幼なじみの少女
葉月の明るい様子に戸惑いながら、和弥はつぶやいた。
「夏原さんに『和弥兄さん』と呼ばれるのは、少し恥ずかしいな」
「嫌ですか?」
「嫌ではないけどね」
「なら、いいですよね? それに、わたしのことも『夏原さん』なんて他人行儀な呼び方をしないでください」
「なんて呼べばいい?」
「昔みたいに『葉月』でいいんですよ」
「そういうわけにはいかないよ」
たしかに小学生のころは、和弥は葉月のことを呼び捨てにしていた。
逆に葉月は、智樹に対するのと同じように、和弥のことを「和弥兄さん」と呼んでいた。
それぐらい、親しかったのだ。だけど、いまは違う。
ためらう和弥に、葉月は唇を不満そうに歪めた。
「復唱してください。『葉月』」
「ええと、葉月さん?」
「『さん』はいりません。もう一度」
「あー……、葉月?」
「よろしい」
満足そうに笑みを浮かべた葉月は、すっと和弥に近寄った。
和弥は思わず後ずさった。反対に、葉月はもう一歩和弥へと近づいた。
和弥を見上げた葉月は、和弥の右腕をつかんだ。
「お話があります、和弥兄さん」
「ええと、もう話すことはないってさっきは言ってなかった?」
「姫宮先輩には、話すことはありません。でも和弥兄さんには話しておかないといけないことがあります。一緒に来てください」
「どこへ?」
「もちろん、私の家ですよ」
和弥と葉月は、一緒に駅へと向かい、市営地下鉄に乗った
日本で二番目に儲からない路線だけあって、それなりに空いていた。
和弥が車両の座席に座ると、葉月はその横にくっついて座った。そして、葉月は和弥の顔を見上げて、ひたすら喋り続けた。
その多くはとりとめのないことで、クラスの噂話だったり、葉月の入っているバスケ部の先輩の悪口だったりした。まるで、不安を打ち消すかのように、葉月は喋り続けた。和弥はその一つ一つに相槌を打った。
葉月の家に着くまで、二人とも一度も智樹のことは口にしなかった。
「久しぶりだな。夏原さんの家に来るのは」
閑静な住宅街に立つ、一軒の家を眺めて、和弥はつぶやいた。
「……和弥兄さん」
「なに?」
「『葉月』です」
葉月は人差し指を立てて、和弥を睨んだ。慌てて和弥は「悪い、葉月」と言い、それに対して葉月は微笑んだ。
葉月と智樹の住む家は、広々とした庭付きの一戸建てだった。大正時代に建てられた左右対称の洋館は、オレンジ色の屋根が印象的な三階建ての建物だ。
小学生のころは、和弥もここによく遊びに来ていた。
洋館はまったく明かりがついていなかった。
玄関の前で、和弥は立ち止まった。
「ご両親は?」
「今日は、仕事で帰ってこれないそうです」
何でもないことのようにさらりと葉月は言った。
つまり、和弥と葉月は二人きりということのようだった。
ためらう和弥に、葉月は不思議そうな顔をした。
「どうしたんですか、和弥兄さん。早く入ってください」
「……ああ、うん」
少し緊張しながら、和弥は葉月に続いて洋館に入った。
どうして、他人の家というのは独特の匂いがするのだろう。
久々に立ち入る夏原家は、あまり変わっていなかった。
洋館のなかは、全体的に落ち着いた雰囲気の、茶色に取り囲まれた空間だ。一階の中央に広間があり、その隅に木製の螺旋階段がある。
赤い絨毯の敷かれた広間の中央で、葉月が立ち止まり、こちらをくるりと振り返った。制服のスカートの裾が翻る。
「さて、さっそくですが、和弥兄さんには、智樹くんの部屋を見てもらいます」
「言っておくけど、あまり役には立てないと思うけど」
「それならそれで、いいんです。何か見つかれば儲けもの」
「はっきり言うなあ」
「私が気づかないことでも、和弥兄さんにはわかるかもしれません。期待してるんですよ?」
「できるだけ頑張るよ」
和弥が呼ばれた理由は、「智樹の部屋から失踪の手がかりを見つけろ」というものだった。
いわば現場検証みたいなものだ。
和弥を振り返りもせず、葉月はさっさと階段を登っていた。
広間のなかに螺旋階段がある家なんて、滅多にない。
「そういえば」
葉月は前を向いたままつぶやいた。
「高等部の一年生は、文理選択の時期でしたよね」
「ああ、そうだよ」
「和弥兄さんは文系と理系、どちらにするんですか?」
「たぶん理系。夏原さんは?」
「『葉月』、ですよ。和弥兄さん」
「……葉月は来年どうするの?」
「私も、理系です」
聞くまでもなかったな、と和弥は思った。
両親と同じく、葉月は医学部を受験するつもりなのだろう。進学校である和弥たちの学校では、珍しくない選択だった。
しかし、葉月は首を横に振った。
「医者になるつもりはないんです」
「へえ、何か他に目標があるの?」
「ノーベル賞をとりたいんですよ。物理学賞」
「ああ、なるほど」
葉月が振り返った。
「和弥兄さんって、変わってますよね」
「そう?」
「そうですよ」
「ちなみに、褒めてないよね?」
「さあ、どうでしょうか」
にやりと葉月は笑い、智樹の部屋の扉を力強く開けた。




