が見えるカットソー、体系を隠せるロングのカーディガン、真っ白な太いパンツに厚底のスニーカー。身につけているものがすべて真新しく見える。大事そうに抱えたバッグにも皴一つない。
私は「いらっしゃいませ」と頭を下げたが、嶌田ルナはオフィスを一通り目で追ってから、はじめて私の顔を見た。
「冬春夏子さん?」
「はい」
「まさかここ、あなたの事務所?」
「いえ、雇われの身です」
「でしょうね」自分の値踏みが正しかったとでも言いたげな口調だ。「あそこに座っていいかしら?」彼女はソファを指さした。言葉の尊大さが柔らかな顔の印象と合致しない。横柄な依頼人を演じているように見える。
「どうぞ、いま飲み物をお持ちします」
「いらないわ、喉乾いてないから」彼女はせっかちに歩き出しながら喋った。
「そうですか」私は彼女の後ろを歩いた。
「3か月前に病院で父が亡くなったの」彼女はソファに腰を下ろすなり言った。左手首にはロレックス。これも新しく見える。
「ご愁傷さまでした」私はそう言って頭を下げ、席に着いた。
「父は記憶天使に会ったのよ、たぶんそれからおかしくなった、だからあなたに記憶天使の話を聞きたかった」
「お役に立てずに申し訳ありません」
「そう思うなら、私の話くらい聞いてもらえるわよね?」
面倒くさい女に捕まったと思いながら、私は「はい」と返事をした。
「どこから話そうかしら、途中からだと伝わらないから最初から話すわ、私が生まれたのは…」彼女は間を置いて私をみた。「冗談よ、いま面倒くさいって顔に出たわよ」
見られたか、私は思った。
「探偵事務所ってよほど特殊なんでしょうね? 一般企業では通用しないわよ、お客様相手にそんな表情見せるなんて」つまり、ここなら構わないということか、私は露骨に面倒くさそうな顔をした。
「わかったわよ、母が亡くなったところから話すわ、おかしくなったのはたぶんあの時から、もしコロナが2,3か月早く広まってくれたら、母は死ぬこともなかったでしょうね、母には推しのアイドルグループがいたのよ、その子たちの台湾公演を母は見に行ったの、そのあとまっすぐに東京に戻らなかった、一緒に台湾に行った追っかけの女友だちがいたのよ、年は母と同年代、その人の家に招かれて台湾から福岡に行ったの、その人の運転で福岡の高速道路をドライブしていた時に追突事故にまきこまれた、二人とも即死よ」
面倒くさい女だという私の偏見を覆すように彼女は悲劇を淡々と話した。
「父は弁護士資格を持って、ある企業の法務部長をしていた。定年前に役員として子会社に移った、今でこそ有名な会社だけど、父が入社した頃はほとんど誰も知らない上場企業だった、司法試験に合格したくらいだから努力はしたでしょうけど父はラッキーだったの、それを自分でもわかっていた、自分より優秀な人が司法試験に落ちたり、弁護士になっても顧客のお金を横領して資格剝奪されたりとか、そういうのを何人も見て来たってよく言ってたわ、世の中は自分の力だけじゃどうにもならない、幸せに生きてこられた理由は、関わってきた人間を大事にしたことで自分も守られていたから、そう考えていたのよ、つまり父は付け入るスキだらけの人間だったってこと、わかる?」
「いえ…」
