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婚約破棄を承知いたしました。では、王家への立て替えは本日で終了です 〜元王太子妃候補は監査卿殿下と王宮の赤字を暴く〜  作者: 本城オブリゲータ


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8/8

最終話 仮机ではなく、正式な席をいただきました

 翌朝の監査局は、前日までより少しだけ騒がしかった。



 ベルクマン商会から押収した箱と帳簿が届き、会計局からは追加の照合作業依頼が流れ込み、近衛は朝から三度も廊下を走った。


 それでも、不思議と空気は悪くない。

 ようやく全員が《《同じ敵》》を見ているからだろう。


 王太子の気分でも、婚約者の沈黙でもなく、目の前の数字と証拠だけを相手にしている場は、思った以上に息がしやすかった。



「寝ていませんね」



 ヒルダ書記主任が、私の顔を見るなり言った。



「少しは」


「それを寝たとは言いません」



 ぴしゃりと返され、私は小さく肩をすくめた。


 でも気分を害しないのは、この人が私を客人ではなく《《働かせる前提の同僚》》として見ているからだろう。

 それに、実際あまり寝ていないのは本当だった。



 今朝の私の机には、新しい札が置かれていた。


 仮机、ではない。

 木札には整った字でこう記されている。



 《《監査局 特別補佐席》》。



 私はその札を見て、しばらく言葉が出なかった。


 たった一枚の木札なのに、婚約指輪よりよほど重く感じる。

 名前のための席ではなく、仕事のための席。


 前世でも今世でも、私が本当に欲しかったのはたぶんこういうものだったのだと思う。



「お気に召しませんでしたか」



 ヒルダ書記主任が少しだけ意地悪く訊く。



「いいえ」



 私は首を振る。



「思っていたより、ずっと嬉しいだけです」



 その答えに、彼女は眼鏡の奥で少しだけ目を細めた。


 そのとき、廊下の向こうから短い足音が近づいてくる。

 近衛の靴音ではない。


 無駄がなく、急ぎすぎず、でも待たせる気もない歩き方だった。



「陛下がお呼びです」



 ユリウス殿下が扉口で告げた。



「商会と会計局の照合が揃った」



 私は立ち上がる。


 机の上の札が目に入る。

 仮机ではなくなった席を一度だけ見てから、私はユリウス殿下の後ろへ続いた。




 小会議室は、謁見の間よりずっと狭い。


 けれど、狭いぶんだけ逃げ道もなかった。


 長机の奥に国王陛下。

 左に宰相と会計長。

 右にユリウス殿下。

 その向かいに、近衛へ挟まれるようにして座らされているのは、ガルストン会計監督官、ラドフォード主計補佐官、そしてベルクマン商会の支配人だった。


 全員が、一晩で十歳ほど老けた顔をしている。



「セシリア嬢」



 国王陛下が私を見た。



「昨夜から今朝にかけての照合で、ようやく流れが見えた」


「はい」


「念のため、そなたの口からも聞かせてくれ」



 私は長机の上へ広げられた紙束へ目を落とした。


 昨夜私が引いた照合表に、ヒルダ書記主任が補注を足し、会計長が王家側の総括欄を書き込み、近衛が押収品の出所を赤い札で示している。


 数字がようやく《《一枚の真実》》になっていた。



「王太子府の不足金は、単独の浪費ではありません」



 私はゆっくりと言った。



「結界院補修費、施療院支援費、街道修繕費など、急を要する予算から一時的に流用し、王太子府の私的裁量支出へ回す。

 その不足を、婚約者である私の保証で一度だけ埋める。

 翌月、別の名目でさらに不足が出れば、また次の保証へ飛ばす。

 この繰り返しです」



 ガルストンが顔をしかめる。


 でも、そこで口を挟まないのは賢明だった。

 数字の途中で口を出すと、自分で穴を広げることが多い。



「さらに」



 私はベルクマン商会の帳簿を示した。



「一部の高純度蒼石は結界院向け数量として計上しつつ、実際には宝飾加工用へ回されていました。

 結界院へは規格ぎりぎりの下位石を納め、数量だけ合わせていたのです」



 会計長が重々しく頷く。



