第5話 薫陶の豆、お挽きします。
畦道を少女は歩いていた。畦道といっても今は二月。田んぼに稲はない。
「疲れた……」
トボトボ歩くこの少女、名前は七海。小学六年生だった。
今日も週二回の剣道の稽古だった。自分が行きたくて行っている稽古ではなかった。
物心ついた時からと言えば嘘だが、まあ小さな頃から通っている道場だ。
先生は厳しいし、体力は使うし、さらに週《《二》》回も行くのが苦痛だった。
しかし、七海はそこまでいつものように落ち込んではいなかった。
道場が閉校になることが決まったのだ。
習い事に行かなくて済むのは気が楽だ。
そんなことを考えるとスキップしたくなった。
転んだ。そんなもんだ。
いつもこの横断歩道を渡って、Y字路を左に進むが、少しばかり右の細道が魅力的に見えてきた。
夕方の細道は恐ろしく見えていたが、気分屋の好奇心が誘う。
草木をかき分け進むと見たことのない一軒の喫茶店があった。
「甘いカフェラテ始めました」と幟に書いてある。
好奇心は収まることを知らず、気づくと店内だった。
「いらっしゃいませ」
一人の優しげなおじいさんがカウンターを拭いていた。
「こちらにどうぞ」
さっきまで拭いていたカウンター席を指差す。
メニューが置いてあったので開いてみた。驚いた。
◎真相ブレンド お気持ち代
◎真相カフェラテ 微糖 お気持ち代
これだけ? そう思った。
「その二つのみです」
まるで七海の心の声が聞こえたかのように話す。
「カフェラテは新しくはじめましてね。甘いメニューもあってもいいかと思いまして。まあ、まだどなたもご注文なさってないんですが……」
「お気持ち代? っていうのは……?」
「ご満足いただいた分だけお支払い頂ければ大丈夫という今です。こちらも最近メニュー表示を改めましてね、元々は時価としていたんですがそぐわないと思いまして」
おじいさんはにこやかに優しそうな顔で話している。
「あの、あと真相ってついているのはなんなんですか?」
「お客様が抱えていらっしゃる知りたい真相を、一杯のコーヒーを介して触れることのできる特別な一杯です。コーヒー豆にその真相に関わるお話をしていただいて、その豆で挽いた一杯を提供しております」
少し考えた後、七海は
「カフェラテ、お願いします」
「かしこまりました」
おじいさんはカップいっぱいにコーヒー豆を注ぐと、七海の前に置いた。
「どうぞ、お話しください」
七海は恐る恐る口を開いた。
七海は小さい頃に父と母が別れ、母のみのひとり親世帯だった。
小さい頃だったし、父にも会うこと自体少なかったので、まったく記憶がないのだが。
母は昔から気が強く、こうだ! と思ったことは簡単に曲げないタイプで、今剣道を習っているのも母の影響だった。
七海が小学三年生の頃、母に誘われ、とある剣道場に行った。
一人の優しげな男性が、子供達に剣道を教えている。
小学生より小さいような子から中学生、いや高校生だろうか。それぐらい幅広くかつ生徒の数も多かった。
この男性こそ、師匠である智治だった。
「かっこいい……」
そう思ったのが始まりだった。
勢いで入ってしまった。
七海は運動神経は良くない。覚えもよくなく、道場で同い年はもちろん、自分より歳の下の子にも負ける。
「センスがない!」
そう思っていた。何度もやめようと思った。
しかしやめなかった。理由があった。
「七海! シャキッとせぇ!」
師匠だ。いつも他人の倍、七海には厳しい。
「七海! 残れ今日は、竹刀の振り方を教えてやる」
こんな感じで残らされたりすることもある。こうしてみんなが終わった後も練習をさせられていた。
「やるやないか! 七海! いつもその振りでやってくれ!」
しかし褒められれば嬉しい。いつもの指導では見せない、最高の笑顔で微笑んでくれる。
七海にはその笑顔が眩しくも美しくもあった。でも、
「私なんか上手くないのになんで構うんだろ。私より上手い人に指導をたくさんした方が絶対にいいのに……」
七海にはそう不思議に思う日も少なくなかった。
