第六章:奇跡の終焉⑦
レイモンに案内され、礼拝堂の地下に造られたひんやりとした石造りの部屋に足を踏み入れた。先日、レイモンに導かれてロイゼン山から戻ってきた彼女とイーシュが一時的に身を隠していた場所だった。
床に敷かれた織物の上に並んで寝かせられた怪我人たちの呻き声やすすり泣きが反響して聞こえていた。逃げる途中で怪我や火傷を負った者が多く、その悲惨な光景はさながら戦場のようだった。
「シスター・リスル。シスター・アイリスと手分けして、怪我人の手当てをお願いします」
レイモンがそう言うと、かがみ込んで怪我人の傷の様子を見ていた腰まである黒のストレートヘアに菫色の瞳のシスター服の娘がちらりとこちらに一瞥をくれ、会釈をした。リスルも彼女へと会釈を返す。
レイモンは、すみませんがよろしくお願いしますね、とリスルへと頭を下げると、石段を駆け上っていった。それをちらりと見ながら、リスルは泥と煤で汚れた手を手近にあった洗面器の水で清めた。
リスルのそばに右足に怪我を負った中年の女性が寝かされていた。礼拝堂の斜向かいに住むマイアだった。リスルは膝を折り、マイアの傷を見ようとした。しかし、彼女がマイアに触れようとしたとき、その手が振り払われた。
「触るな……! あんた、『悪魔の力』を持つ『魔女』だろう!」
穢らわしいと言わんばかりに、表情を歪めてマイアはそう言い放った。その目の奥には得体の知れないものに対する恐怖が浮かんでいる。
先程、レイモンが事情を説明し、ここに集められた人々を言い含めてはくれていたが、人の負の感情というのはそう簡単に覆るものではない。
「わたしに対して何を言おうと、何を思おうとそれはあなたの勝手です。ですが、今は非常事態です。聞き分けてください」
リスルは静かな声で言い返した。しかし、リスルのその毅然とした態度が癪に触ったのか、マイアは喚き続ける。
「やめろ! 『魔女』なんかに触られたら足が腐る!」
「……お言葉ですけど、わたしが治療せずに放っておいても、その傷だと足が腐るかもしれませんよ」
「……」
リスルが冷静にそう告げると、女性はようやく静かになった。リスルの治療を受け入れる気になったというよりは、投げやりになってされるがままになったというふうではあったが、リスルはそれでも構わなかった。
リスルは彼女の右足の裂傷を確認し、傷口を洗った。ぱっくりと開いた傷を見ながら、これは何針か縫わないと駄目そうだとリスルは判断した。
「すみません、縫います。痛いかもしれませんが、我慢してください」
「……好きにしな」
マイアはぶっきらぼうにそう答えると、リスルから視線を逸らした。リスルは祭壇の上に揃えられたいくつかの薬の瓶と針、手燭を持ってくる。
リスルは茶色い液体の入った小瓶の中身を傷口に振り掛けて消毒し、糸を通した針を手燭の火で炙る。別の瓶に詰まった緑色の軟膏を傷口の周りに塗布し、なるべくマイアが痛みを感じることがないように感覚を鈍麻させた。
リスルはかつてレイモンに教えられた知識を思い出しながら、慎重に傷口を縫っていく。皮膚に針の先端を刺したとき、まだ痛覚が残っていたのか、女性は一瞬びくりと肩を震わせたが、何も言わなかった。
縫合が終わり、化膿止めの軟膏を塗って、傷口に当てがった清潔なガーゼの上から包帯をくるくると巻くとリスルは立ち上がった。怪我人はこのマイア以外にも大勢いる。次の患者の手当てをしなければならなかった。
先程のマイアとの問答が効いたのか、拍子抜けしそうになるほどにその後の処置はスムーズに進んだ。リスルに対して、疑念や恐怖の眼差しを向けてくる者はいても、噛みついてくるような者はもういなかった。
リスルが火傷を負った女性の処置をしていると、階段の上が途端に騒がしくなった。目を凝らすと、担架代わりのトタンに乗せられた人間が、何人かの男たちに担がれているのが見えた。
階段を降りてきた男たちが担いできた人物が小柄な老人であることに気づくと、リスルは目を見開いた。その老人は、村長のゼエンだった。
