Ⅻ:代償
まるで、悪夢を見ているようだ。いつか父親の研究室で目にした、あの“成果”の数々。あの酸鼻を極める光景を決して忘れるなと、まざまざと脳裏に焼き付けられている。拒絶を繰り返す心は赦されず、身体は縛られ“現実を見ろ”と動かない。待ち焦がれた嘗ての希望は変わり果て、展翅のように酷たらしく磔にされていた。糜爛が波打つ乾涸びて黄ばんだ皮膚、剥き出しの頭皮に疎らに貼り付く黒髪、見る影もないほど紅斑に崩れた顔。赤く爛れた瞼の中の浮腫んだ白目からは黒い瞳孔が覗き、喰い入るように見つめられている。その強烈な視線は少年の自由を奪い、拒む意識を掴んで離さない。
─── これは本当に、あの写真の女性なのだろうか、
あの研究所で助手として紹介された、やさしかった、あの ─── 。
後退りする少年を引き留める瞳は、哀しみと歓びが混濁した潤みを湛え、絶えず揺れ動いていた。やがて女は名残惜しそうに視線を外し、天蓋に下がるセンサーに瞳を向けた。すると、ブラックモニターが起動し一面に英数字が白く浮き上がる。女は一度ゆっくり瞬きをすると慣れた様子で縦横無尽に視線を文字盤の上に走らせた。緑色の光が残像を描いて文字盤の上を飛び交い、下部のインプットバーに次々と単語を連ねはじめる。その単語はまた飛んで来た光によって選別され、右側のモニターの左上を始点につらつらと文章を構成してゆく。キースは一連の流れを目で追いかけ、無意識にそのモニターを読み上げていた。それが三行目に差し掛かったところで、唐突に透き通った女性の声が何処からともなく流れてきた。
“ ─── あなたは賢い。何もかも気づいていた。”
直感音声機器の生成した朗らかで単調な機械音声を聴きながら、キースは、あの声を聴くことはもう二度とできないのだと静かに悟った。
“ ─── 私は、あなたのお父さんを心から愛していた。彼は、本当に素晴らしい科学者。私たちはこれまで、たくさん社会に貢献した。私たちなら何でも実現できると思えた。でも、私の身体は禁足地と研究の影響で、だんだん冒されていった”
横たわる女性の身体に気の咎める視線を這わせながら、キースは抑揚もなく淡々と流れ続ける機械音声に耳を傾けた。少年の意思とは乖離した博識が、見るものすべてを知らしめる。ケロイド、黄疸、浮腫、胃瘻 ─── ここまで衰弱した状態で苦痛と無縁のはずがない。腕や腹に刺さる管からは栄養補助剤と鎮痛剤が投与され続け、節々に嵌められた白い枷は、強制的に運動を促し褥瘡を悪化させないための器具に違いない。天蓋に取り付けられた自動計測器と人工知能により恐らく規則的にすべての管理がなされている。彼女は固く閉ざされた、無機質な部屋を選んだ。人も、人造人間をも寄せつけず、血の通わない会話と、従順な機械と生きる道を選んだのだ。マリーは文章を入力する合間に濁った瞳で、涙を浮かべる愛しい顔に精一杯の恋しい視線を注いだ。
“ ─── あなたのお父さんは、ずっと子どもを望んでいた。でも私は、健康な子どもを産む自信がなかった。だから、あなたの運命を妹に託した。本当は、傍にいて、いつもあなたを見護っていたかった。でもそれは叶わなかった。私は、あなたを置いて消えた。─── その結果、私はあなたを苦しませてしまった。本当にごめんなさい。キース、どうか私を赦して”
「綺麗ごとも程々にしろよ、マリー・マイトナー」
キースは思わず強張り、わずかに顔を振り向かせた。少し嗄れたその声は唸るように低く、重い怒気を孕んでいる。厳重な扉が上下に口を開け重なる扉が左右に裂けると、大きな銀色の銃を手にした、黒いジャッカルの姿が現れた。
─── 死神だ。
それはもう、少年の知る“ルイス“ではなかった。額に稲妻のような怒りを刻み、天色の瞳は陰に暗み、凶暴な視線でキースを一瞥した。その時ついに耐え切れず、感情の最後の一滴がその瞳から溢れ落ちた。
「先に言っておくが、名乗る気はない。弁解するならこれが最期だ。もうお前に後はない」
