第五話 帰還
俺が帝国軍の陣地に帰ってきた時、空は朝を迎えつつあった。森の中の夜は闇また闇だったから、余計に太陽が懐かしかった。
ああ、人間ってのはおひさまが必要なんだなあ。素直にそう思ったほどである。
見張りの兵士に来着を伝え、その足で大天幕に向かった。兵士が俺を見てぶったまげたのは仕方ない。俺は血まみれだったし、ザルモニア公の首を抱えていた。ちょっとした早朝のホラーだ。
俺はそのまま大天幕に向かった。ローカリス公を始めとする歴々に報告を行う必要があった。
「おはよう」
偉大なる軍師、レオノラ・バルドアトが大天幕の前にいて、俺にゆるやかな笑顔を向けてくれた。こうしてみると、実にかわいい少女なのだ。俺がまだ十代のころに恋した女の子より、さらにかわいい。記憶の幻想さえも打ち破るほどの可憐さでもって俺を出迎えてくれるのは、何物にも代えがたい特権のように思われた。
「おはようございます」
「気分はどう?」
レオノラはザルモニア公の首を見ても動揺していなかった。
当然だ。彼女は温室育ちのお嬢様ではないのだ。
「大勢殺してきました」
「そう」
「ザルモニア公の陣地に火をつけてきました」
「すばらしい」
レオノラは賞賛の言葉を贈りつつも、その表情にも声色にも変化を見せなかった。ただ知恵者としての笑みを湛えつつ、俺の言葉に答えてくれるのみだ。
「俺は、正しいことをしたんでしょうか?」
「帝国にとっては正しいことをした。それとも人間としてどうかを聞きたかった?」
「人間としては間違っていますか」
レオノラは、一拍置いた。
「人間としてなら、答えがない」
「ないんですか」
「なぜなら人間は、いやどの生物も、現在を生きる他ない生き物だからね」
さあ報告を、とレオノラが大天幕の入口を開けてくれた。
俺が中に入ると、モートルード伯とその側近たちが一斉にこちらを向き、何がしかの会話を中断した。
ローカリス公の姿は見えない。まだ眠っているのだろうか。
「何だそれは」
モートルード伯が言った。この厳しい声の伯爵殿を相手取る場合、その目ではなく立派な乳房を見ておく方が良いのではないかと考えた。長身でもあるし、高さとしては適当だろう。十三歳のデュランくんの体はそこまで大きくないのだ。
「ザルモニア公です」
俺は首を捧げ持った。
「わかっている。なぜだ!」
「ザルモニア公は提案を拒絶しました」
「それから」
「斬られましたので、反撃しました」
「それで」
「こうなりました」
俺は公爵の首をさらに突き出した。
「こうなりましたじゃない!」
ですよねー、とは心の中で言っておく。
「私は君に書状を届けろと言った」
「その通りです。よく覚えています」
「ザルモニア公の首を取れと付け加えたか?」
「そのような命令は受けておりません」
「命令違反だ!」
言い返したら面倒なことになるタイプだよなあ。絶対に突っかかってくるぞ。昔の俺なら頭を下げて終わらせてしまうんだ。俺一人が損をすれば丸く収まるってな。
残念だが、今の俺は違う。
「敵じゃないですか」
「そうだ。ザルモニア公は敵だ。ただし、敵の敵になりうる可能性を持った人物だった」
「離反させることが可能と」
「その通りだ。彼は自分の武勇に自信を持っているが、同時にその立場に大きな不満を持っていた。裏切れと言えば、裏切ることもあっただろう。だが、ここが肝心だ。彼には降伏してもらわねばならなかった。それだけの力を持った人物だ。立場が対等の裏切りでは話にならん。ただ危険人物を抱え込むだけになる」
伯爵は講義するように話を続けていく。
「かといって、これを断罪せんとすれば、彼は再び我らの敵となるだろう。暗殺せんとしてもその力は強大で、細心の注意もできる男だ。一度寝返った者を討つというだけでも、帝国についても得はしないという印象を与えるのだぞ」
今度は強く緑がかった黒髪をかき乱している。
「なぜだ。なぜそこまで……ザルモニア公が生きていれば、生きているほど価値があったのだぞ。十三王国にとっては体内に残る毒薬のようなものだ。帝国の使者と接触した。その事実だけで良かったのだ!」
いよいよ俺に人差し指を向けてきた。
「お前はっ、お前、どうして、あんなにも強いザルモニア公を討てたのだ! わからない、わからん!」
もう途中から混乱しているようで、俺としてもちょっとだけ申し訳なくなる。すみません、強すぎて。
「デュラン・スクルトゥヌス」
「はい」
「お前が強いことは知っていた。であればこそ、ローカリス公直属の伝令として、最も苛烈な戦線であるこの場所で生き抜いてきたのだからな」
「お褒めに預かり光栄です」
伯爵は地図の載ったテーブルに手をつき、倒れそうなほどによろめいた後、俺につかつかと近づいてきた。
「首を見せろ」
俺は要求通りに首を渡した。
にしても、俺もそうしていたとはいえ、伯爵も持ちやすいようにザルモニア公の残り少ない髪の毛を持っているのは意外だった。いや、決してぬいぐるみのように抱きしめろとは言わないんだが。
「間違いなくザルモニア公だ」
それで、と伯爵は続けた。
