エピローグ
全校無記名投票から数日後。朝のホームルームが終わると、俺は担任から廊下へ呼び出された。担任の手には、見覚えのある白い封筒があった。
表面には、以前と同じ「部活動設立審議結果」という文字が印字されている。
「生徒会からですか?」
「ああ。山府研究部の設立について、再審議の結果が届いた」
担任は封筒を俺へ見せる。
不承認の通知を受け取った時と、同じ封筒だった。
「先に結果から伝えるよ」
その言葉まで、前回と同じである。俺は、知らないうちに息を止めていた。担任が書類を取り出す。
「山府研究部の設立が、正式に承認された」
俺は、すぐには返事ができなかった。
「……承認ですか?」
「そう書いてある」
担任から書類を受け取り、自分で内容を確かめる。山府研究部について、部活動としての設立を承認する。その下には、活動にあたって守るべき事項が記されていた。
記録取扱規程を遵守すること。
調査協力者の募集や最初の連絡は、原則として顧問を通すこと。
規程の運用状況について、定期的に生徒会と学校側の確認を受けること。
どれも、俺達が再申請までに決めてきた内容だった。
「条件を守っている間だけ、設立準備を続けていいということではないんですよね?」
「正式な部活動として承認されている。ただし、設立できたから規程は終わり、というわけではない」
担任は、俺が持つ承認通知を指す。
「君たちが作った規程を、本当に運用できるかどうかはこれからだ」
「分かっています」
俺は、もう一度、設立を承認するという一文を見る。一度目の申請から、随分遠回りをした。
記録の扱いを決め、六家からの頼みを断れないと感じた生徒がいることを確かめ、最後には全校無記名投票まで行った。
その全てが、ようやく一枚の承認通知になった。
「これ、みんなに見せてもいいですか?」
「もちろん。その前に、原本は職員室で保管するから、写しを取らせてくれ」
担任はそう言って、承認通知を一度受け取った。教室へ戻ると、雪白さんが本から顔を上げた。渡部君も、俺が廊下へ呼び出された理由を察していたらしく、こちらを見ている。
「結果が届いたの?」
雪白さんが尋ねる。
「ああ」
「どうだった?」
俺は、少し間を置いてから答えた。
「認められた。山府研究部は、正式な部活動になった」
雪白さんは、ゆっくりと本を閉じた。
「そう」
それだけ答えた後、短く息を吐く。
渡部君は、穏やかに頷いた。
「よかったね」
「渡部君も、随分他人事みたいに言うんだな」
「今の僕は、まだ部員ではないからね」
俺は、その言い方が少し気になった。しかし、詳しく尋ねる前に、一時間目の授業を知らせる予鈴が鳴る。
俺は席へ戻りながら、紬へメッセージを送った。
『山府研究部、設立承認』
返事は、すぐに届いた。
『分かった』
続けて、もう一通届く。
『放課後、今までの書類を全部持っていく』
放課後。
俺、紬、室井君、雪白さん、大竹さんの五人は、担任とともに教室へ集まった。机の中央には、写しを取った設立承認通知が置かれている。
大竹さんは一番に書類を手に取り、上から下まで目を通した。
「ついに、正式な山府研究部ですわ!」
その声が、誰もいない教室に響く。
「今度は本当に正式だよ」
「わたくしは、最初から正式なつもりで活動しておりましたけれど!」
「学校が認めたのは今日からだからな」
「分かっておりますわ。そのくらいは!」
大竹さんはそう言いながら、もう一度、設立を承認するという一文を見る。
室井君は、記録取扱規程の遵守や、顧問を通した募集方法について確認した後、担任へ頭を下げた。
「御尽力いただき、ありがとうございました」
「先生は顧問として必要なことをしただけだよ。むしろ、これから仕事が増えそうで心配している」
「必要な御負担については、自分達も可能な限り補助します」
「募集の受付を、君たちが代わるわけにはいかないけどね」
「承知しています」
雪白さんも、承認通知へ目を通す。
「規程の運用状況について、定期的に確認を受けると書かれているわ」
「ああ」
俺が答える。
「設立後も、生徒会へ活動記録を提出することになると思う」
