I : 死神
男は息絶えた二つの亡骸を前に立っていた。一体は髪を乱し赤黒い水溜りに伏しているブラウスの女。もう一方の男の方はその白を殆ど失った緋い白衣の上で目を剥いて事切れている。しかし男の関心はこのほかにあった。息を殺し耳を尖らせ、虫の息すら逃さぬ鋭い集中力で、白い化学式に似た模様の天井を険しく睨み据えている。そうしてしばらく神経を研ぎ澄ましたが、生活機器の規則的な音調の中にそれを乱す気配は何も感じなかった。
生体反応、なし。残るは屋外か。
胸元にしまったサーモスコープの出番はなく、手順を省き男は持ち前の本能と勘で着々と事を進めた。躊躇いもなく女の顔の前にしゃがみ込むと、慣れた手つきで赤黒い水溜りから顎を掬い上げ、瞼をこじ開けて瞳に小型のペンライトを照らした。毛細血管が切れ緋く濁った白目の中に、暗い緑色の虹彩が埋まっている。男はすぐさま胸ポケットから小さなピックを取り出すと、その虹彩の縁に差し込み、ぺろりと薄いフィルムを剥がした。すると微かに透ける黒曜石のような黒い虹彩が現れた。
獲物、沈黙。対光反射、義眼の疑いなし。
確認事項を無言で読み上げながら、男は微かに嗅ぎ取った違和感に眉を顰めた。中央に小さな穴の空いた丸い額に手を伸ばすと、黒いカーボングローブを嵌めたまま、金色の前髪に指を通し、何度かがさつに掻き分けてみた。しまいに生え際にライト当て目を凝らしたが、その違和感の確証は何も得られなかった。苦い顔を上げると、その対極に転がっている仰向けの男を睨んだ。女とは不釣合いなほど年輪の刻まれた顔の一面、上向きの手の平、腕の側面にまで無数の切り傷が散らばり、腹部に五箇所の刺し傷、さらには後頭部まで砕かれ、割れたメガネと脳髄を鏡面の床にぶち撒け絶命している。不釣り合いは余計なお世話だな、と、男の顔に悪びれる気もない皮肉を無言で吐いた。この無惨な男の身元は確認するまでもない。
自然保護回復強化区域科学研究所所長、神足融
資料や報告書で嫌になるほど眺めた顔だ。現場での最終確認を終えるべく、ふたり分の血液サンプルを採取し、ベルトに取り付けた検査キットの反応を待つ間、手持ち無沙汰の男は片膝を立て、荒れ果てた部屋の様子を暇潰しに見渡した。
名付けるなら、過剰な合理主義の部屋だな。
リビングの壁にはヘアラインの扉が並び、中央にはおそらく3D機能付きの無機質な大型モニターが埋め込まれている。これらはすべて生体認証操作で制御するのだろう、コントローラーの類いは一切見当たらなかった。その手前に飾り気のない硝子の天板が嵌った正方形のローテーブルが据えられ、その手前にある背を向けたグレーのソファからは、唯一クッションのやわらかさを感じられた。手前に続くキッチンには、争いで砕けた冷たいカウンターが流線型に伸びているが、食事をした形跡もなく、食器どころか調理器具すら見当たらない。ただひとつ男が目にした調理器具といえば、女の脇に転がっている細いステンレスの果物ナイフだけだった。あれも普段はこのどこかに隠れてれているのだろう。水道やシンクはオブジェの如くただそこに虚しく無用に存在している。見れば見るほど人造人間の棲家のようだった。
こんな暮らしは死んでもごめんだ。
嘆きにも似た嫌気を噛み締めながら無言でぼやき、検査キットに視線を戻すと、男はひと際渋い顔でため息を漏らした。
それは、音もなく現れた。首の無い真っ黒な影が白く霞む眩しい外界を覆い隠し、そこにぬらりと立ちはだかっている。
─── 死神だ。
瞬きも忘れ、唯一動かせる眼球で顔のない不気味な影を凝視していた。すると上の方から長い首をぐにゃりと曲げ、凹凸もない影の中に大きなひとつ目が仄白くぼうっと浮かんで見えた。少年はもはや全身の糸が切れたように脱力し、すべてを投げ出し意識を失いかけていた。影は仄白いひとつ目を傾け、ゆっくりと近づけると、じっとこちらを見定めはじめた。
─── やっと、迎えが来たんだ。やっと、終わる。
その瞬間、胸の深い深い奥底から、失くしたはずの恐怖が突然噴き出してきた。身体は軋むほどに凍りつき、声を出そうにも喉が詰まる。喘ぎもがくほどに、か細い喉が締め付けられ、あの白い目に生気を吸い取られているような気さえした。次第に意識が朦朧と溶け始め、最後に自分の声を聞いたのはのはいつだったかと、曖昧な記憶を辿るうちに、焦りはしまいに諦めに変わった。最期の抗いに、突如跳ね起きた不安定な身体はぐらりと後ろに傾き、意識は遠い暗闇へと静かに沈んでいった。
冷たい金属のプレハブに近づくのには、少々時間を要した。わずに開いた隙間から漂うそれは、数多の死線を潜ってきたこの男ですら躊躇うほどの、気重な臭いを放っていたからだ。眉間に引き鉄を引く方がよほど気が楽だと、男は無言でぼやいた。しかし、生存者の捕獲も任務の一環だ。柄にもなく立ち竦む男を誘い込むように、ひらひらと舞う粉雪が暗い隙間に消えてゆく。男は手にした銃のスライドを慎重に引きながら、消音ブーツの踵から爪先にかけてゆっくりと体重を移動させた。一度扉に背を預け、息を潜め動きを探る。しばらく耳を欹てたが、動きは無い。しかし男は警戒を弛めなかった。軍隊上がりの新入りが、八歳の子どもにフォークで脚を刺された事例が報告にあったことは、記憶に新しい。傷は大動脈を掠めて大量出血。幸いにも待機中の医療班が駆けつけて一命を取り留めたが、その間に目撃者である子どもは逃走。ささやかな油断が、任務遂行上最悪の結果を招いたのだ。多くの仲間を危険に晒したその新入りが辿った末路は、この男の目に焼き付き、また新たな深い傷痕を遺した。男はその身に染みついた手順通り、実行に移った。開口部を避けて立ち、扉に左手をかけ、その手首の上に銃身を載せ、斜め下に向けサプレッサーの銃口を構えた。そして散漫気味の意識を深呼吸で整え、息を止め、一気に扉を開いた。