ジャッカルは眩しさに険しく目を細め、不気味な静けさで中央へと歩み寄る。首まで覆う漆黒のスーツは白い光を浴びて六角形の鱗模様を顕にした。少年と青年の向こうから、嫌悪を剥き出しにする視線を睨み返しながら、ベルトに装着した直感通信端末を二、三操作した。天蓋を取り囲むモニターに黒縁の眼鏡をかけた和かな男が大きく映し出される。それを皮切りにα(アルファ)部隊が収集した“任務の結果報告”が女の眼前に次々と流れた。写真が切り替わるに連れ、瞠った瞼の縁が裂け、浮腫んだ瞳がみるみる滲みだし、ついには絞り出すような呻き声をあげた。紅い涙が頬を伝い、ベッドを揺さぶり、繋がれた管が乱れてもなお、ジャッカルは眉ひとつ動かさず平然とその有様を眺めている。
三面のモニターは頭、胴体、下半身と切り離された父・神足融の横たわる姿で停止していた。最期まで死を拒んだであろうその顔は天に縋り、刃物に裂かれ、脳髄が飛び散る血溜まりの中に転がっている。キースはいつの間にか、その残忍な光景を乾いた表情で見流していた。不思議と何も感じず、声を出そうとも思わず、見るものすべてが遠く、すべての顔が見知らぬ誰かに思えてくる。夢か現実か、生か死か、すべてが曖昧にぼやけ、胸を締めつけていた痛みも何処かへ消えた。漣に揺られる意識の頭上から、朗らかな機械音声が続いて、白い部屋に流れはじめる。
“ ─── あなたは私の“夫”を殺した。人殺し。あなたは、希望を奪った。私たちは未来を失った”
「生憎だが、殺したのはサロメだ」
マリーはチューブを咥えた唇を戦慄かせて驚愕している。キースは熱を感じるほどまで迫ってきた男を虚ろな視線で見上げた。その関心は傍の少年には目もくれず、マリーと呼ばれた女にだけ注がれている。
「 ─── 希望だの、未来だの、一体どの口がほざいていやがる」
冷静な声音とは裏腹に、その顔は怒りに蒼ざめ、噛み締めた片頬が震え、漲る眼光は女の顔を焼き付けんばかりに見下ろした。
「お前の言う“希望と未来”の免罪符の下でどれほどの犠牲が生まれたか、現実をまともに直視したことがあるのか?お前の身勝手な理想が何を狂わせ、何を奪い、何を背負わせたのか、解ってるのか?」
放つ一言一句が、自らの胸に錆びた釘を打ち込んでゆく。ジャッカルは次第に冷静さを失ってゆく己に気づいていた。右手の銃を頼りに硬く握り締め、揺らぐ信念を貫き通し、その深い痛みに独り耐え忍んだ。マリーは目元に反発と動揺の色を浮かべ、沈黙した。蛇腹のホースを繋ぐ計測器が赤い数値を示し小さなピープ音が鳴り続けている。女は幾らか落ち着いて一度深く呼吸すると、また文字盤の方に視線を向かわせた。
“ ─── サロメは、私の子を産むことを選んだ。そうすれば融が自分のものになると信じていた。私は醜く朽ちて死ぬ運命。だから、融もサロメを選んだ。でも、融が本当に愛していたのは私。それは仕方ない。サロメは科学者としては全くの無能だった”
モニターに向けられていた瞳が暫し宙を漂い、ゆっくりと瞬いたあと、一筋の紅い涙が頬を伝い白いシーツに染み広がった。
“ ─── でも、息子は違う。キースは私たちの才能を受け継いだ。私が育てるべきだった。その方がきっと幸せだった”
恐ろしいやさしさに潤む瞳は必死に少年に訴え、呑み込んでしまいそうな引力で見つめている。眩暈を覚えたキースは朦朧とする意識を諦め、その暗い暗い瞳に吸い込まれていった。
「反吐が出るぜ」
途端に、爛れた瞳がぐるりと動き、悍ましい形相でジャッカルを睨んだ。そして再び緑色の光が文字盤の上を激しく這い回り、無機質で朗らかな声が淡々と反論を朗読しはじめた。
“あなたには解らない。あなたたちのような人間は、気に入らなければ消すだけ。浅はかなな獣たち。私が何故この身体を犠牲にして研究を続けたのか、知ろうともしない。何故私たちが禁足地から、危険を顧ず資源を採掘しなければならなかったのか、考えもようともしない。あなたは“今”を見ていない。だから“未来”が見えていない。あなたたちこそ、現実から目を背けている”
「なるほど、あの思想の根源は、この女か」