「その方がいいわ。設立前だけ規則を整えて、承認された後に守らなくなったのでは意味がないもの」
大竹さんも、今度は素直に頷いた。
紬は、これまでの資料をまとめたファイルを机へ置く。
最初の設立申請書。
不承認の通知。
何度も書き直した記録取扱規程。
全校無記名投票の実施要項と、その集計結果。
紬は、その一番後ろへ設立承認通知を加えた。活動記録の新しいページを開き、今日の日付を書く。
その下に、短い一文を記した。
『山府研究部、設立』
俺達は、その文字を見る。最初は、母の取材を手伝うために、高校生から見た山府を集めるだけのつもりだった。
それが今では、自分達の規程を持ち、生徒会の審議を経た、正式な部活動になっている。
「これで、ようやく始められますわね」
大竹さんが言う。
「今までも活動してただろ」
「設立準備ではなく、山府研究部として始められるという意味ですわ」
その点については、大竹さんの言うとおりだった。室井君は、承認通知をもう一度見た後、時刻を確認する。
「すまない。今日は、ここまでで失礼する」
「もう稽古か?」
「ああ。設立の結果を確認するまで待っていただいた」
室井君は席を立ち、もう一度担任へ頭を下げてから教室を出ていった。正式に設立された最初の日から、五人全員が最後まで残ることはできなかった。
室井君が教室を出ていったのと入れ替わりで、渡部君と湯田さん、星君が教室へ入ってきた。
「あれ、三人とも遅くまでどうしたの?」
「うん、ちょっと相談をしていてね」
そう言うと渡部君は、一枚の用紙を差し出す。
山府義塾高等学校、部活動入部届。氏名欄には、渡部弘人と書かれていた。
「入るのか?」
「そのつもりだよ」
今朝の言い方が気になった理由を、俺はようやく理解する。
「でも、投票の結果を見届けるために相談へ乗ってたんじゃなかったのか?」
「最初は、そのつもりだった」
渡部君は入部届へ目を落とす。
「ただ、全校投票を提案したのは僕だ。その提案によって全校生徒を巻き込み、生徒会にも大きな仕事を増やした」
「投票を実施すると決めたのは、俺達と生徒会だ」
「それでも、最初に方法を示した責任は残るよ。投票を促した本人が、部の設立だけを見届けて、その後は関係ありませんというのは無責任だろう?」
「責任を取るために部活へ入るのか?」
「きっかけは責任だよ。でも、それだけなら外から確認すればいい」
渡部君は、机の上の設立承認通知を見る。
「中に入って、君たちが次に何を始めるのか見てみたいと思った。それでは駄目かな」
「最初から、そっちを言えよ」
「先に言うと、格好をつけているみたいだろう?」
「今でも十分つけてるよ」
渡部君は、いつもの穏やかな表情を崩さない。
「ただし、家の予定もある。毎回参加できるとは限らないけど、それでもいいかな」
「もともと、家の予定を優先していいことになってる。室井君たちも同じだ」
「それなら、よろしく」
俺は入部届を受け取った。
「六人目」
紬が興奮を抑えられない様子で入部届を見た。
「弘人君なら、規程を直す時に便利そう」
「相田さん、聞こえてるよ」
渡部君が苦笑する。
「褒めてる」
紬はそう答えたが、俺には褒め言葉のようには聞こえなかった。
「湯田さんと星君はどうしたの?」
俺が尋ねると、湯田さんは俺達の前まで来て、一枚の用紙を差し出した。
「山府研究部へ入部させていただきたいと思います」
続いて、星君も入部届を出す。
「俺も、お願いします」
大竹さんが、二枚の入部届を見比べる。
「小夜さんも時彦さんも、入部して下さいますのね!」
「まだ顧問へ提出する前よ。そこにいるけど」
雪白さんが言う。
「書類に不備があるかもしれないでしょう」
「そのような細かいことを申し上げているのではございませんわ!」
「入部届なのだから、細かいところまで確認する必要があるわ」
雪白さんは二人の入部届を受け取り、記入欄を確認する。
二枚とも、必要な箇所は全て埋められていた。
俺は疑問に思ったことを尋ねる。
「湯田さんは、どうして入ろうと思ったの?」
湯田さんは、すぐには答えず、窓の外を見た。窓の外には、学校から見下ろす山府の街が広がっている。
