Scene 6
Scene 6
鉄扉が開いて、そして閉じる重い音がして、新宿中央署の地下駐車場に足音が響く。
捜査用車両が駐車された一角で、それが止まった。
「なに? どこ行くの、川本?」
シリアスな背景に、なんとも不釣合いな女のアニメ声。
「ったく、いちいち訊くなって」
面倒そうに、こう応じた男の声は、低くこもってくぐもっていた。
*
陽はもうすぐ沈もうとしていた。
川本と伊織が、とあるアパートの前で車を降りる。
大して新しくもないが、それほどうらぶれてもいない、一応は鉄筋コンクリートの五階建てだ。
一〇三号室。表札には、名前がカタカナで、たどたどしく手書きされている。
「あのさ、川本。スリヤ君んちなら、もう井筒班が見に来てるってば」
伊織の言葉を無視し、川本は管理人から借りてきた合鍵をドアノブに差し込んで、部屋へと入って行く。
部屋には、燦々と西日が差し込んでいて、灯りをつけなくても十分だった。
畳の上には、ゲーム機や日本語の教科書が散らばっている。
「おや、本庁さんは、まだ来てないみたいねぇ」
伊織が部屋をぐるりと見渡して腕組みをした。
「……結構、『まあまあ』の暮らしぶりだな」
と、川本が独りごとのように呟く。
伊織がショルダーバッグから、井筒班の報告書を取り出した。
出がけに井筒班員からせしめてきたばかりのモノだったが、なぜか、もうすでに端がよれている。
さっさと手袋を着け、川本があちこちを探り始める。
壁にもたれて、川本を眺めやりながら、伊織が大まじめな口調で言う。
「どう? 銃火器とか違法薬物の類は」
「……ねえよ」
川本が吐き捨てるように応じた。
伊織は掃き出し窓に近寄ると、サッシを開けて、外を見やった。
「じゃあ、脅迫状、変な写真、血のついた鈍器のような物とかも……」
「ない」
川本は、立ち上がって台所の方へと歩き出す。
「だろうねぇ」
伊織は、井筒班の報告書に目を落とす。
「『近所トラブルもなさそうだった』って、ここにも書いてあるもんねぇ……」
ふと、伊織は窓の外、ブロック塀の陰に佇む背広姿の男に目を留めた。
男はすぐさま、その場から立ち去っていく。
「あ……」
伊織が思わず、素っ頓狂な声を上げる。
川本が伊織を振り返った。
「なんだ? どうした、伊織」
梁にぶつからないよう、頭を屈めてキッチンから出てくると、川本は伊織に近づく。
すると、開け放してあった玄関ドアから、管理人が顔を覗かせた。
「あの、そろそろ管理室閉めますんで、鍵を……」
川本が、即座に振り返る。
「もう出ますから」
玄関の戸締まりをし、川本が管理人に鍵を渡した。
アパートの廊下を歩きながら、伊織が管理人に話しかける。
「スリヤさんって、どんな方でした?」
「どんなっていわれても、昼も、刑事さんに聞かれましたがねぇ。まあ感じのいい子でしたよ。ゴミ出しなんか手伝ってくれたり。ああ、そう言えば……」
「何です?」
川本が、すかさず先を促す。
「妙なこと言ってましたよ、ビュー」
「妙?」
伊織が口を挟んだ。
「部屋が荒らされたって。でも泥棒じゃないって。でも、何だか要領得なくてねぇ。ほら、あの子まだあまり日本語上手くないでしょ?」
そう同意を求められはしたものの、川本も伊織も、生前のスリヤ・チャイルンルアンの日本語能力について判断すべき情報は、特に持ち合わせていなかった。
「侵入されたが、何も盗られなかったってことですか?」
川本が確認するように、管理人に問いかけると、「……多分」と答えが返ってくる。
「それって、いつ頃のこと?」伊織が続けて訊ねた。
「つい最近ですよ、確か先週ぐらい」
そして管理人は、管理人室に入り、ドアを閉めかける。
しかしふたたび、川本と伊織の背中へと、「あの……」と声をかけた。
刑事二名が、即座に振り返る。
その勢いに、若干たじろぎながらも、管理人はこう続けた。
「……部屋の片付けの方なんですけどね。ご家族とかは。何ですか…ベトナム? でしたっけ、いらして下さるんですかねえ。こっちで勝手に業者とか入れちゃっていいんですかねえ」
伊織が川本を見上げ、軽く肩をすくめて見せる。
川本は、小さく吐息を洩らすと、
「一応、大使館通じて、タイ本国の方に連絡入れてると思うんで。ちょっと待っててください」
と言い置いて、歩き出した。
*
その部屋のカーテンは、昼夜を問わず閉めっぱなしだったが、生地は薄かった。
だから、夜になれば、表の看板や隣り合うビルの明かりが、部屋の中に洩れ入ってくる。
そんな、相変わらず片付いていない部屋で、根岸の携帯に非通知の着信が入った。
「ああ、どうも。ええ……判っていただけると思ってましたよ。場所? どこでも。こっちは、頂けるモンさえ頂ければ……」
根岸は朗らかながらも横柄さが滲み出た口調で、通話に応じた。
「……しかし、まさか、日本にねぇ。驚きましたよ。悪い事はできませんやね。お互いに」
携帯を持っていない方の手で、チャック付きの小さなビニールケースを弄びながら、根岸は、表からの光で薄明るい部屋を、ぐるりと見回した。
「え? 本当に本人かって? もちろん、『確たる証拠』もなしに、こんなこと言いませんよ」
*
スリヤのアパートから出てきた伊織と川本、濃紺のブルーバードに乗りこんだ。
助手席で豪快に伸びして、伊織が呻き声をあげる。
「ううぅ、さすがに疲れたぁ。川本もさ、今日は、公休つぶれて残念だったね?」
「……全然、気の毒がってないだろ、お前」
こう呟くと、川本はシートベルトのバックルを留めた。
伊織が、意味ありげな笑みを浮かべる。
そして、「まだ夜も早いし。ほら、行ってくれば?」と言うと、手にしたマッチ箱を振った。
「何だ、それは?」
川本が目を丸くする。
「だって、ここのシートの下に落ちてたもん」
伊織は即座にこう返した。
「ええっと……『キャバクラ・プリンセスリナ』だってさ。何これ、セクキャバ?」
「なんで俺に訊くんだよ、っていうか、どうして、それが俺のだって事になってるんだ」
「違うっていうわけ?」と、伊織は口を尖らせて言い返し、ダッシュボードにある出庫記録に手を伸ばした。
「だって、この車両、最近、出庫してるのわたしたちばっかだよ?」
川本は二の句も継げず、ただ短く唸り声を上げる。
「禁煙したんじゃなかった? 店とかでは吸うんだ?」
伊織が畳みかけた。
「俺のじゃないと言ってるだろうが!」
「タバコなんてさ、今どき。教養ないよ? 川本は、ホントおっさんだねぇ」
川本がひとつ、深い溜息をつく。
そして、無言のまま、ブルーバードのエンジンをかけた。