「検査済みだ。

 東区画の出力低下も説明がつく」


「そして不足分を次も継ぎ足すため、私の私印を写した偽印を用意し、白紙保証状まで整えていた」



 そこで私はベルクマン支配人を見た。



「婚約解消後も、私の名で保証を走らせるつもりだったのでしょう」



 支配人の頬が引きつる。


 隣のラドフォードは、最初からこちらを見ない。

 ガルストンだけが、まだどこかで切り抜けられると思っている顔をしていた。


 古くから帳簿を弄ってきた人間特有の、悪い強気だ。



「違いますな」



 案の定、ガルストンが口を開いた。



「私はただ、王太子府の混乱を最小限に抑えようとしただけです。

 結界院が止まれば国が揺らぐ。

 公爵令嬢の保証を一時的に用いることも、広い意味では国益――」


「婚約解消後の令嬢の印を、本人の許可なく使うことが国益か」



 ユリウス殿下が平坦に遮った。

 その一言で、ガルストンの弁舌はぴたりと止まる。



「しかも一時的、というわりに、偽印は少なくとも二度使う予定だった」



 私は焦げた手紙の写しを机へ置いた。



「《《令嬢印はあと二度まで使える。次で切る》》。

 これはあなたの字ではありませんが、あなたの確認印が押された帳簿の月と綺麗に一致しています」


「それはラドフォードが……!」



 ついに、ガルストンが隣の男へ責任を振った。

 ラドフォードは青ざめたまま、やっと顔を上げる。



「私は命じられただけです!」


「誰に」


「ガルストン監督官と……それから、王太子府の側近からも」



 そこまで言って、ラドフォードは口をつぐんだ。


 誰の名を出せば自分が一番軽く済むか計算しているのが、見ていてよく分かる。

 でももう遅い。


 今さら人を選んで吐いたところで、抜かれた帳簿も偽印も戻らない。



「命じられただけ、か」



 国王陛下が低く言った。



「その言葉で、公爵令嬢の印を写し、王家の支出を騙し、結界院の石を抜く罪が軽くなると思うなら、会計を扱う資格はない」



 ラドフォードはそこで項垂れた。

 ベルクマン支配人も、顔色を失ったまま何も言えない。


 ガルストンだけがまだ唇を動かしていたが、もはや何を言っても数字は覆らないだろう。



「処分を申し渡す」



 国王陛下の声は疲れていた。

 だが、その疲れの奥にある怒りは十分伝わった。



「ガルストン会計監督官、罷免。

 ラドフォード主計補佐官も同じく罷免のうえ拘束。

 ベルクマン商会は当面の王家取引を停止し、資産と帳簿を差し押さえる。

 王太子府に連なる側近・商会・事務官については監査局にて継続調査」



 三人の顔から、最後の色が消えた。


 これでようやく終わりだ、と私は思う。

 王太子の浪費だけではない。


 そのまわりに巣を作った実務側と商人側の腐りまで、やっと表へ出たのだから。



「セシリア嬢」



 国王陛下が、今度はまっすぐ私を見る。



「そなたが帳簿を残していなければ、この件はあと半年は表へ出なかっただろう」


「そうかもしれません」



 私は答えた。


 本当は、前世ではもっと長く隠されていた。

 でも、それは今ここで口にすることではない。



「立替分については、王家正式会計よりヴァルテール公爵家へ返還する。

 また、今後は婚約その他の私的関係を理由に、家門の保証を会計へ混ぜることを禁ずる通達を出す」



 その言葉に、胸の内で何かが静かにほどけた。


 謝罪だけでは足りない。

 でも、仕組みが一つ直るなら、少なくとも同じ罠へ次の誰かを落とすことは減る。



「ありがたく存じます」



「もう一つ」



 国王陛下は続けた。



「ユリウスから聞いている。

 監査局でそなたを使いたいそうだ」



 私は思わず、ユリウス殿下へ視線を向けた。


 灰色の目はいつも通り静かだった。

 でも、こちらを見返す視線に躊躇いはない。



「私は《《使いたい》》とは申しません」



 彼が淡々と言う。



「必要です」



 短い。


 短いのに、その一言は妙に重かった。

 気の毒だからでも、埋め合わせでもない。


 純粋に《《必要》》だと言われることが、こんなにまっすぐ胸へ落ちるとは思わなかった。