「何があったの?」
リスルはゼエンを担いできた男たちへと問うた。彼は頭から血を流しており、意識がない。耳や鼻からも赤い筋が伝っていた。
男たちの一人が舌打ち混じりに忌々しいものを見るようにリスルへ視線を向けると、
「消火活動の最中に上から木材が落ちてきた」
端的な説明にリスルはそう、と頷くと問いを重ねる。
「村長はすぐに意識を失ったの? 吐いたりはした?」
吐いてはおらず、頭を打った衝撃で気を失ったみたいだったと男は答えた。それを聞きながら、リスルはざっとゼエンの頭部を確認した。左耳の後ろに痣のようなものが見て取れて、彼女は険しい表情を浮かべた。
(耳の後ろに痣ができている……よくない兆候ね。こういうときって確か、脳が出血している可能性があったはず……)
放っておけば命の危険がある。秋から冬にかけての季節が一つ移ろうまでの短い間だったとはいえ、イーシュのことを受け入れて見守っていてくれたこの老人をリスルは死なせたくなかった。
今、リスルにできることは一つしかなかった。彼女はイーシュと交わした約束のことを思った。胸が痛かった。
(あの子との約束……守れなくなっちゃうわね……。だけど、わたしはこの人を死なせたくない……!)
ゼエンの体を床の敷物の上に横たえると、リスルは膝をついて地下の冷たい空気を静かに吸い込む。体内に取り込まれた空気によって膨らんだ腹にぐっと彼女は力を込めた。彼女は目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。先程のロイゼン山での失敗を思うと怖くはあったものの、ゼエンを救いたいという一心が彼女を突き動かしていた。
リスルは脳内で暖かく優しい光を思い描く。春の木漏れ日のような柔らかく包み込んでくれる光だ。リスルの髪が赤い色を帯び始める。《ヴィサス・ヴァルテン》の力を行使するときの炎のような赤色ではなく、早朝の水平線を染める淡い黄赤に近かった。
リスルはゆっくりと瞼を開く。その瞳はいつもの能力の発動を示す真紅ではなく、朝焼けに似た透明感のある朱色だった。彼女の手のひらに柔らかな光が宿る。彼女はゼエンの頭部に手のひらを翳す。
ゼエンの頭の傷口にまとわりついた光が彼の中へと吸い込まれていく。次第に彼の傷が塞がっていく。
リスルはいきなり体が重くなるのを感じた。リスルは床へと崩折れた。視界が真っ黒に染まる。意識が遠くなり、体から力が抜けていくのを感じたが、彼女は意志の力で無理矢理自分を繋ぎ止めようとする。
(駄目……わたしは、まだ死ねない……死ねないの……!)
頭をよぎったのはイーシュのことだった。ようやく自分の人生を歩き出す気力を取り戻したあの少年を残して逝ってしまえば、きっと彼の心に新たな傷を刻んでしまう。
リスルの視界に次第に光が戻ってくる。しかし、網膜に映る景色はピントが合わず霞んでいた。もう自分の力で動くこともままならないけれど、幸いにもまだほんの少しだけ自分には時間が残されていそうだった。
室内がざわついていた。聖女だ、と誰かが呟いたのが聞こえた。聖女という単語が怪我を負った人々の間を伝播していく。
「シスター・リスル……あんただったか」
リスルのすぐそばで掠れた老人の声がそう言った。
「村長……! お身体は大丈夫ですか? 頭が痛いだとか、吐き気がするだとかそういったことは?」
ゼエンが意識を取り戻し、うっすらと目を開いていた。大丈夫だと頷くと、ゼエンは血で汚れた顔に微笑みを浮かべる。
「人々の怪我や病を癒しながら国内を転々とする『聖女』……話には聞いたことがあった。今ので確信した。あんたのことだろう?」
「人によってはわたしのことをそう呼ぶこともありますが……わたしには過ぎた名です。わたしはわたしにできることをしているだけですから」
ゼエンの言葉にリスルは苦笑した。
ともかく、ゼエンの命を無事に繋ぐことができた。そのことへの安堵により、ふっと緊張の糸が切れ、リスルは意識を失った。




