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XIII:追憶

 

 風が、揺れている。茎か木の葉か、さわさわと擦れ合い、遠く、近く、合唱のように、だんだんと大きく騒めいている。蒼い若草と、あたたかな土の薫りに(まぶた)を開くと、睫毛(まつげ)に連れて乾いた穂先が額を撫でた。(おぼろ)げな瞳で空を見上げる。金色(こんじき)に白む荻の群れが、まるで獣の尾を揺らし、目を醒ましたぞと見下ろしている。身を横たえたまま手を延べて、立ち囲む茎を鷲掴みに束ねると、強かな葉が指の背を浅く傷つけた。(おもむろ)に身体を起こし、草地を支えに立ち上がる。


─── そして、その景色を忘れぬように、(まぶた)を閉じて、大きく息を吸い込んだ。


黄昏(たそがれ)の、炎を映す水鏡。

波に揺れ、まろやかに揺蕩(たゆた)(とろ)けた()

森深い尾根の谷間、金色の穂波に包まれて、水面(みなも)の果ては、遠く宵の紫雲へと()けている。


思慕か、魂の郷愁か、(まばゆ)い光に胸を焦がし、火照る瞳を闇に還した。


さわさわと、穂先が肌に(たわむ)れる。

やさしく手を広げると、無邪気に揺れて指を(くすぐ)り、思い思いに撫でてゆく。


濡れた睫毛(まつげ)をまた押し開ける。

空と融け合う、(おうぎ)水面(みなも)

陽炎(かげろう)のように煌めく夕陽、曖昧な、白い姿が水辺に浮かぶ。

白金の、髪を(なび)かせるその背中。


振り返ることのない、あの背中を、知っている。


ひと際強く、風が吹く。

水際に、波紋が揺れて、惑い拡がる。


穂波を掻くも、みるみる遠のく、その背中。


やがて、沈みゆく、白い影。

黄昏に融けて、消えてゆく。




 永い、永い、夢を見ていた。キースという名の少年の夢だ。彼には広くて大きな家と、ふたりの両親がいた。小さな頃は母親に甲斐甲斐しく可愛がられ、何をしていても褒めそやされた。父親は仕事の合間に集結協和都市(クラスター)中を案内し、水門橋(セパル)管状道路(ヴェッセル)の仕組みや、動力のことを熱心にたくさん教えてくれた。時には、秘密の通路を通って自然保護回復強化区域(サンクチュアリ)の研究施設に遊びに行った。そこで初めて、生きた獣を見た。綺麗な小鳥の声を聞いた。そして、母親とそっくりの、黒い瞳の女性に逢った。


それから、両親が少し忙しくなった。家では機械が世話を焼き、パウチとサプリばかりが時間通りに皿に並んだ。時々、やさしかったあの女性に、また会いたくなった。物心つくと、彼は集団教育機関(クレイシュ)に参加した。郊外私有地(サバンナ)の子どもは少なく、みんな高層集合住宅(アントヒル)から通っていた。彼は、みんなのことがよく解らなかった。みんなも、彼のことがよく解らなかった。教育用人造人間(プロフェッサー)は、誰でも同じようにやさしかった。勉強は、退屈だけど好きだった。でも本当は教育用人造人間(プロフェッサー)授学(エチュード)より、得意げに話す父親の授学(エチュード)の方が好きだった。


ある日、科学の実技(プラティーク)で工作があった。独りの作業に夢中になって、父親から教わった“動力”の仕組みを応用した。でも、あれは、間違いだった。みんなの見る目が怖くなり、教育用人造人間(プロフェッサー)も何か変だった。そしてあの日から、集団教育機関(クレイシュ)には、もう行けなくなった。


あれから、ほとんどの時間を自分の部屋で過ごした。自分で学び、自分で好きな分野を研究して、色んなものを分解し、色んなものを造ってみた。その頃から、両親はあまり口をきかなくなった。忙しいはずの母親が家にいるようになった。それなのに何故かお洒落をしはじめて、ある日黒い髪をやめ、ある日黒い瞳も変わっていた。両親はだんだん口論が増え、だんだん喧嘩するのが日常になった。母親はいつも怒る相手を探していて、目が合うだけで怒鳴ってきた。父親はほとんど家に帰らず、久しぶりに戻ると部屋に来て、何も言わず、寂しそうな目で、ただ彼を抱きしめた。 


母親が非道く気が立っている日は庭先の物置に逃げ込んだ。ある時その場所も見つかって、当てつけに鍵を掛けられた。朝が来ると大抵は鍵が空いていた。時には数日そのままだった。そのうち食欲が失せてゆき、何もする気にならなくなった。最後に造ったのは、科学の実技(プラティーク)で造った工作を少し改造したものだった。いつか誰かに見せたかった。でも見せるのが怖かった。だから、クローゼットの隅っこの宝物入れに隠しておいた。