そう七海が知りたい真相は、師匠がなぜここまでに七海に手を焼くのか、だった。
七海は話し合えると少し俯いた。
「それではカフェラテ、お作りしますね」
おじいさんはコーヒー豆を機械にかけはじめた。苦い香りがつんと鼻を刺す。
「あ、あのー、おじいさんみたいな、喫茶店で働く人ってなんていうんでしたっけ」
「そうですね、マスターと言われることが多いんじゃないでしょうか」
「ま、マスターかぁ。なんかかっこいいですね」
その言葉ににっこりとおじいさん、じゃなかったマスターが微笑む。
微笑みは師匠の方がいいなんて思いながら、カフェラテができるのを待っていた。
コーヒーが出来上がり、マスターが粉砂糖と生クリームを注ぐ。
「カフェラテにはミルクを入れられる方が多いんですが、私は生クリームを入れる方が濃厚で美味しいと思うんです。まあ、コーヒーフレッシュはもってのほかですが……。とは言っても生クリームは脂肪も多いのでそれを気にされる方もいらっしゃいますが、美味しさをそれで諦めてしまうのは、なんとももったいなくはありませんか?」
そう言いながら、七海の前にカフェラテを置いた。
「一口目は混ぜずにそのままお飲みになってみてください。二口目からはこちらのスプーンで混ぜていただけば良いです」
言われるがまま一口そのまま飲む。続けてスプーンで混ぜたカフェラテを飲む。
「少しだけどなんか違う!」
七海は思わず叫んでしまった。
「特別な生クリームなので少し普通のでは、変わらないかもしれませんが、もしよかったらお家でも試してみてくださいね」
カフェラテはじめて飲んだが、すぐにこれはいいカフェラテだとわかる美味しさに感じられた。
飲み干すと、すぐさま眠気に襲われ、突っ伏して寝てしまった。
オギャーオギャー
遠くで赤ちゃんの鳴き声が聞こえる。
そこには赤ちゃんをあやす母と一人の男性がいた。よく見ると師匠だった。
「なんかやっぱり父親似なのかなー?」
「そうか? 香織にもよく似てると思うけどな」
とても仲が良さそうだった。
「名前はねー、ななみがいいの!」
「ななみ? いいじゃねーかそれにしようぜ!」
そう、七海の父親は智遥だったのだ。
数日後、病院を退院した母と父が言い争っていた。
「え、七海が生まれたばっかなのに、熊本に異動になった!?」
「シー! 七海が起きるだろ。九州への進出の拠点として熊本を選んだらしいんだけど、どうしてもその新事業に俺を投入したいらしい」
「どうにかならないの……?」
「課長に上に掛け合ってもらってるんだが、どうにも……」
「じゃあ……」
「単身赴任ってことになるよな」
こうして二週間後、父は熊本へ引っ越していった。
——一年後
「帰って来れなくなった?」
『ああ、一年で帰任の予定だったんだが……』
「あと二週間で帰ってくると思って楽しみにしてたのに……」
『九州進出において昇進が決まって……、でも必ずなんとかして休み作って帰る日を作るから……、待っててよ……』
その父の声に自信はなかった。
結局、智遥が休みを見つけて帰ってくることは叶わず、二人のメッセージも途絶えるようになってきた。
ついにこの二年後、二人は七海を傷つけたくないという理由で、七海もほとんど記憶のないうちに離婚することが決まった。
別れた後も生活はあまり変わらなかった。親権は母にあるとはいえ、父の仕送りは続いていた。
その額は少しずつ増えていき、母は仕送りを通して父の頑張りを知っていた。いや見守っていたが正しいかもしれなかった。
離婚後二人は会うことはなかったが、七海が七歳の時だった。
——香織、そっちへ帰れることになった。相変わらず一人暮らしだけど、昔の友達のお父さんが、家の近くの剣道教室を閉校することが決まって、そこで剣道の師匠をやらないかって言われたんだ。
そう母のところに父からメッセージが来ていた。
師匠は確かに七海が入った時は、継いだばかりだと言っていた。
母は
——いまはピアノを習わせてみたんだけど、パパに似て、中々根気がないっていうか……
とメッセージを返した。