「王家監査局に正式な補佐官席を設ける」



 国王陛下が言う。



「俸給は局長補佐級。

 私印と職印の管理は監査局規定で別保管。

 必要なら侍女一名の同伴も認める。

 どうだ」



 条件が良すぎて、一瞬だけ言葉が出なかった。

 前世では、私は婚約者という名目で働かされ、報酬も権限も曖昧なまま、最後に罪だけを被せられた。


 今は違う。


 席がある。

 俸給がある。

 印の管理も線引きされる。

 しかも侍女一名、つまりマリーまで一緒に守れる。



「条件を一つだけ」



 私は顔を上げた。



「申し上げてよろしいでしょうか」


「聞こう」


「王太子府関連の監査について、今後も《《婚約者だったから詳しい》》ではなく、《《私が数字を読めるから任せる》》という扱いにしていただきたく存じます」



 部屋が少し静かになった。


 でもそれは不快な沈黙ではない。

 ただ、想定よりまっすぐな条件だったのだろう。



「当然だ」



 先に答えたのはユリウス殿下だった。



「そなたを欲しいのは、その頭と手が必要だからだ。

 婚約者だったことは入口にすぎん」



 入口にすぎない。


 その言葉が嬉しいと思ってしまった。

 私はもう、誰かの隣にいる立場だけで価値を測られたくないのだ。



「では」



 一呼吸置く。



「お受けいたします」



 国王陛下が頷き、会計長が深く頭を下げた。

 ヒルダ書記主任は、会議の後ろで眼鏡の位置を直しながら、ほんの少しだけ笑っていた。



「今夕までに辞令を整える」



 国王陛下がそう言って会議は終わった。


 罷免された三人はそのまま近衛に連れていかれ、紙束だけが長机に残る。


 終わったのだ。

 少なくとも、この一件については。



 小会議室を出ると、廊下の窓から柔らかな午後の光が差していた。


 春の王宮は綺麗だと思う。


 でも前世の私は、この綺麗さの下に埋まる数字と悪意まで見ていなかった。

 今世の私は、もうそこから目を逸らさない。



「疲れたか」



 歩幅を合わせるように隣へ来たユリウス殿下が訊いた。



「少しだけ」



 私は正直に答える。



「でも、気分は悪くありません」


「そうだろうな」


「分かるのですか」


「顔が違う」



 それだけ言われて、私は少しだけ可笑しくなった。

 婚約破棄の夜から比べれば、たしかに今の私はよほどましな顔をしているのかもしれない。



 しばらく廊下を歩いたところで、ユリウス殿下が足を止めた。


 そこは昨日まで私が使っていた仮机の部屋ではなく、その隣の少し広い書記室だった。

 扉が開いている。



「入ってくれ」



 中へ入ると、窓際に新しい机が置かれていた。


 仮机より一回り大きく、引き出しには鍵がつき、横には印章箱専用の小棚まである。


 机上には何もない。

 けれど何もないことが、むしろよかった。


 これから自分で整える余地があるからだ。



「正式席だ」



 ユリウス殿下が言う。



「気に入らなければ、机の位置は変えさせる」


「……」



 私はしばらく、その机を見ていた。


 婚約指輪より、王太子妃教育より、こういうもののほうがずっと欲しかったのだと今さら分かる。


 自分のための机。

 自分のための鍵。

 自分の仕事のための席。



「気に入りました」



 ようやくそう言うと、ユリウス殿下はわずかに頷いた。



「それはよかった」



 また短い。


 でも、その短い返事の中に、妙に大事にされている感じがある。

 言葉が多ければいいというものでもないのだと、この人を見ているとよく分かる。



「一つ、確認してもよろしいですか」


「何だ」


「これは《《監査局補佐官》》としての机、ですよね」


「もちろん」


「……それだけですか」



 我ながら、少し妙な訊き方だった。


 でもユリウス殿下は笑わなかった。

 代わりに、私の手元ではなく、顔をまっすぐ見た。



「今のところは」



 その答えに、少しだけ心臓が跳ねる。



「《《今のところ》》とは?」


「仕事の話は今日で終わった」



 彼は平坦に言った。



