Scene 9
Scene 9
新宿中央署地下二階。
死体安置所があるこの階へは、普通のエレベーターでは、直接行けないようになっている。何かと人の出入りの多い新宿中央署のこと、ふらりと一般人に迷い込まれても困るからだ。
バトラー山崎が、部屋の鍵を開け、中に入っていく。
壁際のつやつやと光るステンレスの冷蔵庫の前で立ち止まり、引出しを引いた。
そして、その中に収められている死体カバーのファスナーを開ける。
伊織と川本は、一応、形ばかり遺体を覗き込んだ。
昨日すでに、相模原南署で、この『根岸』君とは、しっかりご対面済みだ。
「あのさ、川本。何で、この根岸君のこと、他殺だと思ってるわけ?」
伊織が腰に両手をあてながら、川本の顔を見上げる。
「……左首筋を手前に引いてる」
川本がひと言応じた。
すかさずバトラーが続きを引き取る。
「御承知の通り、自殺にせよ他殺にせよ、これは右利きによる傷である可能性が高いのでございますよ、幸村さん」
「根岸は、左利きのはずだ……ガサ入れの時、パソコンのマウスが左側に付けてあった」
川本の脳裏に、根岸宅の家宅捜索の一件が甦る。
パソコンを起動し、マウスを求めて伸ばした右手……。
そこにマウスはなかった。
「ふうん……? でも、それだけじゃ、ちょっと『弱い』んじゃない、川本? マウスだけ左で使ってたのかもよ」
言って伊織が、人差し指を立て、数回舌打ちをする。
「利き手につきましては、解剖で特定できましょう」
バトラー山崎が、そっと言い添えた。
川本が、バトラーに視線を向ける。
「根岸の遺書と奴の家から押収したプリンター類。付き合わせてもらえませんかね? あと……」
言いながら、川本が、内ポケットから、指輪とチェーンの入ったビニール袋を取り出した。
「これに、チェーンとかに……なんか付着してないか、皮膚片とか」
伊織が軽く鼻息を立てて、口を挟む。
「ああ、川本は昨日から、そのチェーンと指輪が『スリヤ』のだって言いたいんだよね? でもさあ、彼らになんか接点あるの?」
「大変恐縮ではございますが、川本さん。実は当係、園山警部補からも、昨日の押収品が、相当点数回ってきておりまして……」
バトラー山崎が慇懃に、そして、婉曲に拒絶の意を表し始める。
「え? でも。今のところそれほど緊急の案件、ないでしょ?」
伊織は目を見開いて、バトラーを振り返る。
バトラーは、ほんのりと悲しげにも見える微笑をたたえて、溜息をついた。
「『転落死』の件が本署を手が離れたから時間はあるだろうと仰りたいのですね? 幸村警部補は。しかし、他にも、井筒警部補御担当の『ホステス強盗傷害』などを抱えておりまして……」
「ああ、そういえば。何かそんなのやってたね、井筒班」
伊織はぐるりと天井に目をやった。
「……忙しいのは承知の上で、なんとか」
川本が、バトラーに頭を下げる。
「そこまで仰られては、致し方ありませんね」
バトラー山崎は、とうとうこう請け合った。
伊織、川本そしてバトラーが、遺体安置所から出る。
「そうそう、御存じですか? 幸村さん、川本さん」
歩みゆく二人の背中に、バトラーが、ふと声をかけた。
「留学生転落死も本庁への移送、実はまだなのですよ。課長のご命令でしたから、急ぎ御準備申し上げましたのにねぇ」
*
新宿中央署の四階廊下を、川本と伊織が、刑事課本室に向かって歩いていく。
「バトラーの話からするとさ、本庁さん。言うほどスリヤの事件を頑張るつもりなさそうだね」
そんな伊織の問いかけにも、川本は上の空といった様子で、相槌を打つだけだった。
席に戻ると、川本はパソコンに向かい、中指二本で、黒い画面に何やら猛然とコマンドを打ち込み始める。
伊織といえば、しかめっ面で、様式集と首っ引きになっているが、書類仕事は猛然とはかどっているとは言えない様子だった。
昼のチャイムが鳴り響く。
真山は、手にしていた文庫本にしおりを挟むと、ノートパソコンの上に丁寧に積み上げた。
本橋が、手提げ袋から、ハンカチに包んだタッパーを取り出す。
川本が洗ってきたカップを手に、本橋の横を通りかかった。
「弁当? まさか自分で作るのか、本橋」
「いやぁ、作ったなんて程のものじゃ。夕食の残りを入れてきただけっすよ、川本さん」
伊織も身を乗り出して、本橋のタッパーを覗き込む。