「これだけか?」
「と、言いますと」
「首はこれだけか?」
「首はこれだけです」
俺はきちんと「首は」を強調した。
「何人殺した」
伯爵にはその意図がきっちり伝わったらしい。さすがにローカリス公率いるこの一軍の実質的な指揮を担っているだけある。
「数はわかりません。夢中だったもので」
「敵の被害はどれくらいだ」
「ザルモニア公の部隊は壊滅したでしょう。隅から隅まできれいに行き渡るように油をまいては火をつけたので」
「報告がまだ来ていない」
何を言っているのだろう。
「報告なら今……」
「違う。斥候を出しておいた。ザルモニア公がどのような動きを見せるか確かめるためだ。その斥候がまだ帰ってきていない。どうして先に帰ってこれた」
ああ、そうか。
俺は馬よりも速く走ってきたから、様子を見ていたやつより先にここに戻ってきちまったんだ。
「どこかで油を売ってるんじゃないですか」
「デュラン!」
伯爵が詰め寄ってきた。側近たちも伯爵のすぐ後ろに近寄ってくる。何かあれば、すぐに手助けできるようにとのことだろう。
俺の味方はいないんだろうなあ。
「私は君が死んでもいいと思っていた」
「ひどいですよ」
「十三王国に降ったと思っていたのだ。いや、今も思っている!」
「裏切り者ってことですか」
じゃあ、ここで言う必要はないんじゃないの。
俺が本当に裏切り者だったら、今頃あんたは八つ裂きにされてるよ。くわばらくわばら。
「材料はある」
伯爵はわずかながら落ち着いて、また左右にうろうろとし始めた。どうやら彼女の癖らしい。
「昨日、お前がただ一人生還したということ。スーリオス隊も他の伝令もことごとく殺されたというのに」
「運が良かったですね」
「十三王国に内通したと考えれば、話は早い。私はそう考えた」
伯爵の側近たちがいつでも武器を抜ける態勢になっている。俺がぼろを出さないか、じっと見張りながら……。
「それで、今も誘導尋問を仕掛けているわけですか」
「最も合理的な解釈だろう? 他の誰もが死んでいる。生き残ったのはお前だけ。どうとでも言い訳できる状況だ」
「もし内通してるんなら、そんなわかりやすい状況を作りませんよ」
「偶発的な出来事だった可能性がある」
「この通り、ザルモニア公の首も持参したじゃないですか」
俺は伯爵がぶら下げたままの首を指差した。
「これか?」
伯爵はザルモニア公のハゲ頭を叩いた。
「わかったものじゃない。十三王国でも鼻つまみ者に属するこの男だ。案外、十三王国の謀略の具として切り捨てられたのかもしれん。内通者の素性を隠すにはちょうどいい材料になる」
疑心暗鬼もここまで来ると大したもんだ。
だが、一方で理解できる部分もある。謀略としての使者を送り出したら、その使者が予想通りに襲われた。これで話は終わりかと思いきや、使者が返り討ちにして、あまつさえその首を持って帰ってきた。怪しむなという方が無理だろう。
「そして、君は帰ってきた。私が送り出した斥候よりも早くだ。難しい話ではあるが、斥候を始末することもできるんじゃないか?」
右に左にと行き来していた伯爵の足が止まり、その目が俺を射る。
側近たちが緊張して俺を睨む。
少しでも敵らしい素振りを見せた瞬間にバッサリ斬りつけられるだろう。
それでもいいか、と少し思い始めている。デュラン・スクルトゥヌスとして生きると決めたのは確かだが、帝国に義理立てする必要は何もないのだ。生前のデュランのロールプレイを継続する意味もない。
十三王国に走ってもいいし、あえて帝国のお尋ね者として各地を逃げ回るのもいい。それができるだけの力を手に入れた。
「少し、お待ちを」
声がした。レオノラの声だ。
俺は彼女が見えるか見えないかの位置まで振り返った。伯爵や側近たちからも目を逸らすと、隙をついて攻撃されかねない。殺気で大体の動きはわかるとはいえ、過信は禁物だろう。
「伯爵には悪いことをしました。私にも責任の一端があります」
何を言い出すんだ?
混乱する。俺が生き返ったことも、ザルモニア公を討ち取ったことも、レオノラには関係のない話だ。
「どういうことです、軍師殿」
伯爵も意外そうに尋ねている。声色が明らかに変わった。
「私が様々な新魔法の開発に取り組んでいることはご存知ですね?」
「もちろんです」
「デュランくんには、その被験体となってもらっていました。彼には魔法の才能も、魔法をかけられる才能もありますから」
初耳だ。
少なくとも、生前のデュランくんの記憶にはない事項だ。
そもそも、レオノラのことを見聞きはしているが、直接に話をした経験は数えるほどしかない。それも仕事の上でだ。
「この新魔法が完成すれば、全軍の戦闘力が劇的に上がることが予測されます。何しろ超人を作り出す魔法なのですから……」
「超人を作り出す魔法!」
伯爵もその側近たちも、驚きを隠せない様子だった。
それは若き軍師殿が人体実験にその手を染めていたから……じゃないよな、絶対に。そういう倫理観が生まれる土壌にない。戦争をしているのだ、彼女たちは。
ともかく、レオノラの話を聞かなければなるまい。