「母は父の思いに付け込んだのよ、父か良き家庭人だったけど、それよりも仕事を愛していた、母はそれが不満だった、その捌け口を推し活に求めてそれが母の生活の中心になった、推しのアイドルが行くところにはどこにでも行った、しょっちゅう家を空けて遊び歩いてた、父は母を『気を付けてね』と笑顔で送り出していた、母がいない方が父も気楽だったのでしょうね、母はさんざん好きなことをして勝手に死んじゃったのよ、母が死んだとき羨ましい死に方だと思ったわ、でも父はものすごく動揺した、母が死んだことよりそっちの方に私は驚いた、…父はもともと山梨の出身だけど、両親、つまり私の祖父母ももう亡くなっていて、向こうには誰も住んでいないの、それで父の兄が墓じまいをした、その矢先に母が亡くなった、母が推し活を始めたのはかまってくれない父への当てつけの意味もあったと思う、でも、いつしか母は推しにのめり込み、そこに幸せを見つけた、父は自分の稼いだ金で楽しそうに遊んでいる妻をみて自尊心を満たしていたの。グロテスクな夫婦愛よ、その片割れがいなくなってしまったことで、父は今まで自分を守ってくれたものがなくなったと思ったのよ」
私は本題が始まるのを待っていた。その思いが依頼人に伝わったのかもしれない。
「ねえ、むなしうす教団って知ってる?」
「いえ、宗教団体ですか?」
「そうよ、もとは何宗か知らないけど山梨にある普通のお寺だったみたい、代替わりをした時に、後を継いだ息子がなかなかのやり手で、仏教とキリスト教のいいとこ取りをした教義を作って、地味なお寺を派手な建物に作り替えてむなしうす教団っていう名前に変えた、そこから急速に信者の数を増やしたの。どうやったかは知らないけどね、もともと父の実家がそこの檀家で、父も子どもの頃はそのお寺で習字を習っていたらしいのよ、…母を失って動揺した父は、墓じまいを詫びようとむなしうす教団の本部に出かけた、そこで言いくるめられたのか、むなしうす教団に入会してしまった、弁護士の資格は持っていたけど、法廷に立ったことはないから、相手の方が一枚上だったのでしょうね、そして挙句の果てに財産をすべて教団に遺贈するという遺言を残して死んでしまったのよ、もちろん遺留分は請求したわ、でも結局住んでいた家は教団に取られた、それは父が望んだことだったということになる」
そこまで言うと嶌田ルナはうつむいて黙り込んだ。顔を覗き込んでも気づかないふりをしているのか目を合わせようともしない。
「あの…」私は言った。「訊いてもいいですか?」
「どうぞ」彼女は顔をあげた。
「お父さまは記憶天使とどこで会ったのでしょうか?」
「話はここからよ」
“挙句の果て”などという言葉を使うから、話は終わったのかと思って訊いたのに…、やはりこの人は面倒くさいかも…、私の心の中の声が言った。
「私、婚約者に逃げられたのよ。相手は医者、内科医よ。いい? 父は弁護士、婚約者は医者、絵に描いたような笑いの止まらない人生みたいでしょう?」
「そうですね」
「現実は笑われる人生よ、あなたもどうぞ、嘲笑なさい」
「お望みでしたら」
「…いいわよ、笑わなくて」
「わかりました」
「とにかく、母が亡くなってから父は一気に老け込んでしまったのよ、仕事も休みがちになった、外に出なくなると体力が落ちて、体力が落ちて気力がなくなり、気力がなくなって動けなくなる、…負のスパイラル、毎週末山梨のむなしうす教団に通えたのはせいぜいひと月よ、それが月イチになって結局は、送られてくる本を読むだけになった。普通に歩くだけも苦しそうだったの。病院に一緒に行こうと言っても精神的なものだから病院にいっても意味がないって聞かなかった、だからよけいに、私が結婚すれば父も元気になってくれるって信じたわ、彼を家に招いて父に紹介した時、父は本当に嬉しそうな顔をしてくれたの、ああ、本当によかったって思ったの」嶌田ルナの目が涙で潤み、彼女はバッグからハンカチを取り出した。
「家に来た翌日、彼からメッセージが来た、もう会えません」そこまでは気丈だった。「一言だけ…」その部分で声が震え、言葉は続かず彼女は子どものように声をあげてワンワン泣いた。私は同情するどころか、おかしくなってしまった。いやあ、大人でもこんな風に泣ける人がいるんだ、新鮮な発見。面倒くさい人だと思っていた目の前の依頼人が興味深い人に見え始めた。