「私は、これまで山御杜の祭祀や、山府に残る伝承について学んできました」
湯田さんは、静かに話し始めた。
「山御杜へ続く道や、祭礼に関わる場所についても、幼い頃から教えられています。ですから、私は山府のことを知っているつもりでした」
二回目の校外活動で、湯田さんと星君は杉原さんに山府を案内して貰った。
古本屋。
ゲームセンター。
高校生が集まる川沿いの階段。山御杜の役目で街を歩いていても、湯田さんが立ち寄ることのなかった場所だった。
「同じ山府に暮らしていても、私の知らない場所がありました。私が知らない過ごし方をしている方々もいました」
湯田さんは、俺達を見る。
「皆さまと一緒に、私がまだ見たことのない山府を見てみたいです」
それが、湯田さんの入部理由だった。
「星君も、湯田さんと同じ理由?」
俺が尋ねる。
「いいえ」
星君は答える。
隣にいる湯田さんが、わずかに星君を見る。
「俺は、面白そうだと思ったからです」
「それだけ?」
「はい」
あまりに簡潔な答えだったため、俺は聞き返してしまう。
星君は真面目な顔をしている。
「湯田さんが入るから、一緒に入るんじゃないのか?」
「小夜が参加されることも、理由の一つではあります」
星君は答える。
「ですが、それだけなら、これまでのように見学者として同行することもできます」
星君も、杉原さんに案内されるまで知らなかった山府を見た。その後は、設立をめぐる話し合いも、見学者としてそばで見てきた。
「今までの活動も、設立までの話し合いも、俺には興味深いものでした。入部すれば、これから何を調べるのかも一緒に考えられます」
「それをまとめると、面白そうだからなのか?」
「はい」
星君の答えは変わらなかった。
大竹さんが笑う。
「よろしいではございませんか。面白そうというのは、十分な理由ですわ!」
「あなたの場合は、面白くなさそうでも参加するでしょう」
雪白さんが言う。
「面白くなるようにすればよろしいのですわ!」
渡部君のものを含めた三枚の入部届が、顧問である担任へ提出された。
担任は、三人の名前を順番に確認する。
「渡部君だけではなく、湯田さんと星君も入るのか」
「はい」
湯田さんと星君が答える。
担任は、設立者五人の名簿と、新しい三枚の入部届を並べた。
俺と紬。
室井君、雪白さん、大竹さん。
渡部君、湯田さん、星君。
これで山府研究部は、八人の部活動になった。
同時に、六家の同級生全員が所属することになる。
「先生が、六家の生徒も新しい部へ迎えて欲しいと言ったんですよね」
「確かに言ったね」
「全員入りましたけど」
「本当に全員が入るとは思っていなかったよ」
「何人くらいを想定してたんですか?」
「一人か二人でも所属先が決まれば助かると思っていた」
担任は、八人分の名前が並ぶ名簿を見る。
「随分大きくなったね」
「先生が持ち込んだ話から始まった部分もありますよね」
「相田兄妹が六家全員を引きつける活動をしたからだよ」
担任はそう答え、三人の名前を正式な部員名簿へ書き加えた。
「ただし、六家が全員入ったからといって、六家だけのための部活動にはしないこと」
「分かっています」
俺が答えると、担任は他の人には聞こえない小さい声でつぶやいてきた。
「まさか本当に、六家全員が活動できる場所を作ってしまうとはな。相田、お前はとんでもない部長だよ」
「もっと褒めてくれてもいいんですよ」
俺は少しだけ……いや、だいぶ調子に乗った。
その日の夜。
俺と紬は、夕食の席で母へ報告した。
「山府研究部、正式に設立が認められた」
俺が言うと、母は箸を止めた。
「本当に部活動になったの?」
「なった」
「おめでとう。部員は、武尊君と、あと誰になったの?」
「六家の皆さん」
俺は母に、六家について説明した。
「何その漫画にできそうな家柄! 最高じゃない!」
「最高だけどネタにするなよ。みんな大事な仲間なんだから」
「セリフが少年漫画みたいね」
「そんな軽い流れじゃなかったんだからな」
「引っ越し先で部活を作ったら、名家の子がホイホイ集まってきたんでしょ?」
