Ⅵ:選択
「身体は大人になっても心はあの時のままよ。ヴァルスの時間は止まってるの。あのふたりの精神年齢はきっと同い年くらいね」
女医は湾曲した三台のモニターを背にして、ブラックコーヒーを片手に視線を送りデータを“Jackal”へと送信した。直感通信端末(ICD)のスクリーンには、癖毛の黒髪とそばかすが目立つ、黒目がちの少年が正面を向いて写っている。泣き腫らした顔を記録するのは少し気が引けたが、いずれ更新すればいい、とタスクを優先して割り切った。
「適性検査の結果よ。まずは回復が先だけど、一応ね」
まだほんのりと湯気の立つコーヒーをひと口含み、カレンドラは検査結果と報告書に改めて目を通した。
十四歳という年齢の割に幼すぎる点が目立つが、興味と好奇心の対象にのみ突発的に見せる驚異的集中力、原理原則の理解、構造認識力は目を瞠るものがある。特に機械工学への興味は目覚ましく、中でも物理、化学の知識に長けている。
「敵には回したくないわね」と、差し入れのコーヒーと一緒に報告に来た、カサブランカの軽いジョークは、あながち冗談でもなかった。類稀なる才能に恵まれながらも、その力に取り憑かれたふたりの科学者の血があの少年の中で脈づいていることは、紛れもなく明らかだ。
「技術開発部か、まあ、妥当だが、まだ早過ぎるだろ」
ジャッカルはデータを受け取ったが、たいして目も通さずに直感通信端末(ICD)を緋いジャケットの内ポケットにしまい込んだ。女医は冷ややかな目つきでその軽薄な手を見遣り、呆れた吐息を漏らした。
「そうね、でもそれが彼の選択。今は、あなたやヴァルスのような“対象”ができて抑圧が解かれていっている状態。本当に大変なのはこれからよ。だから、あなたが見ていてくれる方が安心だわ」
ジャッカルは苦笑いを浮かべた。誑かしたのはどっちだ、と無言でぼやいたが、今さらどうこう言う気にもなれなかった。人間理解に強かさ、端麗な容姿まで兼ね備えている彼女に噛みついたところで、到底勝ち目などない。
そんな不敵なはずのカレンドラが溢した“安心”というひと言に、男の笑みはゆっくりと消えた。
「車に乗せてやる」と言って何とか歩かせ、地下巣本部に着くまでに泣き止みはしたものの、キースは明らかに自制が効かなくなっている。
あんな、情が移るような真似は、すべきではなかった。
ジャッカルは小さく舌を鳴らした。
カレンドラは“不器用なお人好しさん”の小さな後悔を澄ました視線で見届けると、赤いメガネの縁を指で軽く持ち上げてさっとデスクに向き直った。いつも予告もなく現れて長居する誰かさんのせいで、スケジュールが刻々と詰まってゆく。女医は男の隙を利用して、テキパキとタスクを進めた。キースのカルテは既に纏てある。あとは中央のモニターで既存の医療機関の精神科と外科の情報保管庫に送信するだけだ。カレンドラは神足家の経済状況や通院履歴データから適当な三件の医療機関に的を絞り、キースに埋め込んだチップのコードを実装したプロテクトデータを忍び込ませた。暗号化されたプロトコルはランダムで割り当てられ、受信する際には自動で書き換わるようプログラムしてある。これにより足跡は霧散し、送受信元は特定されず、データが手元に蓄積することもない。あくまで、この地下巣本部は存在しないのだ。
「ヴェルフィンから連絡があった。γ(ガンマ)には調査を依頼しておいたわ」
作業のキリがつくと、カレンドラはくるりと椅子ごと振り向いた。ふわりと跳ねた金糸の巻毛と、まるで女優のような長い睫毛の流し目が、油断していたジャッカルの視線を惹いた。しかし、γ(ガンマ)と聞いてサーペントの気に障る顔が邪魔をして、男はすぐにげんなりと沈んだ。
「それと、彼女、何だかご機嫌ナナメだったわよ?」
ヴェルフィンは律儀で実直な性質で、約束は必ず守る。それはたとえ、どんなに不機嫌な時でもだ。カレンドラはだんだんと眉間に皺を掘り込んでいくジャッカルの表情を密かに愉しみながら、少しカップを回して残ったコーヒーを口に運んだ。
「珍しいわね、任務は完了したのに引かないなんて。それも、終末期患者病棟にいる対象を。───虱潰しでも始める気?」
女医はその瞬間、冷やりと笑顔が凍りついた。
「どうしても気に入らないんだよ、あの女の顔がな」
それは正しくα(アルファ)部隊のヘッド、冷酷無慈悲な“ジャッカル”の顔つきだった。