第六章:奇跡の終焉⑨
若い女の声に名前を呼ばれ、リスルは意識を取り戻した。リスルは自分の身体を揺すっていたシスター服に身を包んだ黒髪の女の姿を認め、掠れた声でその名を呼んだ。
「……シスター・アイリス」
「レイモン神父がお呼びです。動けますか?」
ええ、と頷くと、リスルはアイリスの手を借りて、冷たい床に敷かれた敷物から身を起こす。どうやら怪我人たちと一緒に寝かせられていたらしいとリスルは理解した。
立ち上がろうとすると、膝ががくりとなり、上体が泳いだ。さっとアイリスが手を差し伸べ、リスルの体を支える。どうやらもう、自力で立ち上がるだけの体力も残ってはいないようだとリスルは悟る。
ゼエンに対して、《レーヴェン・スルス》の力を行使したにも関わらず、命を落とさなかったことが奇跡に近い。もうほとんど自力で動くことすらままならないといえ、ぎりぎりのところでまだリスルは持ち堪えていた。
アイリスの肩を借りながら、リスルは石段を登っていく。
石段を上り終え、礼拝堂の隅へと出ると、側廊を通り、リスルは外へ出た。
夜が明けていた。朱と金のグラデーションが東の空を染めていた。
猛火に焼かれた地面はまだ熱さを残していたが、ところどころで小さな煙が上っている以外、炎は全て消し止められていた。炭になった建物の黒い残骸があちらこちらに点在していて、村は廃墟のようだった。
「……シスター・リスル」
躊躇いがちに男の声がリスルの名を呼んだ。
「レイモン神父」
煤と泥で黒く汚れ、あちこち焼け焦げた法衣を纏った壮年の男がそこにいた。
「シスター・リスル。村長を助けていただき、ありがとうございました。それで……あの、イーシュ君なのですが……」
言いにくそうに言葉尻を濁し、レイモンは目を伏せる。リスルは胸がざわつくのを感じた。嫌な予感が膨らんでいく。彼女はレイモンをきつい口調で問いただす。
「イーシュが……イーシュがどうしたっていうんですか、レイモン神父。答えてください!」
「イーシュ君は……あちらです。あちらにいます」
リスルはレイモン神父に示された方へと視線を向け、網膜に映った事実に息を呑んだ。視線の先で真っ黒に焼け焦げた小柄な人影が地面に横たわっていた。その顔には申し訳程度に布が掛けられている。
「詳しいことはわかりませんが、崩れた建物の下敷きになっていた子供を助け、イーシュ君自身は逃げ遅れたようです」
「イーシュ……! 何で……!」
リスルは身体を支えていたアイリスの腕を振り払い、イーシュの元へ行こうとする。しかし、リスルの足にはもう彼女の体重を支える力はなく、彼女は顔から突っ込むように地面へと倒れる。彼女は力の入らない腕を懸命に動かし、横たわるイーシュの元へと這っていく。
リスルは動かないイーシュの体を抱きしめると、その胸へと縋り付く。彼の体の深部まで達していそうな全身のひどい火傷に、リスルの目から涙が溢れた。そのとき、リスルは自分の耳元でどくりという脈動の音を確かに聞いた。とても弱くて小さい音だけれど、イーシュの心臓はまだ鼓動を刻んでいた。
「生きてる……! まだ、生きてるわ!」
リスルは自身の汚れた上着の肩口で乱暴に涙を拭うと、顔を上げる。ほんのりと縁が赤くなった目を閉じ、彼女は目の前の深く傷ついた少年を救いたいと強く願う。
リスルは心の中で眩い光を思う。イーシュを死の闇の中から引き戻すための朝の光だ。柔らかく美しい金色に照らされたこの世界で彼に今日という日の朝を迎えて欲しかった。
リスルの手に朝日と同じ色の光が柔らかく絡みつく。彼女の髪は淡い黄赤へと変化していた。
イーシュの体を金色の光が覆った。少しずつ傷が癒えていき、体表に滑らかな肌色が戻り始める。しかし、イーシュの意識は戻らない。
リスルは明け方の空を染める朱色の双眸を開く。イーシュの体を包む光が眩さを増す。
