プロローグ
「母から重大発表があります」
中学三年の夏。
夕食を終えた直後、母は妙に改まった口調でそう言った。俺と双子の妹の紬は、ダイニングテーブルの向かい側に座る母を見る。
母――相田佐紀は、『相田カノン』の名で活動している大人気漫画家だ。仕事へ集中すると食事も睡眠も忘れる人なので、こうして決まった時間に食卓へいるだけでも少し珍しい。
その母が、両手を膝に置いて姿勢まで正している。
嫌な予感がした。
隣では紬が、母へじっと視線を向けている。普段から少し困っているように見える顔が、今は本当に困惑していた。
「何?」
俺が尋ねると、母は一度だけ息を吸った。
「私たち三人は、来年の春、引っ越しします!」
部屋の中が静かになる。
最初に動いたのは紬だった。
「……引っ越し?」
「そう。引っ越し!」
「どこに?」
「東北は会津県、山府市!」
母は冒険へ出かけるかのように、わざとらしく叫んだ。
山府市の名前は知っている。山御杜という大きな神社と古い街並みで有名な観光地だ。旅行番組やニュースでもよく取り上げられている。
ただし、知っているのはそれだけだった。
「引っ越すって、旅行とか、しばらく滞在するとかじゃなくて?」
「生活ごと移します」
母は迷わず答えた。
紬の眉が、わずかに下がる。
「私、横浜で行きたい高校があるんだけど……」
小さな声だったが、母にははっきり届いた。母の表情から、重大発表を無事に終えたという雰囲気が消える。
「うん。分かってる。だから、二人の学校についても、これからちゃんと――」
「どうして引っ越しなの?」
紬は母の説明を遮った。普段の紬なら、相手が話し終わるまで待つ。今はそれだけ余裕がないらしい。
母は椅子の脇に置いていたファイルを取り出した。中には山府市の地図や観光案内、古い町並みの写真が入っている。
「次の作品の舞台を、山府にしようと思ってるの」
「次の作品?」
「今の連載が終わったあとに描くもの。まだ話は決まってないけど、舞台は山府にしたいのよ」
紬がファイルを見る。
「話は決まってないのに、引っ越すの?」
「話を決めるために、引っ越すの」
母はそう言って、山府市の地図をテーブルへ広げた。
山に囲まれた市街地。その中央を流れる川。大きく描かれた世界遺産という文字と、そこへ続く何本もの道。地図の余白には、母の字でいくつも書き込みがされていた。
「何度か取材へ行って、資料も集めたの。でも、分かったのは観光客から見える山府ばかりだった。私が知りたいのは、そこで暮らす人が何を見て、どんな毎日を送っているのか。朝はどの道を通って、どこで買い物をして、何が当たり前なのか」
母は地図の上へ指を置く。
「それは、何日か取材しただけでは分からないと思うの。だから、実際に住んでみたい」
漫画のために、家族ごと引っ越す。普通なら、あまりにも突拍子のない話だ。しかし母は本気だった。ファイルには住宅情報まで入っている。
「もう決定なんですか?」
紬が尋ねる。
先程までとは違い丁寧な言い方になっていた。紬は怒るほど、言葉遣いがよそよそしくなる。
母もそれに気づいたらしい。
「……うん。山府へ移ることは決めた。編集部やアシスタントにも相談してある。でも、時期や二人の学校まで、勝手に決めるつもりはないから」
「さっきは来年の春って言った。それに、引っ越すことは、勝手に決めたんですね」
「ごめん」
母は言い訳をしなかった。
「私は、まだ納得していません」
「うん」
「ちょっと頭冷やしてくる」
紬は椅子から立ち、自分の部屋へ向かった。廊下へ出る直前、一度だけ足を止める。けれど何も言わず、そのまま扉の向こうへ消えた。
母は閉じた扉を見つめている。
「……怒らせちゃったわね」
「そりゃ怒るだろ。行きたい高校まで決めてたんだから」
「司も怒ってる?」
「怒ってるよ」
俺はすぐにパソコンを開いて、ネットで山府市を調べ始める。
「そう見えないんだけど」
「怒ってる場合じゃないだけ」
来年の春に引っ越すなら、残されている時間はそれほど多くない。山府にはどんな高校があるのか。今いる県との受験制度に違いはあるのか。紬が行こうとしていた学校に代わる選択肢が、本当にあるのか。分からないことばかりだった。
「まず、向こうの受験制度と学校を調べないと」
検索画面を開きながら言うと、母は少し困ったように笑った。
「司は、やっぱり司ね」
「それで済ませないで。母さんも手伝って」
「はい」
俺は検索欄へ文字を打ち込む。
『山府市 高校』
画面にいくつもの学校名が表示された。その一番上にあった学校の名前に、俺は目を止める。
私立 山府義塾中学校・高等学校。
このときの俺にとってそれはまだ、知らない土地にある知らない学校の名前でしかなかった。