父親の仕事は嫌いだった。でも、いつも父親が恋しかった。あの歴史を知り尽くした知識と、集結協和都市(クラスター)に命を吹き込んだ技術を、あの穏やかで無邪気な話し方で、もっともっとたくさん教えて貰いたかった。そんな父親も、変わってしまった。自分の息子が、もう誰だか解らなくなってしまった。夜中に独りで帰って来て、ある時は母親の名前を呼んで泣きじゃくり、ついにある時は(すが)り抱きついて来た。


少年は、誰が誰だか解らなくなった。

母親が母親でなくなった。

父親も父親でなくなった。


自分が誰なのかすら、もう誰も解らなくなった。


そしてあの日、(うつぶ)せに眠る父親をベッドに残して、庭先の倉庫に逃げ込んだ。


もう、あそこに戻る気はなかった。


ずっと、ゆっくりと眠るなら、暗くて、静かで、独りになれる場所が良かった。




 いつから、洞窟の中にいるようだ。それとも目を失ったのか。(まぶた)の向こうに光がない。身体に力を込めても水の中のように動かない。苦労して身を(よじ)ると、膜を張った向こうから、パキパキと砕ける硬い音と聞き覚えのある声が聞こえて来る。鼻に掛けたような嫌味な話し方だ。応答しているのは誰だろうか。あまり聞き取れない声だった。


「気づいていたなら、合図ぐらい出すのがマナーじゃないのか」


水膜の向こうから嫌味な声が近づいて来る。どうやら、慌てて起き上がる必要はなさそうだ。気に障るはずのその声の主に思い当たり、意外にも妙な安堵感を憶えた。酷い目眩(めまい)と鼓膜の痛みに耐えて頭を転がすと、もう一度、意識が諦めかけた。目を少し開けると、亀裂の入った白い天井が見えてきた。身体が重い。充電の切れた人造人間(ホムンクルス)のようだ。手足がだらんと垂れ、まるで言うことを聞かない。突然、緋色のジャケットが現れて、顔の上にばさっと落ちてきた。手探りに摺り下ろすと視界の左上の方に、何処からか拾って来た椅子に腰掛けた、埃まみれのサーペントが映り込んだ。横柄に気取って足を組み、不機嫌に見下ろすだけで、どうやら手を差し延べる気はないらしい。


「 ─── ふたりは?」

「連行した。お前のその図体のせいで、ひと苦労だった」

「ヴァルスもか?」

「当然だ。この結果を招いた原因にほかならない。わざわざ忠告を施してやったと言うのに、油断したな、ジャッカル」


軽く鼻を鳴らすと、腹を括ったジャッカルは、勢い良く振りをつけて起き上がった。肩や背中の激痛は(こら)えられたが、鳩尾(みぞおち)を抉る痛みには思わず吐き気を催した。幸い、脚は比較的無事のようだ。ふらふらと立ち上がり、(かす)む目を細め、様変わりした部屋の中央辺りを見遣った。崩落した天蓋に押し潰され、折れた白いベッドが地面にのめり込むように沈んでいる。


“ すべては、地下都市(マリス)の言いなり ─── ”


地下都市(マリス)だ。セラは、おそらく下にいる”


金色(こんじき)の草原 ─── あの日、あの水辺から、すべての糸が繋がってゆく。憎みたくなるほど克明に、運命が地下で手薬煉(てぐすね)を引いて待っている。


─── どうせ、見逃してくれる気はないんだろう?


しばらくその場に足を(うず)めていたが、はたと辺りを見渡し、所々で瓦礫(がれき)を蹴り上げながら、ジャッカルは腹を抱えて歩き出した。下を向くたび、崩れた白壁に緋い鮮血がぽたぽたと滴り落ちる。サーペントは呆れてものも言えず、奇人の不可解な奇行を怪訝(けげん)な顔で傍観していた。しかし当の本人は何処吹く風だ。


「・・・おい、俺の銃は何処だ」

「 ─── 鏡を見ろ。いくらお前が“不死鳥(フェニックス)”でも、歩く気が失せるぞ」


ジャッカルは、その懐かしい響きに、ふと足を止めた。


錆びた血の味がする。皮膚が破れ、骨が砕けた。おそらく内臓も傷ついたろう。それでもまた、起き上がった。まだ、しぶとく息をしている。


生きているなら、歩くしかない。

立ち止まっていても、仕方がない。

何処へ向かうのか知らないが、風の向く方へゆくしかない。

呼ばれる方へ、気の向く方へ、ただただ歩いて、生きてゆくしか知らないのだ。


背を向けたまま皮肉に自嘲し、男は、一歩、また一歩と歩き出した。


「余計なお世話だ“ハミルトン” ─── 後始末は任せたぞ」


サーペントは心底深いため息を吐き、脚を組み変えると裾の埃を払い、センタークリースの端に小さな(ほつ)れを見つけて引き抜いた。そろそろδ(デルタ)部隊のスカベンジャーズ(掃除屋)が来るころだ。光沢の残る紺色の糸を指に絡ませ、紳士はこの荒れ果てた部屋の弁明を優雅に思案しはじめた。