その次の日、熊本へ赴任してから初めて帰ったお盆以来、実に七年ぶりに父と母は再会した。
再会といってもスーパーでばったり会っただけだったが。
「七海も成長したか?」
「顔はやっぱり私に似てるけど、性格はまるで智遥だけど」
父は少し申し訳なさそうに、
「あの話、考えてくれたか?」
「七海多分今年いっぱいでピアノに飽きて辞めるだろうから、ちょっと真面目になってもらうために行かせようかな! 智遥が師匠なら心配いらないし」
「ほんとか!」
「うん、連れて行く時期が決まったらまた連絡するわ」
そういって二人は再び別れた。
場面が切り替わり、七海が三年生の時みたいだ。
「お母さーん! ピアノできなーい! センスない!」
「じゃあ七海、違う習い事始めてみない?」
「ちがう習い事?」
「そう! 近くに剣道場あるの知ってる?」
「剣道? え、なんかカッコよさそー!」
こう言って七海は剣道を習い始めた。そこに裏があったのだ。
父は父じゃなくなっても七海を見守っていたかったのか。
最後に場面は家に切り替わった。
夕方だから七海がちょうど道場から帰る時間だろう。
『香織、また異動が決まってな。道場を閉めることになった』
「あんたはそれでいいの?」
『七海が頑張る姿を見れただけで十分だ。あいつに気付かれる前に目の前を去るよ』
「仕事、頑張ってね」
そう言って母は電話を切った。
七海は目を覚ますと、なんだか目元が熱くなるのを感じた。
財布を開き、入っていた五百円を取り出し、カウンターに置いた。
前がぼやけてマスターの顔は見えなかったが、優しく微笑んでいるのを感じた。
何もいうことができないままら店を出た。
「ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
夕陽が店内に差し込み、カップを輝かせていた。
——翌日の日曜日
朝ごはんを食べると、ジャンパーを羽織り、
「お母さん、ちょっと出かけてくる!」
と言って家を飛び出す。
風を切って走る。今ならどんなに早くも走れる気がした。
もちろん行き先は、道場だった。
道場で素振りをしている人がいた。
「師匠、いやお父さん?」
父は驚いたようにこちらに振り向く。
「まさか七海、分かったのか」
「お父さんなの? 本当に私の!」
少しためらうようにして
「ああ」
そう呟いた。七海は容赦なく、
「どうして、どうしてお父さんなら教えてくれなかったの?」
「俺には父親を名乗る資格なんかない。香織と七海を裏切ってしまった。それに、七海が頑張る姿を見るのに、父親である必要はない。この道場に通わせたのも俺のわがままだし、でも実際、七海は頑張っていた。それを見られればいいんだ」
「私も一緒に行く!」
「ダメだ! 七海は中学にちゃんと入って、母さんを支えてやってくれ。愛されてくれ」
その言葉に七海は何も言い返せなった。
少しの沈黙の後、その沈黙を破るように一台の車がやってきた。
「智遥! 閉めるぞ!」
「あいつが俺の昔の友達で父ちゃんがこの道場の師匠だったんだ。まあここの管理人だな」
「お、嬢ちゃん門下生か?」
「う、うん。ここ誰も使わないの?」
七海は気になって聞いてしまった。
「もう剣道を教えられるやつがいねーんだ。来年から近くの中学の練習場になるんだ」
「七海が通う学校だな。剣道続けろよ? 俺と同じ飽き性だとしても」
そう言って父の友達が鍵をかけた。
「この道場に私もぜったい戻ってくるから、お父さんも、戻ってきてよね!!」
「ああ、もちろんだ」
そう言って父が七海の頭を撫で下ろした。
「んじゃ行くか」
そう言って父は友達と車に乗って行った。
「また! 会おうね!!!」
七海が涙ながらに叫んだ。
「おう!」
高らかに朝の空に響いた。
——友達の車の中
車は七海との距離を開かせる。
サイドミラーには手を振る七海が映っていた。、
「何泣いてんだよ、ししょ……、いやもう父さんか。ダッセェ父親は嫌いだぜぇ」
「悪かったな」
智遥は袖で涙を拭き、鼻を啜った。