「気楽に言うなよ」
俺と紬は、不承認から全校無記名投票へ至るまでを掻い摘んで話した。母は、説明の途中から口元を押さえていた。全て聞き終えると、とうとう耐えきれなくなったように笑い始める。
「笑うところじゃないんだけど」
「ごめん、ごめん。大変だったのは分かってるのよ」
母はまだ笑っている。
「まさか私の何気ない提案が、そんな大騒動になるとは思わなかったわ」
笑いながらではあったが、今度はきちんと俺と紬へ頭を下げた。
俺はため息をつく。
「母さんの漫画の取材を手伝う話から始まったのは確かだけど、今はもう、それだけの部じゃないから」
「そうみたいね」
母は、先程までとは少し違う表情で頷く。
「それで、集めた話や写真は、漫画の資料として見せて貰えるの?」
「そのままは無理」
俺はきっぱり断った。
「学校の部活動へ協力することと、母さんの漫画に使われることは別だから。漫画の資料にするなら、そのための許可を改めて貰わないといけない」
紬も続ける。
「部の記録には、公開しない約束のものもある。母さんだから見せる、はできない」
母は、少し考えた後、素直に頷いた。
「そうよね。山府研究部は、もう私の取材班じゃないもの」
「最初から取材班ではないけど」
「では、私の取材は私がやります」
母は、あっさりと結論を出した。
「もともと、そのために山府へ引っ越してきたんだし。必要な話があるなら、私が自分で連絡して、取材をお願いする」
「最初からそうしてくれればよかったのに」
「高校生から見た山府は、私が一人で歩いても分からないと思ったのよ」
母は俺達を交互に見た。
「でも、あなたたちが見つけたものを、そのまま私が貰ってはいけないことも分かった。だから、私が知りたいことは、私が自分で聞きに行く!」
母は立ち上がり、冒険へ行くかのように宣言した。
翌日から、母は宣言通り山府の商店や工房へ自分で連絡を取り始めた。
数日後、取材用のノートと録音機を鞄へ入れ、最初の約束を取りつけた商店へ出かけることになった。
玄関で靴を履きながら、満面の笑みで言う。
「それじゃあ、地元の人を誰か捕まえてくるわね」
「捕まえないで」
紬がすぐに言う。
「そうだった。きちんと取材をお願いしてきます」
母は笑い、玄関を出ていった。
六家の生徒全員が、同じ部活動へ入った。その話は、設立承認の知らせよりも早く校内へ広まった。廊下では噂話が絶えず、山府研究部が何をする部なのか尋ねられることが増えた。
六家だけで学校を裏から牛耳る秘密結社でもつくるのではないかと勘繰る者もいた。六家を束ねた相田兄妹は何者だと、不躾な視線を向けられることもあった。
中には六人が揃っているところを一目見ようと、部室に野次馬ができることもあった。
しかし、実際の山府研究部で六家の六人が一度に並んでいるところを見られる日は、ほとんどなかった。
六家全員の入部後、最初に行ったのは八人分の予定を確認することだった。
新しく与えられた部室で、紬がホワイトボードへ日付を書き、参加できる日へ一人ずつ丸を付けていく。
室井君には、朝と放課後の天山流の稽古がある。
湯田さんと星君には、山御杜での務めや学ぶべきことがある。
雪白さん、大竹さん、渡部君にも、それぞれ家の予定が入っている。
八人分の丸が全て重なる日は、簡単には見つからなかった。
「せっかく八人おりますのに、なぜ全員が揃いませんの!」
大竹さんが予定表を見て嘆く。
「八人いるから、揃わないのよ」
雪白さんが答える。
「人数が増えれば、それだけ予定を合わせるのは難しくなるわ」
「でしたら、皆さまの御予定を変更していただけばよろしいのではなくて?」
「最初に、家の予定を優先して良いと決めたでしょう」
「分かっておりますけれど!」
大竹さんは、予定表に空いた箇所を探し続ける。
室井君も、自分の予定を確認する。
「この日は、稽古が終わった後であれば参加できる」
「その時間だと、湯田さんと星君が山御杜へ戻る時間になりますわ!」
「そうか」
室井君は、自分の予定を無理に動かそうとはしなかった。六家の三人が最初に入部する時、家の役目や予定を優先して良いと確認している。
