嘘八百、八方美人、八つ裂き
タイトルの「記憶天使」はウィリアム・ギブスン(翻訳黒丸尚)のSF小説「ニューロマンサー」へのオマージュです。
「彼、誕生日が8月8日のゾロ目で好きな数も8」
「そんな人だったの?」
「うん、『自分は末広がりの八の日に生まれたから。今は苦しくてもたいていハッピーエンドになると信じてる、だから腹を立てないようにしてるんだ』私にそう言ったのよ、きっとメンタル強いんだろうなあって尊敬もしてた、ところがとんでもない、嘘つきの八方美人で誰に対してもいい顔してるだけ、私に黙って他の女とご飯行って、尾行した私に見つかってヘラヘラ笑ってるだけよ、ごめんもなければ言い訳もない」
「尾行なんかしたの?」
「だって怪しかったんだもん」
カフェの前を通った時、二人の女の会話が聞こえた。「尾行なんかしたの?」は私の台詞だ。世の中こんな女ばかりだったら私の仕事が消失してしまう。そうなったら、何をして生きていこう。尾行のインストラクター? そんなビジネスあるかな? なければイチから作り上げなければいけないか? いやいや、私の好奇心はビジネスには向かいそうにない。ビジネスは得意な人に任せておけばいいのだ。お金を稼ぐのが得意な人は稼げばいい。忙しくて、お金とトラブルを抱えている人がいるから、私のようなヒマと好奇心だけは人並み以上にある人間が、いまこうして生きていられる。
―記憶天使
先日の女子高生の依頼人、門倉亜美の友人竹内園美が教えてくれた、都市伝説まがいの「記憶天使」の台詞が頭の中でずっと引っかかっている。
「お礼なら、貴方の記憶から私を消して、それで十分」
考え事をしているときの私は、記憶のスイッチをオフにしているのだろう。両目をしっかり開いて、誰にもぶつからず、こけることもなく、今日も無事にオフィスにたどり着いた私の記憶から、表参道駅からオフィスまでの景色がすっぽり抜け落ちている。
誰もいないオフィスの椅子に座り、調べたいことが頭の中に山ほどある私は、PCを開く前にスマホで電話をかけた。
電話の相手は私が新卒で就職した探偵事務所「市ヶ谷リサーチ」の先輩。名探偵金田一耕助が最初に登場する横溝正史の小説「百日紅の下にて」の舞台が終戦直後の市ヶ谷。推理小説を読み過ぎて、自分で探偵事務所を開くときは「市ヶ谷リサーチ」という名前にしようという夢を実現させてしまったのがそこの所長。事務所が市ヶ谷にあるわけではない。
「チャットより電話? 昭和か? おまえ平成生まれだろう?」電話に出た男は、まともなあいさつもしない。
「お願いがあるの」私も単刀直入に言う。「Xのアカウント1つ貸して、拡散してほしいものがある」
「ワードは?」
「記憶天使」
「記憶天使? ああ、これか? あるな、いろいろ」電話の向こうの男は明らかに検索をしている。「いくつか仕込みでリツイートしておくか?」
「お願いします」
「アカウントはこれどう? オレの裏垢」
すぐにリンクが送られてくる。
私立探偵なつこ
アラサー女私立探偵の日常
依頼人に関するお話は守秘義務のためつぶやけません
「何よこれ、なりすましじゃない?」
「いや、架空の人物、そもそもなりすましだけなら犯罪じゃない、匿名のSNSはすべて犯罪か? 違うだろう?」
「そうだけど…」
「バズってるポストに一言添えてリツイートしてるだけのアカウント、全部AIがやってる、1日中ネット見てる暇なアラサー女探偵の設定だ、具体的だろう?」
「そうね」
「そっちはテキストできてるのか?」
「すぐ送る」私はテキストをコピペする。
八文字八重と名乗る女が言った
「あなたを捨てた男に関する記憶消してあげる」
「見返りは?」
「お礼なら、貴方の記憶から私を消して、それで十分」
私は断った
嘘八百を並べた八方美人のあの男を八つ裂きにしてほしい
あの男のことも八文字八重という記憶天使のことも私は忘れない
#記憶天使
「何だよ、この八の並び? これでオレのこと思い出したわけか、冬春夏子はわかりやすい人間だ」
「それはどうも、八幡さん」私は八幡透に言った。
「だいたい最初の“はちもじはちじゅう”って何だよ?」
「“やつもんじやえ”よ、高校の数学教師が八文字先生、八文字なんてただでさえ珍しい苗字だし、八文字八重さんなんて実在しないでしょう? 名誉棄損にはあたらない」
「これの何が面白いのか全然わからない、何が狙いだよ?」
「そうね、…こういうの拡散したらどうなるのかなって…」
「また好奇心か? おまえただのコミュ障か?」
「そうかもね」
「まあ夏子が面白いと思うならやってやるよ、コストも時間もかからないし」
八幡透こそは重度のコミュニケーション障害で、軽口をたたける相手は世界で私だけらしい。もちろん「夏子」などと下の名前で呼べる女も三次元の世界には私しか存在しない。彼の暴言や軽口を聞いている間、「頑張ってるわね、よしよし」と私は心の中で囁いている。彼は私の存在理由を一つ作ってくれている貴重な人材。