薄暗い監視室で腕を組み、独り静かに傍聴していた紳士は感嘆のあまり呟いた。終焉を目前に懺悔すら拒む女が、拷問に喚くこともなく、銃に泣くこともなく、見事につらつらと自白している。不精で不器用な男の愚直な台詞が、こともなげに獲物の扇情に成功するとは、実に不可解だ 。さらにはジャッカルが珍しく執拗にこの女を追っていた理由もまた、明らかになりつつある。サーペントは直感通信端末の録音状態を今一度確認し、硝子ごしに口元を歪め、無礼な男の天賦の才に不満と不服を示した。ふとその時、影と化していた銀髪の青年から不穏な気配を察し、すぐさま右中指に触れると顎下に紋章型の指輪を構えた。
“源力は既に奪われた。地上都市の議会は抜け殻。すべては、地下都市の言いなり。私たちが自ら力を取り戻さない限り、不毛な地上に残された人類に、未来は、ない。愚かな議会は耳を貸さなかった。それでも、私の“夫”は、最後まで諦めなかった。本当の敵は地下にいる。それなのに、あなたたちは、勇敢で無抵抗な研究者たちを殺した。あなたたちは、野蛮な卑怯者。あなたは、臆病な悪魔”
霹靂が走った。肚の底から激流が駆け昇り、滾る力は、抑え込もうとすればするほど牙を剥き喉笛の底から咆哮した。衝動的に床を蹴り、ベッドに飛び掛かったヴァルスは一瞬でマリーの胸ぐらを掴み上げた。皮膚に爪が喰い込み、慄く女に喰らいつこうとしたその瞬間、ガクンと身体が静止した。
「ヴァルス、抑えろ」
耳元に沈着な声が囁いた。気がつくと、心臓が飛び出そうなほどに脈打ち、目と鼻の先で右手に握ったコンバットナイフが小刻みに揺れている。その鋒は筋張ったマリーの首をわずかに破り、緋い血が漏れていた。それでもなお激情が漲り、張り付く太い腕を引き千切らんばかりに迸る。ジャッカルはヴァルスのすぐ背後で左腕を上から掴み、右肩の関節を後ろから押さえ込んだ。しかしその華奢な腕からは想像もできないほどの凄まじい抵抗に加減を忘れ、ヴァルスの肩がわずかに軋んだ。少しでも気を緩めると反動でナイフが獲物の喉に突き刺さる。慎重に力を込め、ゆっくりと首元から刃先を引き離すと、ナイフを握る左手を背中側に回し、震える肩や腕を摩りながら、耳元で声を掛け続けた。
「ヴァルス、息を吸え、大丈夫だ。ゆっくり呼吸を整えろ」
興奮は穏やかな声に宥められ徐々に鎮まりつつある。ジャッカルは頃合いを見てそっと指を開き、強張る手からナイフを抜き取った。背筋を冷やりと汗が伝っている。サーペントからの無線がなければ既の所で間に合わなかっただろう。礼を言うかはさておき、お蔭で危うく難を逃れた。
その重みを背負うには、まだ早すぎる。
ヴァルスに注意を残したままナイフをベルトに隠すと、不意に、音も立てない少年の様子を不審に思った。すぐさま背後に意識を向けはじめると、いつからか、掠れた声が途切れ途切れに聴こえていたことに気がついた。
「 ─── もう、いい。もう、いいんだ ─── 」
ジャッカルは言葉を失った。少年の顔から心が消え、伏した瞳に光はなく、まるで闇の底を深く見据えるように凪いでいた。キースは、ひた、ひた、とベッドに歩み寄り、マリーの顔に手を延ばすと、紅斑の浮く頬にそっと手を添えた。そして白い枷に固定された腕を辿り、丁寧に手の平を天井に向け終えると、窪みの真ん中に黒く四角い小箱を包ませた。
「これ、大切にしてたよ。でも、返すね。─── ありがとう、お母さん ─── 」
マリーは溢れ落ちそうな眼球を必死に動かし小刻みに唇を震わせながら、その黒い小箱を見つめた。骨と皮の指をぎこちなく蠢かせ、やっとの思いで箱の蓋に爪が掛かった。手の中に沈む微かに重いその感触は、それを手放した時の憐れな心情を呼び起こした。その箱を大切そうに抱き、小さなベッドに眠るまだ目も開いていない、愛しい我が子の姿を。
それはエメラルドのように光る、危うくも美しい鉱石。かつて、融から手渡された、研究に明け暮れた不器用な男の、初めての小さな贈り物だった。
「伏せろ!」
真っ白な閃光が一瞬ですべてを呑み込んだ。
強烈な熱波を背中に受け、吹き飛ばされたジャッカルは床を滑り、激しく壁に打ちつけ、瓦礫の中でやがて意識を失った。




