19話 「なんのお話でしょうか」
シェリルが学舎の裏手に来たのは、偶然でもなんでもない。今月の茶会はどうするのか――婚約者として定められた義務をどうするのか聞くために訪れたからだ。
丁度通りかかったダニエルにサイラスがどこにいるのかを聞いたからこそ、学舎の裏手に来ていた。
そして近づくにつれ、声が聞こえてきた。
取り込み中なのかと思ったところで、引き返していればよかったのかもしれない。
だがかすかに聞こえてきたのは、自身の名前。シェリルははてと首を傾げ、声のしたほうに近づいてしまった。
「俺は! シェリルが好きだ!」
これでもかと張り上げられた声に、シェリルの頭が一瞬だが真っ白になる。声を発している相手は考えなくてもわかる。もう何年も聞いてきた声だ。
「えっ」
そして出てしまった間の抜けた声に、青色の瞳と琥珀色の瞳がシェリルを捉えた。
見慣れた二人の姿。どうしてサイラスとアルフが一緒にいるのかとか、先ほどの言葉はなんなのかとかがシェリルの頭の中で渦巻く。
「あ、私……その、ごめんなさい」
だが追及することはできなかった。引きつった二人の顔に、シェリルは反射的に謝り、踵を返す。
先ほど耳にした言葉を必死に振り払うかのように早足で歩くが、脳裏によみがえる声は遠ざかりそうにない。
きっと聞き間違いか何かなのだろう。あるいは、そういう意図のない言葉だったのかもしれない。
だけど聞こえてきたのは、あまりにも簡潔な言葉だった。
しかし、それはおかしい。だってそうでないと、あまりにも――
「シェリル!」
後ろから名前を呼ばれ、思考が途切れる。足を止め振り向くと、顔を青くさせたサイラスが立っていた。
「今のはちが……いや、違わないのだが、だが……そうではなく、いやそうなのだが……」
赤くさせたり青くさせたりとせわしくなく顔色を変え、要領を得ないことを言うサイラスに、シェリルは意識して落ち着いた声色を出す。
「サイラス様、どうかされましたか?」
聞き間違いかどうか悩むぐらいなら、聞かなかったことにすればいい。
サイラスとアルフが二人で話しているのを見て、その意外さに驚いたことにすればいい。
そう考えて、シェリルは何もなかった道を選んだ。
「……聞かなかったのか?」
どこかほっとしたような、それでいて残念そうな声に、シェリルは首を傾げる。
「なんのお話でしょうか」
「俺が君を好きだという話だ」
気が抜けたのだろう。あっさりと言うサイラスに、シェリルは完全に顔をひきつらせた。
「いや、今のは……!」
サイラスも自分の失言に気づいたのだろう。顔を赤くさせながら慌てて訂正しようとしている姿が、聞き間違いでもなんでもないことを物語っている。
「……わけが、わかりません」
彼が自分のことを好き。それはあまりにも、わけのわからない話だ。
八歳から婚約関係にはあったが、好意を持たれるようなことをした覚えもなければ、好意を示されたこともない。
婚約破棄や騎士になるという宣言は、サイラスが真面目な男だからだろう。
守れなかったという自責の念に駆られて婚約者になることを辞退し、それでも騎士となり親との約束を守ろうとしているのなら、つじつまが合う。
だがサイラスがシェリルを好きなのだとすると、最初の婚約破棄からしておかしな話になる。
昨今何かと恋愛結婚だ婚約破棄だと騒がれているが、それは愛する相手が他の相手と結ばれるのを見たくないという思いから、親の反対を押し切るからだ。
それなのにサイラスは好きだと言いながら、婚約を破棄すると――他の者とシェリルが結ばれてもいいと言ったことになる。
「サイラス様は、何をなさりたいのですか」
「俺は……俺はただ、お前を守りたいだけだ」
「何からですか! 今、私を混乱させているのはサイラス様です!」
サイラスは幼い頃から決められた婚約者だった。だから、シェリルはこれまで他の相手との未来を描いたことはない。
シェリルはサイラスを好きだと思ったことはない。ただ、ずっと一緒にいることになる相手なのだろうと自然と考えていた。
だが婚約を破棄したいと言われ、しかたないと諦め、抱いていた考えを捨てた。
「好きだとおっしゃるのなら、どうして婚約を破棄したいなどとおっしゃったのですか!」
今さらなのだ。婚約の破棄を突きつけられた時点で、シェリルの中ではサイラスとの未来は潰えた。
だがサイラスは歩み寄りの精神を見せはじめ、しまいには好きだと言い出した。