「さすが天才」私はおだてた。
「バーカ、誰でもできるぞ、こんなの、教えようか?」ついにバカという口癖が出てきた。
「高くつきそうだからいらないわ」私は返す。
「バーカ、おまえなんかに金なんか請求するか! だいたいなあ、こんな簡単なことが天才の所業だと思うような、何もわかってない女に褒められても全然うれしくない、そもそもオレが天才なら探偵事務所でなんか働いてない」
「へえ、じゃあ八幡さんが天才だったら何をするの?」
「オレは自分が天才だと思ってないから、あくまで仮定の話だ」
「どうぞ」
「創造主、神になる」
「え? 自分の手下を作って悪いことでもするつもり?」
「バーカ、いいか、仮にオレたちが神の創造物だとするだろう? オレたちは神の手先として動いてるか? 違うだろう、オレたちは好き勝手なことをして生きてる、そして神はオレたちの行いを見て、笑ってるか、呆れてるか、あるいは感動してるか…、いずれにしてもオレたちのすべての行動は神にとってはエンタメさ」
「なるほど」
「オレもそのエンタメ装置を作るのさ、まずは空間を用意する、バーチャルじゃなくてリアルなヤツ、広さは一部屋あればいい」
「一部屋って具体的には?」
「四畳半だと広すぎるな…」
「そんなに狭くていいわけ?」
「バーカ、最後まで聞け、…その空間にグリッド、つまり格子をびっしりと張り巡らせるのさ、グリッドの太さもグリッドの間隔も両方ともミクロン単位にして、グリッドの交点を座興軸にした解像度の高い画像を出現させるのさ、こっちはバーチャル、もちろんキャラの外観はオレがデザインする、あとはAIで勝手に動く」
「じゃあ、八幡さんの創造したキャラたちは四畳半の中でしか生きられないの?」私は甲斐甲斐しく質問する。
「そうだよ、人間だって水と酸素がある場所じゃないと生きられない、同じことさ」
「じゃあ、その四畳半の中にキャラをぶち込んでエンタメを起こすってこと?」
「バーカ、そんなことして面白いか?」
「全然」
「だろう? キャラは一人でいい、その空間にリアルな人間を一人入れるんだ、バーチャルとリアルが出会ったら何かが起こると思わないか?」
探偵事務所の調査員という肩書でオフィスに通いながら、毎日誰かのPCやスマホにハッキングを繰り返している、見た目地味で本物のコミュ障の30代の男の頭の中が、こんなにぶっ飛んでいるから世の中は面白い。
「なるほど、でも…人間はバーチャルなキャラに触れることはできないんでしょう?」
「いや…」八幡透は急に口ごもる。「やっぱり、…その、…ボディタッチというのは大事かな?」
「切ないわね、触れることができないのは…、本当に切ない」
「そ、そ、そ、そうだろう? そ、そ、そう思うだろう? 夏子ならわかってくれると思ったんだ、だよなあ、切ないよなあ」
「でもグリッドって物理的に存在するんでしょう? リアルな人間が通り抜けられないでしょう?」
「そうなんだよ」
「だったら、その空間にどうやってリアルな人間を入れるの?」
「まあ、天才ならアイデア浮かぶんだろうなあ…」
「大丈夫よ、八幡さんなら」
「嘘八百の八方美人ってお前のことか?」
「私なんてかわいい方ですよ、三次元の女はこんなものじゃないわ、よろしくお願いします、八幡先輩」
私は電話を切った。
それから数日、八幡透も記憶天使も私の頭の中から消えていた。どうやら、その二つを一つにしてアウトプットすることで、気がすんでしまったらしい。しょせん私などその程度だ。相変わらず暇だったが、くだらないことを考えている時間はいくらあっても足りない。
突然、珍しくオフィスの電話が鳴った。
「原宿探偵事務所です」私は応答した。
「冬春夏子さんはいらっしゃいますか?」慇懃無礼な女の声。年齢はおそらく私よりもやや上。
「私ですが」
「つかぬことをお伺いしますが、記憶天使に会った探偵はあなた?」
私は思わずのけぞった。漫画みたいに。「どうしてそれを?」
「検索しました」
私はPCの検索画面に「探偵 なつこ」と打ち込んだ。まさか「記憶天使」とサジェストが出るかと心配したが取り越し苦労。あの投稿はまったくバズッていない。表示された結果を見ても「原宿探偵事務所」のウェブサイトはトップページには出てこない。なんという検索への執念、私は半ば感心する。
「実は、最近そういったお問い合わせが増えて困っておりました」私は嘘をついた、そんなものは一件もない。「記憶天使なんて会ったことありません」本当のことを私は言った。
「そうですか…」
次の言葉を待ったが返って来ない。「お役に立てず申し訳ありません」私は会話を終わらせるフレーズを口にした。
「待ちなさいよ」女の口調が突然変わった。「あなたでいいわ、他を探すの面倒だし、あなた日当いくら?」
「ご依頼の内容によりますが、まずお名前頂戴できますか?」
「シマダよ、嶌田ルナ、いまヒマよね?」
「ええ」
「そこにいてよ、すぐに行くから」