10話 「……どうして私はここにいるのかしら」
武術棟には屋外鍛錬場と屋内鍛錬場がある。そして今、シェリルは屋外鍛錬場の一角で途方に暮れていた。
いったい自分はここで何をしているのだろう――と思わずにはいられない。
シェリルの眼前に広がるのは、草ひとつ生えていない剥き出しの地面。武術科生が大勢で鍛錬に励んでも窮屈にはらないほどの広い土地。そしてそこを走る、アリシア。
どうしてこうなかったのか。考えてもわからない。
サイラスは走りこみだと言ってすぐ、二人をここに連れてきた。
そしてアリシアに走るように指示を出したのだ。言われたアリシアも混乱しきっていたのだろう。
履いている踵の高い靴を指差して――
「この靴で走れるわけじゃないですか!」
――まっとうなようでずれた抗議を繰り出していた。
「案ずるな。学術科の生徒が体を動かしたくなる時もあるだろうと、鍛練用の靴を貸し出している」
サイラスも合っているようでずれた答えを返していた。
そして有無を言わさぬ勢いで靴を借り、アリシアを走らせたのだ。
「……どうして私はここにいるのかしら」
サイラスは走っていない。シェリルの横にいるのだが、走るアリシアを見ながら時折アドバイスをかけている。腕の振り方やらなんやらを。
街中に出かけるのを楽しみにしていたわけではないが、だからといってアリシアが走る姿を見たかったわけでもない。
手持無沙汰な状況に、シェリルはただただ途方に暮れている。
「あああ、もう! なんで私がこんなことしないといけないのよ!」
ようやく正気を取り戻したのか、二周ほど走り終えた顔を赤くしたアリシアが、シェリルとサイラスのもとに戻ってきた。
肩で息をして、シェリルを睨みつけながら。
「なんで姉さまは走ってないの!? 私だけなんておかしいじゃない!」
その主張だと、自分だけじゃなければ文句を言わず走ると言っているようなものだが、本気だろうか、とシェリルは思わず考えてしまう。
だが口に出すことはなく、曖昧な笑みを浮かべた。
「遠い異国には、こんな言葉がある」
サイラスが重々しい口調で言うと、アリシアはわずかに呻きながらも騒いでいた口を閉ざした。
武術科生の中では細身なほうのサイラスだが、それでも鍛えていることがわかる体格をしている。それに背も高く、上から見下ろされれば威圧感もある。
アリシアは甘やかされるのに慣れ切っているので、圧倒されてしまったのだろう。
「頑丈な体には頑丈な精神が宿るのだと」
――それは、健全な体に健全な精神が、というものではなかっただろうか。
そして、宿るといいなぁ、という願望めいた言葉ではなかっただろうか。
異国の文化についても学んでいるシェリルはぼんやりとそんなことを考えたが、もちろん口に出すことはない。
「それとこれと、どう私に関係があるって言うんですか!」
声を荒げるアリシアに、サイラスは「ふむ」と小さく呟き首を傾げた。
サイラスを見上げるアリシアの緑色の瞳には怒りがこめられており、首を傾げたいのはこちらだと言いたげだ。
「……つまりだな、お前がシェリルを羨むのは、魂が脆弱だからだろう。体を鍛え、魂も鍛えれば、羨み妬む必要などなくなるということだ」
「どうしたらそうなるんですか!? 魂と体の繋がりもわけわかんないし、それにどう考えても姉さまのほうがずるいじゃないですか! ずるいからずるいって言ってるだけです!」
「――ならば聞くが、お前は何をもってして、シェリルをずるいと言っているんだ?」
サイラスの静かな問いかけに、アリシアがぐっと呻きながら言葉を詰まらせる。
「俺はアンダーソン家の家庭事情には明るくないからな。何か――お前がシェリルをずるいと言えるほどの理由があるのなら聞いてやろう」
「それは――だって、姉さまのほうが貴族としての生活が長くて……だから、刺繍とか、私が姉さまよりもできないのは当然で……だから、最初から貴族だった姉さまのほうがずるいじゃないですか」