新しく加わった三人についても、同じだった。
「全員が揃うことを前提にしない方がいいわ」
雪白さんが言う。
「参加できる者だけで活動する。全員で決める必要があることは、記録を回して、後から確認する。それで十分でしょう」
「活動記録なら、もともと残してる」
紬が答える。
「来られなかった人が読む場所を作ればいい」
紬は新しいファイルを一冊用意した。
その日に参加した者。調べた場所。聞いた話。次に確認する必要があること。活動へ参加できなかった部員は、後からその記録を読み、気付いたことを書き加える。重要な決定については、八人全員が確認するまで確定しない。
そうした方法で、山府研究部は活動を始めた。俺と紬だけで写真を整理する日もあれば、室井君が稽古までの短い時間に地図へ気付いたことを書き残す日もあった。
湯田さんと星君が山御杜へ戻った後、雪白さんが資料の出典を確認し、大竹さんが次に調べたい場所を加えることもあった。
渡部君は家の予定で来られない日にも、前日の記録を読み、翌朝に意見を伝えた。
全員が同じ場所へ集まらなくても、一人が見つけた山府へ、別の日に来た誰かが新しい話を書き加える。
八人が知っている山府は、それぞれ違った。
山御杜から見た山府。
家の役目を通して見てきた山府。
学校生活の中で見つけた山府。
山府へ引っ越してきた俺と紬が、初めて目にした山府。
それらを一つずつ重ねることが、正式に設立された山府研究部の活動になった。
部活動設立から数日後、梅雨の晴れ間の午後。朝まで降っていた雨は上がり、校舎の窓からは、雲の切れ間から差し込む光が見えた。
その日の活動予定表には、珍しく八人全員の丸が並んでいた。設立後、初めて全員が参加できる日だった。
「本当に全員おりますわ!」
部室へ入ってくる者を一人ずつ確認していた大竹さんが、最後に現れた室井君を見て声を上げる。
「名簿どおり、八人おりますわ!」
「名簿に書かれている人数が変わるわけではないでしょう」
雪白さんが答える。
「揃ったことを喜んでおりますの!」
「分かっているわ」
室井君は、活動終了後に稽古へ向かうため、いつもより短い時間しか参加できない。湯田さんと星君にも、夕方から山御杜での予定がある。
それでも、その日の数時間だけは、八人が同じ場所に揃っていた。活動内容は、梅雨の山府を歩き、春の校外活動から変わった景色を記録することだった。
八人は校門を出て、川沿いへ向かう坂道を下る。雨上がりの道には、まだ小さな水たまりが残っている。坂道の脇では紫陽花が咲き始めている。
山の木々は、俺が初めて山府へ来た頃よりも色を深くしている。
前を歩く大竹さんが、道の反対側にある店を指す。雪白さんが、その説明の一部をすぐに訂正する。
室井君は二人のやり取りを聞きながら、後ろから来る自転車に気付き、全員を道の端へ寄せた。湯田さんと星君は、川沿いに咲く草花について話している。
渡部君は、その少し後ろを歩きながら、必要なところだけ会話へ加わっていた。
紬は立ち止まり、濡れた石垣の写真を撮る。
俺もカメラを構えた。
山府へ引っ越してきたばかりの頃、目に入るものは全て、自分とは関係のない景色だった。山も、川も、古い建物も、ただ知らない街の一部に見えていた。
今は、同じ道を歩いていても、その先にいる人や、そこで過ごした時間を思い出す。
商店街には、家の仕事を手伝いながら学校へ通う生徒がいる。
川沿いの階段では、杉原さんたちが絵を描き、友人同士で時間を過ごしていた。
山御杜へ続く道には、湯田さんと星君が学び続けている役目がある。
同じ山府に暮らしていても、八人が見ているものは同じではない。俺が知らない山府を、他の誰かが知っている。誰かが当たり前だと思っていた場所を、別の誰かが初めて見る。
その違いを記録するために、山府研究部がある。
「兄さん」
前方から、紬の声がする。俺が顔を上げると、七人は少し先まで進んでいた。紬がこちらを振り返っている。
「置いてくよ」
「今行く」
先を歩く七人が振り返る。
夏の山府は、初めて訪れた日の景色よりも少しだけ近く、俺の目にはきらめいて見えた。