茫々と、くぐもった音が響いている。鼓膜がじんじんと痛み、頭が酷く割れそうだ。貪欲な現実がまぶたの隙間から差し込もうとしている。目を開けるのを拒んで、(まぶた)をきつく閉じた。それでも、もう夢には戻れない。皮膚のあちこちが熱く痛む。どうやら“今日”はまだ続いているようだ。背中と肩に残る鈍い痛みの記憶に触れると、あの瞬間、目前に大きな手が回り込んで、()ぎ倒されたのを思い出した。


─── あのあと、ふたりは、どうなったのだろうか。


薄らと目を開けた。胸の上に埃を被った黒いジャンパーが掛けてあり、仄暗く、しんとした窓のない小部屋に寝かされている。しかし、部屋というには違和感がある。凹凸の走る低い天井に厚みはなく、両脇には収納棚(コンパートメント)が並び、その下には止血帯や点滴用のパックとチューブが掛けてある。少し頭を動かすと脳が掻き回されるようだった。悪心を(こら)え、また辺りを見渡した。頭上にあるモニターは暗く、まだ起動すらしていないようだ。すぐ横の狭い台には止血帯が見え、使用済みのガーゼが投げ出されていた。髑髏(どくろ)のような、(はえ)のような、不気味な白いマスクを憶えている。あのマスクの下の、こもった声を途切れ途切れに聞きながら、担架(ストレッチャー)に載せられ、ここへと運び込まれた。今度は誰にさらわれ、何をされるのか。そう思うことすら、もう出来ない。


あの声が消えてから、どれくらい時間が経ったのだろう。

“彼ら”はまた、戻って来てしまうのだろうか。


手探りで台を掴み、ゆっくりと上半身を起こした。無理に頭を動かすと今にも危うく昏倒しそうだ。脚を片方ずつ移動し腰を捻って向きを変え、ベッドから足を垂らした、その時 ─── 。


ゴトン。


裸足が、何かごつごつとした硬いものに触れて、転がった。




壁を伝って(ようや)く建物の外へ出ると、見慣れた救急搬送車(スロンバス)を見つけた。何が“連行”だと片頬を歪めていると、横並びに停まる奥の車体から白い装備をつけた眼鏡の青年が現れ、よたつく男を見るなり血相を変えて駆け寄った。


「パンサー、悪いな」

「ジャッカル、今担架(ストレッチャー)を向かわせたのに、歩き回ってはダメだ!」


パンサーはすぐさま眼鏡のテンプルに触れて担架(ストレッチャー)を呼び戻した。


「いいさ。それより、ふたりを寄越せ。俺が預かる」


律儀で真摯な青年は無線に手を掛けたまま、今にも倒れそうな男のニヒルな薄笑みを見つめて無意味な葛藤を廻らせた。その表情(かお)の意味は初めから解っていた。ジャッカルはいつも、既に答えを知っている。パンサーは仕方なく観念し、ジャッカルの脇から手を回して、一回りも大きいその男を担いで白い車両の方へと歩き出した。




コンコン。


少し前を行くパンサーが、白い救急搬送車(スロンバス)の車体を指の背で叩いた。返事がないので、パンサーはゆっくりと肩から手を離し、背と腹を支えてジャッカルをその場に待機させた。そして車両後部の正面に立ち、虹彩認証で開錠し、今まさに扉に両手を掛けようとしている。何故か、その動作が異様に遅く、時間が止まりそうなほどに、景色がゆっくりと流れた。ジャッカルは朦朧(もうろう)とする意識で、ほんの少し開いたその黒い隙間をぼうっと眺めていた。その時、ふと、あの夜の獣が乗り憑依うつったように記憶が鮮明に甦った。


“わずに開いた隙間から漂うそれは、数多(あまた)の死線を(くぐ)ってきたこの男ですら躊躇(ためら)うほどの、気重な臭いを放っていた。警戒を(ゆる)めてはいけない。軍隊上がりの新入りが、八歳の子どもにフォークで脚を刺された事例が報告にあったことは、記憶に新しい。ささやかな油断が、任務遂行上最悪の結果を招いたのだ”


ジャッカルは、咄嗟に湧き上がった力でパンサーの腕を掴んで背後へ投げ飛ばし、我が身を乗り出した。


“眉間に引き(がね)を引く方がよほど気が楽だ”


その時、何故かまた、獣の声が還ってきた。


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