長過ぎた友情の余波(*)
映画を観て食事をし、休日を過ごすのが、ゆかりと優には当たり前となっていた。
横浜で食事をした後、少しためらってから、ゆかりが切り出した。
「優くんの部屋に行ってもいい?」
「いいよ」
いつものようにやさしく微笑んだ優に、ゆかりがホッとした表情になる。
「『J moon』が出来る前から住んでたから、もう長いなぁ」
部屋では、そう言いながら、優が紅茶をテーブルに置いた。
スピリッツやリキュールの瓶がラックに並ぶキッチンとつながったリビング、それとは別に寝室がある。
リビングのスペースには電子ピアノ、場所を取らないオーディオ機器、CD、楽譜や本、そして、テレビがあり、大きめのローテーブルがあるだけだった。
「ここに、蓮華さんやあなたのお友達も遊びにきて、楽しく過ごしていたのね」
ローテーブルを前に座ったゆかりが、想像の過去へと思いを馳せる。
それから、ふいに優を見た。
「優くんは、今しあわせ?」
ナチュラルに近いメイクのゆかりは、ステージにいる時よりも控えめで、幼くも見える。
思わず笑ってから、優が応えた。
「きみがいてくれるだけで、しあわせだよ」
そう言って、ゆかりの頬に口づける。
引き留めるような顔になる彼女に気が付きながらも、優は離れた。
「……どうして、いつももっと触れてくれないの? 兄も、やっと付き合いを認めてくれたのに」
淋しそうな微笑みのゆかりが、静かに訊いた。
それを、何とも言えない表情で見つめる。
「これでも怖じ気付いてるんだよ。理想の人を前にすると、誰でもそうなるよ」
「だったら、私は、ずっと孤独なままだわ」
優の瞳を見つめたまま、ゆかりは続けた。
「こんなこと言ったらいけないってわかってるけど、……奏汰なら、物怖じせずに癒してくれた。音楽に同調した勢いも大きいけど、いろいろ考えずに、ただ感覚のままに……。それが、ありがたかった。私には、そういう疑似恋愛しか許されないの? 好きな人ともっと近づきたいと思ったり、心のつながりを求めてはいけないの?」
スターであるからこその悩みであるのかも知れない、と思った優だが、黙って視線を落とした。
「あなたを責めてるんじゃないの。実は、まだ蓮華さんのこと、引きずってるんじゃないかと思って……」
黙っている優に、ゆかりは遠慮がちに尋ねていた。
「……否定しないのね」
「嘘は付きたくない。男の方が、こういうことは引きずるのかも知れないね」
俯き加減に顔を上げ、優はゆかりを見た。
「蓮ちゃんに対してと同じくらい、きみには慎重になってる」
「慎重に……?」
「僕の問題であって、ゆかりさんが悪いわけじゃないよ」
「長過ぎる友情は良くないって、言ってたじゃない?」
「……」
「今日は口数が少ないのね」
どう言葉にしていいか、戸惑いが優の顔には浮かんでいた。
「そんな顔しないで大丈夫よ。急いで切り替えなくてもいいと思うの。あなたは、ゆっくりしあわせになっていけばいいんだわ。だから、無理しないで」
宥めるように微笑み、ゆかりが立ち上がった。
「帰るわ。さよなら」
玄関のドアが閉まり、コツコツと、ヒールの音が遠ざかっていく。
ゆかりの声が、頭の中で反芻する。
急いで切り替えなくても……
あなたは、ゆっくりしあわせになっていけばいい……
蓮華とは結ばれることはなかったこの部屋で、この先、恋人と過ごすなどということはもうないと思っていた。
ゆかりといて、刺激も安らぎもあり、その楽しさに癒されてきた。
決着をつけたつもりの自分の心の奥底では、まだ蓮華に対する未練があったというのだろうか?
