12章:Intermission〜隠された決意〜
激戦の愛知大会をトップで勝ち上がり、その勢いのまま乗り込んだ秋季東海大会。強豪ひしめくトーナメントを順調に勝ち進み、チームはついにここまでたどり着いた。
明日は、準決勝。勝って決勝へ進めば、春の選抜甲子園への切符がほぼ確実なものになる。そんな、運命を分ける大一番の前夜だった。
秋本は、いつものように寮の自室に戻ると、まず窓のカーテンを閉め、部屋の扉の鍵をかけた。
ベットで寝ている武藤を気にしながら誰にも見られないように、ベッドの下からスマホを取り出す。
――持ち込み禁止なんてルールくだんねぇ。
画面をつけると、すぐにメッセージ通知がいくつか溜まっていた。一つは母親から。
『夢、明日の準決勝頑張って。ほら、希の写真』
添付された写真には、ランドセルを背負った妹がピースをしている姿。
「……ったく。ガキがまたデカくなったか?」
と言いながらも、無意識に口元が緩んでいた。緩んだ口元に気づくと、グッと口を一文字にして、スマホを持ったまま天井を仰いだ。
しばらく画面をスライドした指が、別の通知を開きかけて止まる。『母親じゃない、別の名前』。あえて開かない。開かなくても、なんとなく内容は分かる。苦笑しながらスマホを伏せる。
——今はそれどころじゃねえ。
部屋の片隅に置いてあるグラブを手に取った。もう何年も使っている、渋い焦げ茶色のグラブ。普通の高校生が使うにはちょっと古臭いかもしれない。だが、このグラブだけは手放す気にならなかった。
「……ったく。親父の形見だし、捨てられるわけねーだろ」
ぼそりと口にしたその言葉のあと、秋本はグラブを見つめたまま、しばらく動かなかった。このグラブを手にしたときのことを、嫌でも思い出す。
あの日の夕暮れ、まだ小さかった秋本と父親は近所の公園にいた。夕日に照らされたグラウンドで、父親は久しぶりにキャッチボールの相手をしてくれた。いつもは酒に酔い、怒鳴っていることが多かったが、その時だけは別人のように優しかった。
「ほら、ここに投げろ」
と、父親は声をかけ、ゆっくりとボールを投げてきた。秋本は真剣にキャッチし、投げ返す。父親は真剣にボールを受け取りながらも、時折笑みを浮かべていた。
「お前、いいボール投げるな」
と、ぽつりと言った。心底感心したような言い方だった。だが、その言葉が秋本の胸に深く刻まれた。
「将来はプロ野球選手だな」
その言葉が、父親との最期のやり取りとなった。数日後、父親は帰らぬ人となった。事故だった。
あの時の夕暮れの空の色、父親の腕の温もり、声の震え、すべてが今も鮮明に蘇る。
それは秋本にとって、励ましであり、呪縛であり、そして未来への約束でもあった。
それからずっと、その言葉が胸の奥で重くのしかかっている。父親はもういない。希も、父親の顔を知らないままだ。
——ただの勝ち負けじゃない。次の試合勝てば……希も、きっと喜ぶ。
「お兄ちゃん、甲子園行くんでしょ? テレビ映ったら絶対見るからね!」
そんな声が脳裏に蘇る。父親にも、胸張って言える。「俺は、まだちゃんとやれてる」って。そんなことを考える自分が、少しだけムズ痒くて、秋本はふっと鼻で笑った。
「……何考えてんだ、俺」
夜も更けたころ、秋本はグラブ片手に室内練習場へ向かった。夜間練習は許可されていない時間帯だが、いつも通り。扉を開けると、誰もいないと思ったが一人見知った奴がいた。
「……友生か」
「……秋本」
友生がマウンド近くで静かにシャドーピッチを繰り返していた。
背はそこそこあるだろうが線の細い友生を、マウンドで見ているといつか消えてしまうんじゃないか、と思うことがある。
ーーそういや、初めて見た時は、野球やるような身体じゃなかったから気にも留めなかったな。
投球フォームを繰り返す友生を横目に、秋本は思う。あいつの実力なんざたかが知れてる。球は遅いし、制球もそこまで良くない。
それでも——。こいつは、ずっとやってる。腐らず、諦めず。そこだけは、素直に認めてやってもいい。
「……まあ、兄貴の方がやっぱ本物だな」
ぼそっと友生に聞こえない声で呟く。
神野裕生。弟とは似てるようで、まるで違う。試合での落ち着き、存在感。才能ってやつだろうな。兄貴は兄貴。弟は弟。俺には関係ねぇ。
「お前も眠れねーってやつか?」
「……まあね」
秋本は壁にもたれかかり、タバコでも吸うような手付きで胸あたりを弄る。
ーー随分前に辞めたのに直らないもんだな。
「お前には言っておく。俺は明日もこれからも、絶対に打たれないし点も取られない。勝たなきゃいけない理由があるんだよ」
「理由?」
友生が少しだけこちらを振り返る。
ーー何言ってんだ、俺。
秋本は黙った。ただ親指でグラブの縫い目をなぞりながら、無言のまま続けた。
「別になんだっていいだろ。勝つ。それだけだ」
しばらく無言の時間が流れる。友生が投球フォームを止めたまま、ぽつりと
「秋本ってさ、たまに何考えてるかわかんない」
「それはお互い様だろ?」
「……そうかも」
夜の室内練習場。静かで、どこか落ち着く場所。それでも友生がシャドーピッチを続ける音だけが、ボン……ボン……と響いていた。最後に秋本が立ち上がり、グラブを肩に担いだ。
「お前、明日投げるのか?」
「……わかんない。けど、この前の試合良いピッチングできなかったから多分優先順位は低いと思うな」
苦笑いを浮かべる友生。
「まぁ俺にはお前が出ようが出まいが関係ねぇ。寝ろ、明日死ぬぞ」
そう言い残して、秋本は室内練習場を後にした。
「勝つしかねーだろ、バカが……」
秋本は空を見上げ、静かに笑った。




