第112話 長谷川真昼、信玄上洛戦に向かう
甲斐国、躑躅ヶ崎館に戦国最強を謳われる軍団の主、武田信玄がいた。
上洛という壮大な夢を目前にした彼の眉間に、深い皺が寄っていた。
「……信長め。どこまでも食えない男よ」
甲斐に、比叡山から流れてきた数千の難民が溢れかえっていた。
女、子供、そして武器を持たぬ学僧たち。彼らの手には、織田信長自らが署名した『武田信玄公への紹介状』が握られていた。
『信玄殿は慈悲深い王道の体現者である。この者たちを保護し、その徳を天下に示されるがよい』
文面は表向き信玄への敬意に満ちていたが、実態は兵糧攻めに等しい呪いである。
2万5千の軍勢を動かそうというこの時期に、数千の難民を抱え込まされる。殺せば仏敵・信長と同じ穴の狢と謗られ、救えば兵糧が底を突く。
信長は比叡山を焼くことで悪名を背負いながら、同時に副産物である難民を兵器として信玄に送りつけたのだ。
「御館様、もはや限界にございます。難民に割く粥のせいで、遠征用の兵糧が不足し始めております」
宿老たちが悲鳴を上げる中、信玄の懐で黄金の光が脈動した。
英霊ボール『シゲオ』。
それは理論や打算を越えた、圧倒的な本能と陽の力を象徴する魂。
『……信玄ちゃん。迷うな。計算で勝とうとするから苦しくなる。心の声を聞け。勝負の匂いは、もう南から漂っているぜ』
シゲオの輝きに呼応するように、信玄の周囲に控える将たちのボールもまた、異様な高揚感を持って明滅を始めた。
「……そうだな、シゲオよ。策に溺れて好機を逃せば、それこそ信長の思う壺だ」
『そうよ。苦しくなれば奪えばいい。栄光のジャイアンツは、他球団から奪って奪って奪いまくって栄光を維持したのさ。いわゆる一つの、必要な補給』
信玄は決然と立ち上がり、全軍に告げた。
「難民は躑躅ヶ崎に残せ! 飢えさせはせぬ。……その代わり、三河・遠江を蹂躙し、徳川から兵糧を奪い取る! 奪った糧食で、この民たちを救うのだ! これこそが、我ら武田の王道よ!」
信玄の言葉は、矛盾を強引に正義へと変換する圧倒的なカリスマに満ちていた。
***
出陣の朝。
館の広場には、最強の布陣が揃っていた。
先陣を切るのは、鋭い眼光を放つ猛将、山県昌景。
彼が掲げる英霊ボールは、青白く、毒々しいまでの魔力を放つ『アクタロウ』。
「御館様、調整は万全だ。徳川の陣など、アクタロウの魔球ドロップのような機動で一瞬にして粉砕してやります」
傍若無人な自信家だが実力は絶対的。アクタロウの光は、敵陣を焼き尽くす悪童の如き苛烈さを秘めている。
昌景の隣には、信玄が次世代の旗頭として期待を寄せる、勝頼。
彼が持つのは、爽やかな覇気を纏った『ワカダイショウ』。
「父上。若き世代の底力、お見せしましょう。王道の光、私の手で高く掲げてみせます!」
眩いほどの輝き。それは未完成ゆえの爆発力を秘め、軍団の士気を極限まで高めていた。
そして軍の殿と補給を司る、堅実なる老将、馬場信春。
彼が握るのは地味ながら決して折れぬ、いぶし銀の輝きを放つ『タナベ』。
「……派手な戦いはいりません。隙のない布陣で、確実に敵を追い詰めましょう。それが勝利への近道です」
いかなる難局でも表情を変えず、正確無比な指示を飛ばす獅子の魂。
この『タナベ』の安定感があるからこそ、シゲオやアクタロウといった荒ぶる天才たちが、力を存分に発揮できるのだ。
「よし、行け! 遠江へ! 徳川家康の首を獲り、信長の心臓へ手をかけよ!」
ドォォォォン……!