嶌田ルナは勝手に泣き止むと私にスマホの画面を向けた。「見ていて」
画面には「弓張武志」の文字。発信の音が一回で切れる。
「明らかな着信拒否でしょう?」
私は頷き、訊いた。「この方が婚約者ですか?」
「そう…、メッセージが来て電話をしたらこれよ」
「詐欺じゃないですか?」
「違うわ、お金を渡したこともないもの」
「そうでしたか…」
「彼は私の前から突然姿を消したの、父には彼とは別れたと言った、逃げられたとは言えなかった、父は哀れみと驚きのまざったようななんとも言えない表情をしたの、そして一週間くらいしたら突然、『3日ほど留守にする』って言いだした。『どこに行くの?』って聞いたら、『願掛けのために山に登る』って言うのよ、私は反対したわ、歩くだけでもフラフラする人が山になんか登れないって、そうしたら父が言ったわ『大丈夫、そんなに高い山じゃないし、教団の人たちと一緒だから、いざとなったら面倒見てもらえる、心配はいらないよ』、私が一緒に行くって言っても、父は『それでは意味がない、オレが変わらないと娘のお前が不幸になる』そう言って一人で出かけた、2日後の夕方、父は満足した表情で帰宅した。家を出たその日はホテルでゆっくりと過ごし、翌日はバスで移動してゆっくりと山を登り山荘に泊まった。荷物はホテルから山荘まで運んでもらったそうよ、最終日は山荘から駅までバス、行程はあまりきつくはなさそうだった。それでも父がよく無事に登れたと思ったわ。『頑張ったわね、お父さん』私はそう声をかけると、父が言ったのよ『記憶天使が励ましてくれた』ってね、『なあに、記憶天使って?』私は訊いたわ。『幸運な人間だけその姿を見ることができると言われている天使だよ』父はそれしか言わなかったから私も深くは追及しなかった、ただ記憶天使という言葉だけが頭の片隅に残っていた、…とにかく父は“でうすさん”で記憶天使に会ったのよ」
「でうすさん!」不謹慎だと思いながらもツボにはまった。“でうす”とはラテン語系の言葉で神のこと。そんな名前の山があるなんて…。「どこにあるんですか? 漢字はどういう字です?」
「場所は山梨県、漢字は『出る』に「羽」にさんずいの『須』で“出羽須山”」
「ああ、なるほど」私はほっとした。“神山”と書いて“でうすさん”と読ませるキラキラネームだったら噴き出してしまっただろう。
「メモ取らなくて大丈夫なの?」
「固有名詞10個くらいまでは記憶できます。あとでまとめておきます」
「会話しながらパソコンに打ち込んだりしないの?」
「できないんです、前にいた職場は喋るよりテキスト打つ方が速い人間が何人かいたので、彼らに甘えてしまいました」私は八幡透の姿を思い浮かべた。
「へえ、甘えた自覚があるの? そこが私とは違うわね」
「はい?」
「父はある日突然、ごめんって私に謝った。何がごめんなの?って聞いたら、私を甘やかせすぎたって言うのよ、甘やかせて育ててしまったから、いまだに結婚もできず幸せになれないのだって、私はそんなことないって言ったけど、父は私を早く家から出せばよかった、それをずっと後悔している、今からでもまだ遅くない、まだ遅くないんだって呪文のように唱えるのよ、いま私がいなくなったらお父さんだって困るでしょう?