「刺繍についてだが、精進する努力をお前はしたのか?」
しどろもどろになりながらも主張するアリシアにサイラスが問うと、アリシアは小さくだがこくりと頷いた。
アリシアがアンダーソン家に来てしばらくは刺繍の練習をしていたのは、シェリルも知っている。だがいつからか、シェリルに任せるようになり――学園に来てからの課題もすべてシェリルに丸投げするようになっていた。
「私が最初から姉さまみたいに、お父様の娘として育ってたら、刺繍だってなんだってできたはずなんです」
「ふむ、そうか。ならばやはりシェリルを羨む必要はないな。アンダーソン家で生活を始めてすでに数年が経っている。それで上達していないのなら、それはお前に才能がなかったということだ」
きっぱりと言い切るサイラスに、アリシアの顔が完全に固まった。
「ない才能のことは諦めて鍛錬に励め。剣を扱うのには才能がいるかもしれんが、体力をつけるのに才能はいらないからな。鍛錬に費やした時間は、けっしてお前を裏切らないだろう」
困惑顔のアリシアにサイラスは「さあ、走ってこい」と堂々と言う。
力強く真剣に、そして自信満々に言われれば、何かがおかしいと心の片隅で思いながらも説得力を感じてしまうのはどうしてだろうか。
――そんなことを、走りこみを再開したアリシアを眺めながら、シェリルは思った。
「……鍛錬に費やした時間は裏切らない、というのは本当なのですか?」
もしも詭弁であれば、サイラスには詐欺師の才能があるのかもしれないと考えながら、シェリルは横に立つサイラスに問いかける。
「ああ、そうだとも。俺は見ての通り、あまり筋肉がつかない。おそらくは体質なのだろう。……だが、幼少の頃から鍛錬に励んでいたおかげか、自分よりも上背のある相手とも渡り合うことができる」
見ての通りと言うが、シェリルの目にはサイラスの筋肉は十分あるように見える。
「そうでしょうか。しっかりと筋肉がついているように見受けられますが……」
シェリルが首を傾げると、サイラスも同じように首を傾げた。
「いや、俺はまだまだだ。他の武術科生を見たことがあるだろう? 俺よりも筋肉のついている者が何人もいたはずだ」
「……まあ、それはそうですが……私としては、サイラス様ぐらいがちょうどよいと思います」
屈強すぎる武術科生を何人か思い浮かべる。
シェリルは小柄というわけでも、華奢すぎるというわけでもない。それでもやはり屈強な男に見下ろされれば圧倒されることもある。
それを考えれば、背丈はあるが――サイラスいわく――筋肉があまりないサイラスのほうがいい。
「そ、そうか……? 俺としては、もう少し筋肉をつけたいところだが、だが――」
「え? こんなところで何してんの?」
サイラスの言葉に被せるように素っ頓狂な声が聞こえ、シェリルは声のしたほうに視線を向ける。
そこには、武術科生一の洒落者と名高いダニエルが立っていた。
「今日出かけるんじゃなかったっけ?」
「……そのはずだったのだが……今は彼女の妹の鍛錬をしているところだ」
「いや、えー……いや、まあデートの日に何をしているんだとか、妹だけ走ってるのを見ても楽しくないだろとか、まあ色々言いたいけど……とりあえず、妹のことは俺が見てるから、出かけてこいよ」
「いや、しかし……」
サイラスの目が鍛錬場を走るアリシアと、シェリルを交互に見る。
逡巡するように視線をさまよわせるサイラスに、シェリルは曖昧な笑みを浮かべた。もはやどちらでもよかったからだ。
「……わかった。彼女のことはお前に任せる。適切な休憩と水分補給を忘れないようにしてくれ」
「ああ、わかってるよ。ほら、行っておいで」
楽しんでおいで、とダニエルに見送られる形でサイラスとシェリルは屋外鍛錬場を出た。