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ためらい(未踏の処方箋)

「俺がやっていることは、本当に正しいのか?」


夜のマカオ、手回し発電機の鈍いギア音が書斎に響く。 スマホの画面には、AIがシミュレートした「改変された未来」の予測曲線が表示されていた。EIC(東インド会社)の撤退、アヘンの根絶。それはたしかに数千万人の命を救う。だが、その代償は、文明の進歩という名の熱狂の喪失だった。


俺は、机の端に置かれた一通の報告書に指を触れた。 それは女薬種商ヒロインが持ってきた、沿岸部の流行病の記録だ。


「……本来なら19世紀に発明されるはずの抗生物質も、肥料も、この世界ではまだ生まれない」


俺はスマホに詰め込まれたWikipediaのオフラインデータを指でなぞる。 画面には、ペニシリンの構造式と、それが何億人の命を救ったかという輝かしい記述が並んでいる。一方で、目の前の報告書には、ただの感染症で命を落とした名もなき村の子供たちの数が記されていた。


俺が「則例」によって軍事的な競争を止めたことで、炸薬の研究は停滞し、化学工業の発展は数十年、あるいは百年単位で後ろへずれていく。


〈解析:平和化に伴う技術進歩率の減衰〉 〈現状:戦時需要の消失により、高圧缶および精密化学のインセンティブが喪失〉 〈予測:20世紀初頭における生活水準、史実よりマイナス60%〉


「技術が加速すれば、この子たちは死なずに済んだのかもしれない。なのに、俺は……」


窓の外では、樟脳の香りが漂っている。路地からは赤ん坊の泣き声と、それをあやす母親の静かな歌。アヘンの霧が消えた街は、たしかに穏やかだ。だが、この穏やかさは、未来の誰かが享受するはずだった「便利な命」を削って作られた、残酷ななぎではないのか。


「速さは自分を救わなかった。……でも、この『遅さ』は、無知な俺の独りよがりじゃないのか?」


漆の被覆が指先にぬるりと抵抗する。 俺は現代人として、自分の「便利」を捨てたのではない。この世界の人々に、抗う術のない「病と不便」を、平和という名目で強制しているのではないか。


〈警告:バッテリー残量 12%。低電力モード維持を推奨〉


AIの文字が、暗い画面で明滅する。 「平和は、私の不在を必要とする」 かつてAIが吐き出したログが、冷たい断罪のように脳裏をよぎった。


俺は震える手で発電機を回し続ける。 スマホの中に眠る「答え(科学)」を、今はまだ歴史に渡さない。 翌日の握力低下と、拭いきれない罪悪感を抱えたまま、俺はただ、目の前の静かな港の音を守るために、重いハンドルを回し続けた。

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