って言っても、自分が困るとしたらそれは私を甘やかせて育てたつけなんだ、って言い張る、バカみたいな堂々巡りの言葉をお互い発していた、…私はわかっていなかった、父は歯に衣を着せていただけだった…、3か月前に父は急性心筋梗塞で亡くなった、私が仕事から帰った時父は倒れていた、救急車に乗って病院に着いた時はまだ生きてはいたけど、その日のうちに旅だったわ、父の遺言を残していて『財産をすべてむなしうす教団に遺贈する』ってあったわ、弁護士の父が騙されて遺言を書いたとは思えない、あの堂々巡りの会話はもしかしたら私に汲み取ってほしかったのかもしれない、父は母に対して大事なことを面と向かって言えない人だったから…、そこからはもうばたばたよ、父の遺言を預かっていた弁護士にお願いして遺留分侵害額請求をした、教団はすぐに応じたけど、住んでいた家は取られた、父と母の遺品がたくさんあったから引っ越し場所も狭い家というわけにはいかず、今は広いマンションに段ボールの山と一緒に一人で住んでるわ、…だいぶ端折ったけど、これで一通り話した、母が死んで、父が死んで、私はずっと住んでいた家を追い出された、普通だったらうつ病になるわよ、そう思わない?」
「そうですね」私は意味のない相槌を打った。普通の人ならうつ病になるところを、私に来し方を語った嶌田ルナという女性はそうはならなかった。彼女は普通ではないということだ。普通の人なんてどこにいるのだろう。「普通の人」という括りがわかる人が普通なのか、それとも普通じゃない彼女だから「普通の人」という括りが見えるのか、とにかく私には見えないものが見えるということは、それなりに面倒くさいのだろう。私はそう納得する。
「話したら疲れちゃった」彼女はバッグから見たことのないラベルのペットボトルの水を取り出した。
「コーヒー淹れましょうか?」私は訊いた。
「カフェインは身体に悪いから断ってる、これが私に一番合うみたい、1本500円もするけどそれだけのことはあるわ。もう1本持っているからあげましょうか?」
「いえ、大事に飲んでください」
「あなた、飲みたかったら私に遠慮しないでコーヒー飲んでいいのよ」
「大丈夫です、それより、ご依頼の内容を話していただけませんか?」
「ああ、何をしに来たのかすっかり忘れてたわ、あなた、山登れる?」
彼女はイエスかノーの二択を求めているが、線引きが分からない。私は少し考えて事実を述べた。「富士山くらいでしたら、登ったことがあります」
「富士山くらいって、日本一の山じゃない?」
「友人に誘われて一緒に登りました。その友人曰く富士山は山小屋で何でも手に入る、お金さえあれば誰でも登れる山だそうです」
「お金があっても体力がなかったら登れないわよ、あなた、普通の人の立場でものを言いなさいよ、…まあ、いいわ、だったら私と一緒に出羽須山に登って記憶天使に会いに行きましょう」
「会えるんですか?」
「行ってみないとわからない」
「会ってどうするつもりですか?」
「会ってから考えるわ」
「会えないかもしれませんよ?」
「そんな畳みかけるようないい方しないでよ。とにかく、行かないと私の気がすまないの」
「わかりました、お引き受けします」私は即答した。気がすまない、という言葉に弱いのだ。
「あら、そう?」
「探偵に調査を依頼すると、知らなくてもいいことを知ってしまうことが往々にしてあるんです、それでも、知らないと気がすまないから探偵を雇う、私が関わってきた依頼者はそんな方々ばかりでしたから」
「あなたが畳みかけるものだから頭がおかしいんじゃないって言われるかと心配したわ。ここでは私は普通ってことね」
“普通”という言葉は彼女にとって強迫観念なのだろうか? そう感じながら私は「そうなりますね」と答えた。
「ウェアとかリュックとかはあるの?」
「いえ、富士山に登ったのは学生の頃で、その時は友人が一式貸してくれました」
「なあに、そんな昔の話? しばらく登ってないの?」
「はい」
「だったら私と変わらないじゃない? ちょうどいいわ、一緒にウェア一式買いに行くわよ、あなたの分も全部買ってあげる、あなたに任せたらすごく地味なので選びそうで、私の気分が下がりそうだから」
彼女はペットボトルをバッグにしまうと、そそくさと立ち上がった。