第98話 長谷川真昼、山崎吉家の恐ろしさを知る
比叡山延暦寺に立て籠もる浅井・朝倉連合軍と、それを麓から包囲する織田軍。
冷えた空気が両軍の体温と士気をじわじわと奪い、戦線は完全に膠着状態に陥っていた。
そんな中、比叡山中の朝倉軍陣所で、山崎吉家は薄暗い陣幕の中で地図と睨み合っていた。
彼の手元で、3つの英霊ボールが不気味な光を放って浮遊している。
猛虎の初代主将『マツキ』、冷徹なる遅延の権化『アリトウ』。先日の宇佐山城の戦いで森可成から奪い取ったばかりの、哀愁漂う猛牛の魂『ナッシー』だ。
「……吉家殿!」
そこへ血相を変えて陣幕に飛び込んできたのは、朝倉の将・前波景当。
「堅田の地を任せている浅井家の水軍衆、猪飼昇貞の動きが怪しいと見張らせておりましたが……ビンゴです! 奴ら、織田へ寝返る手筈を整え、密使を放ちました。その密使、すんでのところで我が配下が捕縛いたしましたぞ!」
景当は鼻息荒く息巻いた。
「直ちに長政殿に報告し、裏切り者の猪飼を血祭りにあげましょう!」
「いや、待て」
それを吉家は冷ややかに制止した。
吉家の脳裏に、包囲網の地図と、これまでの織田軍武将たちのデータが瞬時に展開される。
「大津・堅田方面を封鎖している織田の将は……坂井右近将監政尚だったな」
吉家はマツキを掌で転がしながら、思考を深める。
坂井政尚は織田家の古参にして猛将。だが、先の姉川の戦いにおいて、浅井家の磯野員昌による猛突進の突破を許してしまったという、致命的な失態を犯している。
「政尚は今、姉川での失態を挽回しようと、血の滲むような思いで功を焦っているはずだ。……アリトウ殿の遅延戦術でジワジワ削るのも手だが、こういう前のめりな相手には甘い釣り球を投げて空振りを誘うのが定石。そうであろう?」
吉家の問いに、マツキが黄色の光を明滅させた。
『おうよ。力んでバットを短く持てんような打者には、目線の高さにボール球を投げて振らせるのが野球の鉄則じゃ。……吉家、ええ監督になれるぞ』
吉家は口角をわずかに上げ、景当に命じた。
「捕らえた密使を脅し、予定通り坂井の陣へ向かわせろ。猪飼の裏切りが露見し、朝倉軍がパニックに陥り撤退の準備を始めたと伝えさせるのだ」
「はっ!」
「撤退の偽装は俺がやる。景当、お前は弟の吉継と共に兵を率い、坂井の背後に回れ。功を焦って飛び出してきた坂井と、裏切り者の猪飼をまとめてすり潰せ」
「なるほど……! 釣り球に手を出したところを討ち取るわけですな。承知いたしました!」
景当は意気揚々と陣幕を後にした。
***
大津の織田軍陣地では、坂井政尚は泥だらけになりながら、信長から支給された特注の金属バットを狂ったように素振りしていた。
ブンッ! ブンッ! ブンッ!
彼の心の中は、空気を切り裂く重たいスイング音よりも激しい焦燥感で荒れ狂っていた。
(俺は……俺はまだ、織田の一軍としてやれるはずだ!)
姉川で磯野員昌の突撃を止められなかった、己の不甲斐なさが脳裏によぎる。
(ここで手柄を立てねば、ベンチにすら座れなくなる! 息子たちに顔向けができん!)