「どうして今さら……!」
それなのに、どうして今さら、心を揺さぶるようなことばかりしてくるのか。
揺れる青い瞳の中に目に涙をためている自分の姿が映る。
泣くつもりはなかった。押し寄せてきた感情の昂りに体がついていかず、混乱した頭がシェリルに涙を浮かばせた。
シェリルは零れ落ちる前に袖口で拭うと、息を整え、静かな声で言う。
「サイラス様……婚約破棄を突きつけた相手に好きだと言うことはおすすめいたしません。好きなのだとしたら、破棄する必要などないのですから」
押し黙り、何も言えないサイラスに畳みかけるように言葉を紡ぐ。
「だからきっとそれはまやかしか、些細なものなのだと、割り切るべきです」
そうだ。その程度なのだと割り切ればいい。
後悔を好意だと錯覚しているのだと思えばいい。
それならすべて、辻褄が合う。
「ならば! 俺は婚約の破棄を撤回する!」
少しずつ落ち着きを取り戻した心が、堂々としたサイラスの宣言で、またもかき乱された。
「な、な、あなたは何をおっしゃっているのか、わかっているんですか!?」
「わかっているに決まっているだろう。いや、わかっていないかもしれないが、少なくとも、俺は君以外を守りたいと思ったことはない。君よりも肉のない女子を見ても、折れそうだとか弱そうだとか、ましてや守りたいなどと思うはずがない。だから俺は最初から――」
向けられる真剣な眼差しに、サイラスのあやふやな言葉を追及するのも忘れて顔に熱がこもる。
どうして、なんで、何を。そんな疑問が次々に湧いては消え、もはや何を言えばいいのかわからない。
「に、に、肉って! そんな、私、太ってません!」
混乱しきった頭が導き出したのは、心底どうでもいい言葉だった。
「いや違う! そうではなく、君はどちらかといえば細いほうだと……ではなく! 君の妹も肉はないが、守りたいとは思わなかったということで……!」
「なら、どこの肉の話をしているんですか!?」
だが口を衝いて出てしまった言葉は引っこむことはなく、さらなる混乱により体を抱えるようにして顔を赤くさせながらサイラスを睨みつけた。
「だから――筋肉だ! 肉ではなく、筋肉の話だ!」
「服の上からで正確にわかるわけがないじゃないですか……! そ、それとも、わかるほど見ていたということですか!?」
「違う! そうじゃない! いや、そもそも、自分の婚約者を見るのは当然のことだろう!? しかもそれが好きな相手ならば、なおさら見ていたいと思うはずだ!」
はっきりと告げられた言葉に、息を呑む。
サイラスの顔は赤く染まり、青い目がどことなく据わっているように見える。
「ああ、そうだとも! 俺は君のことが好きだ! それをまやかしや些細なものだと思われるぐらいなら、婚約の破棄など撤回する! 無論、俺が君にふさわしくないことはわかっている! だから、鍛練の時間を減らしてでも勉学の時間を増やし精進するから、そのうえで撤回を受け入れるかどうか考えるがいい! 一方的に約束を反故にする男だという謗りを受ける覚悟はとうにできている。君の決めたことならどんな結果になろうと受け入れるつもりだ!」
もはや何を言っているのか、サイラス自身わかっていないのではないだろうか。
そう思うのに何も言えないのは、サイラスの気迫に負けてか、あるいは偽りのない言葉に圧されているからか。
「君は賢く、才能に溢れていて……好かれて当然の人間なのだと、肝に銘じておくことだな!」
言い終わるが早いか、サイラスはくるりとシェリルに背を向け、高笑いと共に走り去った。
それを呆然と見送ったシェリルだが、完全に姿が見えなくなると、その場にうずくまるように座り込んだ。
「ああ、もう……何をしているの、私」
泣いて、しかも袖口で拭くなんて淑女にあるまじき行為だ。しかも肉だなんだと、意味のわからない応酬まで繰り広げてしまった。
それもすべて、サイラスに好きだと言われてしまったばかりに。
誰かに好きだと言われたのは、母親が亡くなって以来だった。慣れない言葉と感情を向けられ、肉という言葉に過剰に反応してしまったのはそのせいだ。
「当主になるのに……これでは駄目ね」
数少ない女当主として立つ以上、むやみやたらと感情を露わにしてはいけない。
安易に泣けば女だからと見くびられるだろうし、好意を向けられてうろたえては遊びやすい女として見られてしまうかもしれない。
ほてり熱くなっている頬に手を当て、シェリルは顔を俯けた。