リスルは自分の体の機能が失われていくのを感じた。目の焦点が合わず、視界を闇が侵食していく。体が末端から動かなくなっていき、死の冷たさが指先から全身へと広がっていく。
今度こそ死ぬのだな、とリスルは思った。湖畔の風車小屋を出たときから、何となく今日が自分にとって最期の日になるのではないかと予感はしていた。けれど、最期にイーシュを救い、生涯を終えることができるのなら、構わないと思った。
イーシュには恨まれるかもしれないとは思う。けれど、リスルは彼に生きてほしかった。そのためなら、自分にほんの僅かに残った命の力を全て、彼の中へ注いでしまおうと思えた。
リスルの心臓が最後の鼓動を刻み、沈黙した。イーシュを包む光が薄れていき、冬の冷たい朝の空気の中へ消えていった。同時にリスルの髪と瞳も元の色を取り戻していく。
リスルは遠くなる意識の中で、自分の名前を呼ぶイーシュの声を聞いた。
(イーシュ……よかった……)
そう思ったのを最後にリスルの意識は死の闇の中へと飲み込まれていった。
彼女はもう動くことはなく、数多の命を救った奇跡の軌跡はここで途絶えた。
頬に冷たい風を感じた。瞼の裏側で眩しい朝の光の存在を感じ、イーシュはゆっくりと目を開く。
胸の上に重さを感じた。ぼんやりとしていた視界の焦点が次第に合っていき、イーシュはその正体を知った。
「リスルさん……?」
イーシュの体を抱きしめ、彼の胸に頬を寄せるようにして、リスルが眠っていた。安らかでどこか満足げな寝顔だった。
ゆっくりと体を起こしながら、そもそも自分はどうしてここにいるのかと、イーシュは訝しげに記憶を探る。救助活動中に生き埋めになっていた子供を《アイゼン・メテオール》の力を使って助け出した後、雪崩れ落ちてきた瓦礫の下敷きとなって身動きが取れなくなり、イーシュ自身は逃げ遅れたはずだった。しかし、身に纏った服こそ真っ黒に焼け焦げているが、体にはわずかな火傷一つない。喉や目が熱や煙にやられて痛むということもなく、不自然だった。
イーシュはリスルが息をしていないことに気づいた。そっと体に触れると、彼を抱きしめるリスルの腕は、熱を失い、ひどく強張っていた。
「何で……」
イーシュは呆然として呟いた。イーシュが意識を取り戻したことに気づいたレイモンは彼に近づくと、静かに首を横に振った。
「あなたは全身に大火傷を負い、瀕死の状態でした。シスター・リスルは、自らの命と引き換えにあなたの命を救うことを選び、その生を終えたのです」
「リスルさん……何でそんなこと……」
リスルは本当に馬鹿だとイーシュは思った。喉の奥から嗚咽が漏れる。
イーシュはこんなことは望んではいなかった。リスルが死ぬくらいなら、自分のことなんて見捨ててしまってほしかった。恨み言と一緒に涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
レイモンは膝を折って、イーシュと目線を合わせ、
「……あなたたちがロイゼン山に向かう前に顔を合わせたときには、きっと彼女は既に自分の死を覚悟していたのでしょう。虫の知らせとでもいうのでしょうか。
そして、彼女はどのみち自分の死期が近いことを知っていたからこそ、その分あなたが生きることを望んだのでしょう。イーシュ君にとっては迷惑かもしれませんが、彼女はきっと、まだ若く、先のあるあなたに希望を見ていたのだと思います。
どうか、ただ一つ覚えていてください。彼女はあなたを大切に思っていて、幸せに生きてほしいと最後まで願っていたことを」
イーシュは泣きながら頷いた。
イーシュだって、彼女のことが大切だった。強くて、優しくて、格好良くて、美しい彼女のことが好きだった。だからこそ、彼女に憧れもしたし、ほのかな感情を抱きもした。まだ彼女に何も伝えられていないし、返すこともできていなかった。
イーシュはもう動かない彼女の体を抱きしめて、泣き続けた。
夜は完全に明け、淡い青へと色を変え始めた空に朝の光が白く降り注いでいた。