「っていうか。モトピー、そもそも夕飯自炊なんだ。すごいじゃん」
「どうせ、給与支給日前で、『ゲルピン』なんだろ?」
川本が、ぼそりと呟く。
「ゲル……って、何すか? それ」
本橋が目を丸くして伊織を見やる。
「さあね? ゲルマン系の超古代語かなんかじゃないの」
伊織は肩をすくめて、首を振ってみせた。
「ゲルピン……『金欠』ってこった。昔の学生なんかがよく使ったな」
真山がボソリとこう洩らす。
本橋が、再び伊織に視線を向けた。
「幸村さーん。いくらおっさんとはいえ、川本さんって、真山さんと同世代じゃないんすよね?」
「当たり前だ」
すかさず、川本が口を挟んだ。
「だって。川本さん、なんか、真山さんといつも、妙に世代感、噛み合った会話してるじゃないですか?」
本橋が川本を見上げる。
「名古屋の方じゃ、研究の先進度と社会的用語の先進度が、反比例する傾向があるんじゃない?」
伊織が小馬鹿にしたように言った。
「は? 何で、なごやっすか?」
またまた本橋が、声を上げる。
「……川本氏の出身は、名大工学部だろ?」
真山が、低く本橋に耳打ちする。
「あれ? 真山さん今日は、愛妻弁当じゃないんですか」
伊織が、猛然と会話の流れをぶった切り、話題を素っ飛ばした。
だが、さすが年の功というべきか、真山は、その程度のことには動じず、「今日はちょっと」と、軽く受け流す。
「じゃ、お昼一緒に行きません? 川本も来る?」
伊織の提案に、川本は黙って頷いた。
真山も立ち上がり、ジャケットを着込み始める。
「そんじゃぁ、モトピー」と、伊織が本橋の肩を叩く。
「電話番頼むな」
本橋を見下ろして、川本が続けた。
そして、伊織、川本、真山は、さっさと事務室から出ていく。
「え、えー?! なにちょっと。オレひとりだけ、おいてけぼりっすかぁ」
箸とタッパーを手に、伊織たちの後姿を見送る本橋の声が、空しく響いた。
*
コーヒー一杯、百八十円のセルフサービスチェーン店は、昼食終りのサラリーマンで、混雑していた。
カウンターのレジで、伊織はブレンド、川本がカフェラテ、真山はアイスのチョコレートラテを、それぞれに買い終わる。
真山は、さっさと禁煙席へと歩き出した。
伊織と川本が、その後に続く。
席に着き、チョコラテを半分ほど、一気に飲むと、真山はおもむろに席を立って、セルフのお冷を律儀に三つ汲んで来た。
伊織と川本が、恐縮して、軽く会釈をする。
「で? お前さん方。また、自分らだけで、何を嗅ぎ回ってるんだ?」
アイスチョコレートラテを飲み干し、真山がこう話を切り出した。
伊織と川本は、口をつぐんだまま、しばし視線をさまよわせる。
「あ、そういえば、真山さんってタバコ止めたんでしたっけ?」
伊織が作り笑いを浮かべながら、思いつきのように口にした。
「随分前にも、お前さんに同じこと聞かれたな」
真山が軽く鼻で嗤う。
返す言葉もなく、伊織はふたたび黙りこんだ。
川本は黙したまま、大量に砂糖を投入したカフェオレを、ひたすらスプーンでかき回している。
「……生活安全課の、園山がガサ入れした被疑者、町田で死んじまったって件な」
真山がこう話し始めるやいなや、伊織と川本は、ほぼ同時に水のコップを手に取った。
二人の様子にはまるでお構いなしに、真山は続けた。
「ガイシャ、根岸とか言ったな? そいつと、『本店』から物言い付いた、あのタイのにいちゃんの転落死。何か関係あると思ってるんだよな お前さん方は」
川本も伊織も、ただひたすら、ダンマリと口をつぐむ。
だが、二人の答えなど、特段、期待してもいなかったのか、真山はお冷のグラスも一気に飲み干すと、さっさと立ち上がった。
「ま、何かやることあったら言ってくれや、班長さんよ? こっちのボウズも、それなりに、時間ありそうだしな」
急ぎ立ち上がると、伊織がやっと口を開く。
「え、モトピー、そんな暇してるんですか? アイツ、もっとシメてやんなきゃ」
川本がコートを着ながら、「刑事が弁当作ってるようじゃ、そりゃ暇ってもんだろ」などと嘯いた。
すると真山が伊織たちを振り返って、軽く首を捻る。
「そいつはどうかな? 弁当に関しては、暇っていうよりあれだ。『草食系』とかってんだろ? どっちかっていうと」
先に立ってスタスタ歩き出した真山の後ろで、伊織と川本は、しばし、ポカンと立ち尽くしていた。