甲斐の山々を震わせる法螺貝の音。
2万5千の赤備えが、地平線を赤く染めて動き出した。
それは、ただの進軍ではない。
古き時代を終わらせるための、巨大な荒波。
武田軍の陣営は東美濃から届いた吉報――秋山虎繁とおつやの方の愛がもたらした岩村城開城の報が、追い風となって軍旗を揺らしていた。
***
岐阜城の最上階、天守の間に氷の刃のような冷気が充満していた。
外の寒さではない。上座に座る織田信長様から放たれる、絶対零度の怒りだ。
「……叔母上が、秋山虎繁に城を明け渡し、祝言を挙げただと?」
信長様の声は静かだった。
ただ手元にあった高価な天目茶碗は、音もなく粉々に砕け散っていた。握力だけで粉砕されたのだ。
「は、はい……。岩村城はおつやの方様の裏切りにより無血開城。東美濃の防衛線は崩壊しました」
報告する斎藤新五郎利治君の声も震えている。
岩村城は美濃の東の玄関口。
そこを奪われたということは、武田軍がいつでも岐阜城の喉元にナイフを突きつけられる状態になったことを意味する。
しかも裏切ったのは信長様の実の叔母だ。
叔母といっても、信長様より年下というややこしい間柄だけど。
……おつやさん、穏やかな美人さんだったのに。
まあ、織田家女性陣特有のヤバさはあったけど。
「……ククッ、ハハハハハ!」
信長様が乾いた声で笑う。
「面白い。長政、お市に続いて叔母も裏切るか。よかろう、ならば力で捻じ伏せるまで」
信長様は立ち上がり、巨大な地図を睨みつけた。
「信玄の狙いは、浜松の家康を無視して一気に京へ上ることではない。……奴は確実に徳川を殺しに来る」
隣で竹中半兵衛君が頷き、扇子で遠江を指し示す。
「はい。信玄は派手な舞台を好みます。素通りして無視するような地味な勝利よりも、家康殿を完膚なきまでに叩き潰し、絶望という名の衝撃を放つことを選びます」
「家康は耐えられんぞ」
信長様が即答し、半兵衛君も即座に返す。
「僕が家康殿なら、浜松城を包囲された段階で降伏し、織田との戦いの先陣を願い出るでしょう」
「……俺でもそうするわ」
「ちょっとちょっと、半兵衛君も信長様もなに他人事みたいに言ってるんですか。勝つ方法考えましょうよ。それに、家康さんはタヌキだけど裏切るようなことはしませんよ。旭ちゃん命なんですし」
私が励ますと、2人は同時に「「それだ(です)」」と口にして見つめてきた。
「問題は家康よ。こっちは畿内まで武田を引きずり込み、兵站が伸びたところを叩き潰したい……が」
「家康殿は、浜松で武田相手に必死に抵抗するでしょう。織田を裏切らず、全軍引き連れ、岐阜まで撤退する策を弱気と断じて。……いやはや、頭が痛い。単純に裏切ってくれたほうが、こっちは家康殿ごと武田を叩き潰すだけなのですが」
「家康が大敗すれば、他戦線に影響する。朝倉も浅井も勢いづき、三好に本願寺も今が好機と蜂起する。……これが一番最悪のシナリオだ」
「ヒエッ……信長様も半兵衛君も、命を賭けてる家康さんの心配してあげようよ」
私が2人の腹黒さに呆れていると、さらに悪い報告が入ってくる。
「知多の水野信元殿、家康の徹底抗戦論に呆れ戦線を離脱。……武田に使者を放ったようでございます」
報告したのは佐久間信盛さんだ。甲冑姿で、いつでも出陣できるとスタンバっている。
信元さん……あのタヌキおじさんが……。
「……であるか」
信長様は短く呟き、そして信盛さんの顔をじっと見た。
「右衛門尉(信盛)。甚左衛門(平手汎秀)と共に出陣せよ」
「ははっ! 承知しました」
「……ただし、勝とうと思うな。家康を説得して岐阜まで連れて来い。……さらに信元殿を見張れ。もう一つ、可能なら信玄の首を獲れ! 以上だ!」
信長様は凄惨な笑みを浮かべた。
「……ははっ!」
無茶振りすごくね? 信盛さん、後半から青ざめていたよ。
『先発投手がいなくなって、負け試合を作るようなものじゃな。想定外で勝つこともあるが、大抵は負けるんじゃよなあ。完膚なきまでな』
信長様の手にあるセンイチがため息をつく。
センイチ? 野球の試合なら次があるけど、戦国で負け試合は即死だよ?
「さて、浅井・朝倉は長秀殿と秀吉殿を主軸に封鎖に成功しています。武田の上洛に呼応することはできないでしょう。……ですが岩村城の裏切りで、我らに自由に動ける存在は居なくなりました」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
この流れ、絶対私に何かやらせる気じゃん。
「半兵衛は岐阜に残り、各戦線の采配を取れ! 俺と真昼とセンイチで武田本陣に向かう! 新五郎(利治)は俺にもしものことがあれば、奇妙丸を元服させ当主にして支えよ!」
「承知しました。ご武運を」
新五郎君、即座に返答するけど、これ、止めようよ。
「はああああああ? 信長様と私とセンイチだけで⁉ 総大将が敵の本陣に直接⁉ どのくらいの軍勢率いるの? 信長様⁉」
「何言いやがる。軍勢率いたらあっという間に囲まれて討ち死によ。行くのは俺と真昼だけだ」
私は目が点になる。
ギイっと首を動かして半兵衛君を見ると真剣な顔で頷いてきて……信長様は……笑ってるんですが⁉
「現状、この策しかありません。まずは京に向かってください。黒田官兵衛殿が渾身の説得をしてくれて、例の御仁を連れてきてくれてます。……真昼殿、センイチ殿、信長様をお願いします」
こうして、迫りくる武田軍に向かう私と信長様。
史上最強の騎馬軍団と、ついに相まみえる時が来た。
……信長様、相変わらず行動力の化身過ぎる。