少なくとも、そう彼女は感じ取っている。
ヒールの音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
さよならって、言ってた……
とてつもない喪失感のようなものに襲われ、途端に落ち着かなくなった。
淋しそうな、悲しそうな笑顔だった。
あんな顔させたらいけない。
玄関まで駆け出し、ドアを開けると、そこに立ち尽くすゆかりの姿が目に飛び込んだ。
「……なんで……?」
驚きのあまり放心気味の二人のセリフは、重なっていた。
ゆかりが俯いた。
「……やっぱり、もう少し、優くんと一緒にいたいと思って……。なのに、なかなか声をかける勇気が出なくて……」
唐突に、優がゆかりの腕を引っ張り、力強く抱きすくめた。
硬直するゆかりの後ろで、ドアが自然に閉まる。
「良かった! 戻ってきてくれて……!」
「……え……」
「ごめん、ずっと淋しい想いをさせて。知らないうちに安心してた。そばにいてくれるものだって思い込んでた」
ゆかりの両肩に手を置き、正面から見つめた。
初めて見せる優の不安気な表情を前に、ゆかりは目を逸らせないでいた。
「今日は帰らないで。ずっとそばにいてくれる?」
初めて聞く優の言葉に、ゆかりの目が見開かれた。
「今まで、去って行った彼女は追いかけなかったって……」
「僕といるのが嫌になったなら、追いかけない方が相手のためなんだろうって思ってたから。だけど、きみのことは、……放したくない」
息がかかるほど、優の顔が近付いていく。
ゆかりの瞳から頬を伝う涙の粒を唇で受け止め、両方の頬を、撫でるように拭う。
すがるような彼女の瞳に応えるよう、そっと、触れるだけの口づけをした。
やわらかく、壊れないよう、触れては離れ——
心地良さの理由を求めて、さらに深く知りたくなる。
玄関に頽れるゆかりを、片膝を付いて抱えた。
待っていた、待たせていた想いは、少しずつ封印を解き放っていく。
言葉はない。
言葉を口にするより確かな想いを伝え合っていた。
今は、それが何よりも大事だった。
優の腕を引き寄せたゆかりを、優の腕がさらに力強く抱き寄せる。
体温の差が感じられなくなるまで、時間はかからなかった。
包み込み、包み返し、熱を持つ口づけが続いた時、ゆかりの瞳から新たな涙がこぼれた。
我に返った優が、心配になる。
「……気にしないで。嬉しいだけだから。嬉し過ぎて、どうしていいかわからないの」
目尻を指で拭い、ゆかりは笑ってみせた。
「僕もだよ。嬉しいのを持て余して、どうしようもなくなってる」
顔を見合わせると、二人は、はにかんだ笑顔になった。
「ありがとう」
そう言った優を、尋ねるように見上げる。
「背中を押してくれたから。きみを、ちゃんと好きなんだって、改めてわかった」
「私は、あなたのこと、ちゃんと好きよ」
「……ごめん」
「もういいの」
「……もうちょっとしてもいい?」
ゆかりは笑って応えた。
「私もそう思ってたところ」
「ああ、ごめん、こんなとこで!」
可笑しそうに笑ったゆかりを、優は慌てて抱き起こした。
「おはよう」
カーテンの隙間から朝日が差し込む。
すぐ隣にある優の顔を見つめ、一瞬見蕩れたように動かなかったゆかりが、特別な笑顔で応えた。
「おはよう」
「狭くてごめんね。よく眠れなかったでしょ? 朝ゴハン、パンならすぐ用意出来るよ」
「いいのよ、気を遣わないで。もう少し、このままでいたいから」
すり寄ったゆかりを、優は片腕に抱えた。
「おはようって言った時の優くん、なんだか色っぽかった」
「え? そう? ゆかりさんは可愛かったよ」
「やだ! そんなこと言って!」
優がいたずらをするように素早く、ゆかりの唇に口づけた。
驚いて口を噤んだゆかりを見て、優が「ね?」と笑った。
「優くん、あの……」
「わかってる。ゆっくりなら、しあわせになっていけると思う」
穏やかな瞳を、安心したように見つめてから、ゆかりが人差し指で優の頬をつついた。
「でも、それを待っていられるのは、多分、私だけよ」
「それもわかってる。きみとしか、しあわせには、なれないから」
ぎゅっと、優は、ゆかりを抱きしめた。