「だから、次は仕事ではない話をしてもいい頃合いだと思っている」



 机の前で、私は言葉を失った。


 この人は本当に、必要なことを必要なだけしか言わない。

 だから、たまにこうして一歩だけ踏み込まれると、余計に逃げ場がない。



「私は」



 ユリウス殿下が続ける。



「最初から、そなたを気の毒な婚約破棄令嬢として見ていたわけではない」


「……はい」


「夜会や会計報告で、何度も帳簿の端にそなたの手が入っているのを見た」


「見ておられたのですか」


「見ていた」



 短く断言される。



「王太子府の数字が不自然なくせに破綻しないのは、誰かが下から支えているからだと思っていた。

 それがそなただと、ようやく確認できただけだ」



 胸の奥が少しだけ熱くなる。


 前世でも今世でも、私はずっと《《便利だから使われる》》側だった。


 でもこの人は違う。

 使っていたのではなく、見ていたと言う。



「ですから」



 私は机の縁へそっと指を置いた。



「私を監査局へ置くのは、情けでも埋め合わせでもないと」


「そうだ」



 ユリウス殿下は頷く。



「必要だから置く。

 できれば、この先も」



 その最後の一言だけが、少しだけ違う温度を持っていた。


 監査局の席だけではなく、その先も。

 意味は分かる。


 でも、ここで簡単に受け取るほど、私は前世で何も学ばなかったわけではない。



「でしたら」



 私は顔を上げる。



「まずはこの机に見合う仕事をいたします」


「それから?」


「それから先は、俸給と仕事ぶりと……正当な言葉を見て決めます」



 ユリウス殿下の目が、ほんの少しだけ細くなった。

 また、あの見えにくい笑い方だった。



「厳しいな」


「数字に甘くない性分ですので」


「知っている」



 それだけで、少し笑ってしまった。


 婚約破棄された令嬢が、新しい職場の机の前でこんなふうに笑える日が来るとは、前世の私には想像もできなかった。



 窓の外では、春の光が王宮の庭を白く照らしていた。


 私は新しい机を見た。


 引き出しの鍵。

 印章箱の棚。

 何も置かれていない天板。


 ここからなら、たぶんやり直せる。


 誰かの穴埋めではなく、自分の仕事として。

 そしてできるなら、その隣に立つ相手も、自分で選べる形で。



「セシリア」



 初めて、名前だけで呼ばれて私は目を瞬いた。


 ユリウス殿下も、自分で呼んでから少しだけ黙る。

 でも、言い直さなかった。



「歓迎する」



 短い一言だった。


 でも今の私には、それで十分だった。



 婚約破棄から始まったこの数日で、私はようやく知った。


 止まったのは私ではなく、あちら側だったこと。

 そして私自身は、ようやく自分の席へ辿り着いたのだということを。



 それならこの先は、もう少しだけ欲張ってもいいのかもしれない。


 仕事も。

 居場所も。



 その隣に立つ人も。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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本日、新連載を開始しました。


妹が「お姉様の代わりは務まります」と言うので、婚約者も役目も譲りました。ですが務まらなかったようです【連載版】

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本作の短編と同時期に投稿した同名の短編を連載化したものです。

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是非是非、皆様の応援をよろしくお願いいたします!


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― 新着の感想 ―
罷免…クビ、ただの拘束、財産ボッシュートだけか。 国に対して大規模な詐欺を働いた連中にしては軽いな。 極刑でも甘いぐらいだと思うけど。
犯罪者の処分が罷免でその他の刑罰が無いのは何故だろう
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