表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/47

第五話:同じ空の下~晴翔、二〇一六年初夏~③

 瑞々しく生命力に満ちた若葉が木々の先で薫風に揺れていた。蒼穹から降り注ぐ薄暑光に早い夏の気配を感じながら、僕はうっすらと額に滲んだ汗を指で拭う。

 東大寺でかの有名な大仏を見た後、僕たちは奈良公園を訪れていた。公園内のそこかしこに鹿がうろついており、値踏みするような目で余所者の僕たちを見ている。

 公園の中を歩いていると、中年の女性が鹿せんべいを売っている露店があった。

「鹿せんべいだってさ。なあ、晴翔、あれ鹿にやってみようぜ」

 そう言うと、蒼也はスポーツバッグの中から迷彩柄の二つ折り財布を取り出して露店へと近づいていく。せんべいをもらえることを悟ったらしい鹿たちが蒼也の周りに集まり始める。

 同じ班の女子たち三人も、蒼也に続いて鹿せんべいを購入すると、周りの鹿たちへ与え始めた。僕もブラックデニムの小銭入れを制服のズボンから取り出すと、露店の女性から鹿せんべいを買った。

 鹿せんべいを片手に僕が財布をしまっていると、いつの間にか鹿に取り囲まれてしまっていた。僕の左手に握られた鹿せんべいが、鹿たちによって容赦なく奪い取られていく。

 あっ、と声を上げると鹿にせんべいをあげていた蒼也がこちらを見た。班の女子たちも何事かと僕へと視線を向ける。「うわ、津城何やってんの」「どんくさー……」「あれはないわー……」女子たちがひそひそと何か言っているのが聞こえてきて耳が熱くなる。

「晴翔、なにやってんだよ」

「財布しまってたらその間に全部持ってかれた……」

 やれやれと蒼也は小さく肩をすくめた。なんとなく僕は悔しくなって、もう一度財布を出して百円玉二枚を手のひらに取り出した。そして、財布をズボンのポケットにしまい直すと、僕はもう一度露店の女性から鹿せんべいを買い直した。

 露店の女性から新しい鹿せんべいの束を受け取った。そして、僕は周りに群がってきていた鹿たちに一枚一枚せんべいを与えていった。

「鹿のツノって触ったらどんな感じなんだろ」

「気になるけど触るのちょっと怖いよね」

「だよねー、わかるー」

 せんべいを鹿にあげ終わった女子三人がそんなことを話しているのが聞こえてきた。僕は近くにいた鹿の生えかけのツノにおそるおそる手を伸ばし、そっと触れてみた。暖かな体温と産毛の感触が指先に伝わってくる。

「おい、晴翔。何やってんだ、そろそろ行くぞー」

 もしゃもしゃと何かを咀嚼しながら、蒼也が僕の背を叩いた。学ランの袖口の下から覗く腕時計に視線をやると、十六時五分を指している。十六時十五分に、現在自由行動中の僕たちは近鉄奈良駅の前に集合することになっていた。そろそろ向かわないと間に合わなくなる。

 僕は鹿のツノから手を離すと、蒼也を振り返る。

「ああうん。ところで、蒼也何食べてるの?」

「ん、ああこれ? 鹿せんべい」

「それ……おいしいの?」

 僕がそう聞くと、全然と蒼也は首を横に振った。

「味しねーし、何かぱさぱさしてる。なんでこいつらこんなもん好きなんだろ」

「さあ?」

 そんなことを話しながら、僕たちは先を行く女子たちの後ろについて歩き出す。視線の先では、ほんの少し夕方の色を帯び始めた日差しを浴びながら五重の塔が佇んでいた。


 翌朝、十時に僕たちは京都駅の中央口改札前で地元ボランティアのガイドと合流した。僕たちの班を担当するのは、幸野谷清孝(こうのやきよたか)という七十代の老人だった。

 僕たちの班は、これから朝イチで宇治に向かう予定だった。班の女子たちがどうしても平等院に行きたいといって譲らなかったからだ。

 そのことを以前にLI-NGで、レナに愚痴ったら、馬鹿じゃないのと現地民の彼女には呆れられた。更に二条城や金閣寺、銀閣寺にも行くのだと話したら、彼女は呆れを通り越して爆笑していた。現地民は普通、一日でそんなにあちこち行ったりしないものらしい。どうやら僕たちの今日の移動距離は彼女曰くなかなかにエグいものになるらしいが、きっと現地ガイドであるこの幸野谷という老人がうまいことやってくれる。と、僕は信じている。というか信じたい。

「なあ、晴翔。もう一回言うけど、抜け出すなら今のうちだぞ」

 よろしくお願いします、と女子たちが幸野谷に挨拶している横で、肘で蒼也が僕をつついた。昨日も言っただろ、と僕は蒼也を小突き返す。

「行かないってば。約束してるわけでもないし、そもそもそんな勝手なことするわけにいかないだろ」

「せっかくの機会だってのに。ほんと、そゆとこ真面目だなー」

 昨夜も俺たちとずっと大富豪やってて例の彼女と連絡すら取ってなかったもんなー、と蒼也はつまらなさそうに言う。

「別にいいだろ」

「まあそうだけど。あ、それよりもう行くみたいだぞ」

 ちょっと男子ー十五分の電車乗るから早くしてー、と班の女子の一人――高峯綺星(たかみねあやせ)が僕たちを急かす。僕と蒼也はICカードを翳すと、改札を抜ける。京都市内はバスが発達しているが、平等院のある宇治市へ向かうには電車を使うしかないらしい。

「津城ー、七海ー、こっちー!」

 同じ班の南条咲那(なんじょうさな)が僕たちを呼ぶ。僕たちは幸野谷と女子たちが待つエスカレーターのほうへと足を急がせる。九時をすぎて少し減り始めた通勤客たちが、迷惑そうに余所者の僕たちを避けながらすれ違っていった。

 改札を入ると、僕たちは右側にあるエスカレーターを上り、西口方面へと通路を進んだ。そして、通路の突き当りまで来ると、十番線のホームへの階段を降りていく。正面に新幹線の改札やコインロッカーが見えた。

 僕たちがホームへ降りると、既に城陽行きの列車が入線してきていた。幸野谷について、僕たちは列車に乗り込み、横並びの座席へと腰を下ろす。

 窓の外では、一本前の奈良行きの列車が八番線のホームから滑り出していくのが見えた。レナの忠告を信じるなら、こんなふうにゆったりとしていられるのは今だけだ。一体これからどんなハードな一日が僕たちを待ち受けているのだろうとこれからの数時間に思いを馳せながら、僕は発車時刻を待った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