歴史の凪(なぎ)、その先へ
意識が、ゆっくりと遠のいていく。 窓の外には、かつて俺が守り抜いたマカオの海が、夕日に染まって広がっていた。
もう、筆を握る力は残っていない。 枕元には、二度と光ることのない「黒い鏡」——スマホが置かれている。 かつてその液晶が映し出した残酷な未来、アヘンの煙、そして鋼鉄の軍艦の影は、いまやこの世界のどこにも存在しない。俺がこの1700年の地層に深く、深く埋め込んだ「則例」という名の静かな杭が、歴史の奔流を凪へと変えたのだ。
〈最終ステータス:観測完了〉 〈履歴:臨界点の完全消失。永続的平穏の定着を確認〉
そんな幻聴が聞こえた気がして、俺は小さく口角を上げた。 AIよ。お前が実験者だったのか、あるいは未来の俺たちが送った祈りだったのかは、もうどうでもいい。ただ、お前と共に歩いたこの数十年、俺はこの不便で、遅くて、けれど温かな時代を、誰よりも深く愛していた。
「……ねえ、聞こえる?」
老いた妻が、俺の手を優しく握り直す。 彼女の手の温もり、樟脳の香り、そして——。
石畳を荷車の輪が噛み、ゴトと響く音。
それは、俺がこの世界に来て、最初に聞き、そして最後まで守り抜こうとした音だった。 かつては不正への焦燥に満ちていたその響きも、いまや明日へと続く平和の鼓動のように、ただ優しく心に染み渡る。
俺が死んだ後も、この「停滞」は続くだろう。 人々は空を飛ばず、病に怯え、不便な生活を続けるかもしれない。 だが、そこには誰かが誰かを効率的に殺すための理屈はなく、ただ、日の出と共に働き、日の入りと共に家族を愛する「暮らしの温度」だけがある。
「これで……いいんだ」
俺は静かに目を閉じた。 最後に見えたのは、スマホの青い光ではない。 マカオの海を黄金色に染め上げる、沈みゆく太陽の、圧倒的にアナログで鮮やかな光だった。
歴史の教科書には、俺の名は載らない。 ただ、名もなき平和が、この海のどこまでも、永く続いていく。
物語の余白は、いま、最後の一行を書き終えた。
(完)