そこへ、ボロボロになった猪飼の密使が転がり込んできた。
「堅田衆か。元六角の配下だったな」
「は……猪飼様は浅井ではなく、織田様にお仕えしたいと願っております。どうか口添えと援軍をお願い申し上げます」
「……ふむ」
「坂井様、我ら猪飼の動きに、どうやら朝倉が悟ったようでございまして、堅田が落ちる前に全軍撤退する動きを見せております」
密使は震える声で、堅田の寝返りと朝倉軍撤退の兆候を政尚に伝えた。
「なに? 朝倉が退却の準備を……?」
政尚が夜闇に目を凝らすと、比叡山の山中を動く朝倉軍の松明の列が、確かに北へ向かって慌ただしく後退していくように見えた。
「今だ……! 朝倉が浮き足立っている今、背中を叩き、猪飼と合流して一気に比叡山包囲の風穴を開ける! 信長様に、この政尚の意地をお見せするのだ!」
「お待ちくだされ! 罠やもしれませぬ!」
「せめて信長様か半兵衛殿の指示を仰いでから……!」
副将桑原平兵衛と、安藤守就の息子にして竹中半兵衛の義兄弟、安藤右衛門佐が必死に制止するが政尚の耳には届かない。
目の前に絶好の甘い球が飛んできたのだ。これを振らずして何が武士か。
「時は一刻を争う! 信長様へ使いを出し、我らは朝倉軍を追撃するぞ!」
政尚は金属バットを掲げ、部隊に突撃命令を下した。
政尚の部隊が堅田に到着するが、指定された合流地点に猪飼昇貞の姿はなく、不気味な静寂だけが泥の匂いと共に広がっていた。
「……猪飼の奴、どこにいる?」
政尚が訝しんだ刹那、背後の闇から凄まじい殺気が膨れ上がった。
「かかったな織田の愚か者! ここで死ね!」
前波景当と吉継の兄弟が率いる朝倉の伏兵が、政尚の部隊を完全に包囲していたのだ。
「……騙されたか!」
自分が朝倉の巧妙な釣り球に引っかかり、まんまとおびき出されたことを悟る政尚。
退路は完全に断たれ、味方の兵は次々と朝倉の槍に倒れていく。
桑原平兵衛、安藤右衛門佐もここで命を散らした。
「かくなる上は……この命、最後の一振りまで使い切ってくれるわ! 姉川の汚名、ここで死んでも雪いでみせる!」
政尚は金属バットを構え、朝倉の重装歩兵の群れに単騎で突っ込んだ。
「くらえ! 坂井政尚の最期の打席ぞ!」
ガギィィィン! ゴシャッ!
バットが空気を切り裂くたびに、朝倉の兵士たちが兜ごと粉砕され、夜空へと宙を舞う。
政尚の凄まじい気迫と腕力に、伏兵であるはずの朝倉軍が逆に押し込まれ始めた。
「ええい、たかが棒切れ一本に怯むな! 陣形を立て直せ! 俺が討ち取る!」
景当が長槍を構え、政尚に一騎討ちを挑んでいく。
「邪魔だぁぁぁ!」
政尚は全身に数本の矢と槍を受け、口から鮮血を吐きながらも止まらない。
バットを下段からすくい上げるような渾身のアッパースイングが、景当の槍を真っ二つにへし折り、そのままの勢いで、金属バットが景当の頭部を強打した。
「ぐわぁっ……!」
政尚の一撃で、景当は頭蓋を砕かれ即死した。
「兄上ェェェッ!」
弟の吉継が絶叫する。
政尚は景当を仕留めた直後、ガクリと体勢を崩した。
満身創痍の身体は、すでに限界を迎えていたのだ。
そこへ吉継の放った火縄銃の弾丸が、政尚の胸を正確に貫いた。
「がはっ……」
政尚の身体から力が抜け、膝から崩れ落ち、金属バットを泥に深々と突き立て、ピクリとも動かなくなる。
「……無念。信長様……真昼、殿……俺の、打席は……ここまで……」
織田家の猛将・坂井政尚。
堅田にて、壮絶な討死を遂げた。
***
夜が明け、朝倉軍の本陣。
吉家の元に、堅田での戦闘結果が報告された。
坂井政尚を見事討ち取ったこと。
ただし、裏切り者の猪飼昇貞には琵琶湖の海路から逃げられたこと。
追撃軍を率いた前波景当が、政尚の凄まじい抵抗に遭い討死したこと。
報告を聞いた吉家は、無表情のまま舌打ちする。
「……ちっ。政尚の首は獲ったが、猪飼のネズミには逃げられ、景当まで失ったか」
吉家は懐のボールたちを見下ろす。
「織田の将は、追い詰めると理屈を超えたフルスイングをしてくる。……高い代償だったな」
マツキが薄暗く明滅し、ボソリと呟く。
『だが吉家よ。これで織田の一角を確実に崩した。信長を釘付けするのに十分な戦果じゃ』
「ああ。まだまだ、信長包囲網は緩めんぞ」
吉家は織田本陣の方角を睨みつけた。




