10話 初めてのお馬さん
電源ボタンを押しても動かない壊れたスマートフォン。
今やりりの数少ない持ち物の一つだ。捨てられるわけがなく、スマートフォンを鞄の中にしまい込みトボトボと歩く。
そんなりりを見て、生意気だったアーシユルも謝罪をする。
「悪かったが、あたしももうアレが見れないのは残念なんだぜ?」
これがアーシユルの言い分だ。
りりには謝っているのかいないのか判らなかった。
だが、怒っても仕方がない。と、今後早とちりしないで欲しいとだけお願いして諦める。
壊れたものは戻ってこないのだ。
俯きながら歩いていて気がついた事が1つ。
普通に歩いていた時は人々から好奇の目で見られていたが、俯くと顔が見えにくいのかあまり気にはされなかったのだ。
フードで黒い髪が隠されているのもあるが、りりと此方の世界の人々では根本的に顔が違う。
それらが見えないなら、りりはただフードを被って気落ちして歩いているヒトの1人でしかない。
そのまま意図的に俯いて歩いていると、とりあえずの目的地である馬宿に到着した。
そこで、りりの目に予想外のものが飛び込む。
「着いたぞ。ここで少し待……」
「ト……」
「ト?」
「トナカイだこれぇぇぇ!」
変にビブラートを乗せて突っ込む。
アーシユルが馬宿と言っていたので、てっきり馬が出てくるのだろうと思っていたのだが、実際にそこに居たのはどう見てもトナカイだった。
「りりの住んでたところではトナカイと言うのか。なるほど共通の言葉でも中身が違うことがあるのか……いいぞ。そういうことはもっと言っていけ」
アーシユルは興味深そうにそう言って、受付に話をしに行った。
木造で温かみのある馬宿で馬と呼ばれている生き物。
確かに馬とも呼べなくもない……頭にある前後に伸びる両角さえなければ……。
厳密には蹄を始めとしてあちこち違いはあるが、一番の差はやはりそこだ。
……と、りりは無理やり自分を納得させようと試みたが、試しに手で視界に映る角を隠して見たのだが……案の定、それは鹿系統の顔をしていた。
つまり、これは鞍の付いているだけのトナカイだ。
実際のトナカイのサイズはりりには判らないが、昔牧場見学で見た馬より少し大きめに見えた。
「馬車借りたぞ。早速出発だ。おっと、トナカイだったな」
りりがトナカイを観察していると、アーシユルがニヤニヤと誂いながら、受付から戻ってくる。
「いや私も本物のトナカイを見るのは初めてなんで」
「そうか。これからしばらく見ることになるからそんなにジロジロ見てやるな。さあ行くぞ」
馬宿の馬用出入り口の方からトナカイ……もとい馬が荷台を引いて出て来た。
現代人のりりだ。人力車ならともかく馬車など初めて見る。
しかも、引いてるのはトナカイ的生き物……流石によく判らなくなり頭をショートさせた。
そのまま眺めていると、トナカイが角を馬宿の柱に擦り付け始める。
よく見るとあちこちの柱に、その高さの箇所だけ削られた跡があった。
そんな姿を観察しているのを尻目に、アーシユルはヒョイと、かなりの高さのある荷台に飛び乗っていく。
「ほれ、非力で1人では乗れないだろう? ん?」
アーシユルは、首を傾げて幌馬車の|荷台から手を伸ばす。
荷台の後ろに足場は付いているものの、そこから中までの段差が酷く、乗るのは厳しそうに思えた。
だからといって、その荷台からずっとニヤニヤ見下されていては少々イラッとくるものがある。
りりは無言で差し伸べられた手をゆっくりと払い除けてよじ登ろうとする……が、やはり段差が大きくうまく登ることが出来なかった。
活発にはしゃいでいた小中学生の頃とは違い、社会人として生活していたので筋力が目に見えて落ちている。その上、此方に来てからずっと体が重いのだ。とてもではないが登れない。
それでも諦めずに試みるも、あっという間に息が切れてしまう。何も無しではよじ登れそうになかった。だからといって手をかされるのも癪に思う。
少し登ろうと頑張っていると、アーシユルの手により、りりが手をかけている木の段がギィと音を立てて手前に倒れた。
「あたしくらいなら飛び乗れるけど、子供や老人や、重装備の奴とかは、普通ここ開けて乗るんだよ」
アーシユルがニヤニヤしていた理由がこれだ。助言も与えず、ずっと見て面白がっていたのだ。
りりはカチンとしつつ、わざとらしくツッコミを入れる。
「子供か! あ、いや子供でしたね」
「ハハン……童顔亜人に言われても何ともないね」
アーシユルも臆することなく言い返す。
お互いニマリと笑った表情になっているが、その目は笑っていない。
視線が交差し、一瞬火花が散る……が、りりはフッと笑いアーシユルの頭に手を置く。
そして、ゆっくりと力を込めた。
幼馴染にやんちゃな男子が居たのだ。この手の嫌がらせならりりだって負けてはいない。
「縮め縮め縮め縮め縮め縮め」
「うおおおおお!?! やめろおおおお!!」
アーシユルは必死になって激しく手を振り払う。身長を気にしているのだ。
「阿呆か! こんな事してる暇ないんだよ。さっさと乗れ出発するぞ」
「なにそれ自分からやっておいて」
「いいから来い」
結局、少し顔を赤くして歯を剥いてイーと威嚇するアーシユルにより力強く手を引かれ、馬車に転がり込むことになった。
頭を押さえては掌を見てを繰り返すアーシユルを尻目に幌馬車の中を見渡す。
中には毛布があるくらいで他に特に何も無かった。
御者側は布で塞がれており、お互い様子が見れないようにしてある……と言っても、ボタンを開けて布をめくれば確認できるので、ただ閉めてあるだけだ。
「っと、待たせたな。出してくれ」
アーシユルが軽く叫ぶと、布の向こうから中年くらいの男性の声がする。御者だ。
「おう。分かったがうるせえぞ」
「うるせえ!」
「お前さんがうるさいんだよ」
アーシユルは口が悪い。当然のように御者から反論が返ってくる。
「いいからさっさと出せよ!」
「ッチ!」
布の向こう側から判りやすい舌打ちが聞こえた。
「あん?」
アーシユルも見えない相手にメンチを切るかのように聞き返す。
「出すぞーう。へい!」
御者はそこで切り上げてそれは終る。
りりはその口喧嘩にも似たやり取りをハラハラとした気分で聞いていたが、不思議とギスギスとした気配は感じられないのを不思議に思っていた。
少しして、これがここの普通なのだと認識をし、軽い目眩を起こす。やっていけるのだろうかと……。
ペシッとムチの音が鳴り、ガラガラとトナカイの幌馬車が進み始める。
トナカイ馬車の振動は強い。
車輪が歪なのか車軸の方が歪んでいるのかというのは見当がつかない。
その振動は、眠くなるか目が醒めるかという絶妙な揺れであり、どっち付かずのもやもやした状態でトナカイ馬車に揺られていった。
りり達の目的地は西。
その軌跡を追うように追跡者達が動き出していた。