第一話 思い出
これは、ある村で起きた出来事の話です。
忘れてしまったこと。
思い出せないこと。
そして、最初から知らなかったこと。
その違いに気づくのは、いつも少し遅いものです。
どうか最後まで、翔平の記憶を一緒に辿ってください。
あの夜、俺はひとりだった。
それだけは覚えている。
何をしていたのか。
どこにいたのか。
何度考えても、何も出てこない。
ただ——。
妻が俺の名前を呼んだ声だけは、今でもはっきり残っている。
「翔ちゃん」
あの声を聞いた瞬間、俺は帰ろうと思った。
何から帰ろうとしたのかは、分からない。
でも——。
妻の声がなければ、俺はここにいなかった。
だから俺は、妻を信じている。
それだけは、一度も疑ったことがない。
だが、最近ひとつだけ、おかしなことがある。
妻との記憶を辿ろうとすると、そこだけが妙に遠い。
手を伸ばしても届かない場所にあるような——。
いつからそうなったのかも、分からない。
「最近、俺、おかしくないか?」
以前、一度だけ妻に聞いたことがある。
妻は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「そんなことないわよ」
「本当に?」
「ええ」
迷いのない返事だった。
「翔ちゃんは、昔から少し忘れっぽいところがあるもの」
妻はそう言って、俺の湯のみにお茶を注いだ。
「だから、気にしなくていいの」
湯気を眺めていると、不思議と心が落ち着いた。
そうか。
気にしなくていいのか。
妻がそう言うなら、大丈夫なのだろう。
妻は、いつもそうだった。
俺が迷えば、妻が答えをくれる。
だから俺は、その言葉に従っていた。
——今思えば。
俺は、自分の記憶よりも、妻の言葉を信じていたのかもしれない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、少しずつ記憶がほどけていくように進んで行きます。
「あれ?」と思ったところがあれば、どうかそのまま覚えておいてください。
きっと後になって、別の意味に見えてくるはずです。
それでは、もう少しだけ翔平の記憶を覗いてみてください。




