17.……聞いてますか
結局、壁に現れた文字も、私とエミリが寝室へ移動させられた後(なんと、夕食まで寝室で摂らされた)、榛葉と大家さんが呼んだという清掃業者によって消されたのだった。
……コレはもう、二〇二号室には何かあるとしか思えない。
確か、反対隣の二〇一号室の老婆が、二十年以上ここに住んでいると言っていたから、何か知っているかもしれない。
私とエミリはそう仮説を立て、翌日さっそく二〇一号室の老婆を訪ねた。
「おやおや、こんな婆に何か出来るかねぇ」
そうにこにこしながら、老婆はあっさりと私たちを二〇一号室へと入れてくれた。
割ときれいに掃除が行き届き、整理整頓がされている部屋に通された。
私たちが住んでいるのとほぼ同じ間取りと面積の部屋だが、別段変わったところは見られず、強いて言うのなら仏壇があるくらいだった。
仏壇には、老婆の夫と思しき男とまだそこに飾られるには早いのではという妙齢の女の――前世の私の写真が飾られていた。
「え……」
一瞬、言葉を失う。
「あぁ、ソレはねぇ、死んだ旦那と上の孫さねぇ。もう何年も前だけんど、若いのに浮いた話も一つもなくて――」
老婆が「前世の」私について語る言葉が、何も耳に入ってこない。
何故、今更前世の私が出てくる? そしてあの壁に現れた文字は何なのか?
もしあの壁に現れた文字が仮に前世の私の怨念的なモノだとしても、私はすでに華鳳院 愛理澄として転生しているのだから、それはつまり前世の私の魂は一応成仏しているということではないのだろうか?
それに、私は前世のこと――特に晩年の記憶があやふやだ。おまけに、前世で会った人や話した人などの顔だけが何故か思い出せない。まるで写真に写った顔を油性マジックで乱雑に塗りつぶしたかのように、顔を判別できないのだ。
だからこそ、前世の私の写真を仏壇に飾り、孫と称するこの老婆の正体にも気づけなかったのだろう。もしかしたら、他にも思い出せないだけで前世の私の関係者とすでに接触しているのかもしれない。
エミリは物珍しそうに老婆の話を聞いて相槌を打っているが、私には老婆の話す「前世の私」のエピソードまるで頭に入ってこない。
老婆がいつも持ち歩いているという、仏壇にあるものとはまた違う前世の私の写真をエミリに見せているが、くしゃくしゃで私には顔の判別ができなかった。
これが、「転生する」ということなのだろうか?
私にとっては疑問が残ったり新しい疑問が生まれたりで、あまり気持ちの良い滞在ではなかったが、エミリの方はかなり情報が引き出せたらしい。
榛葉のいない夕飯の食卓で、エミリは老婆が話していたことをかいつまんで説明してくれる。
「お孫さん、いろいろな職を転々となさって、大変だったらしいんですよね」
そうよ。今でいうフリーターのような存在として、前世の私は生きていた。それは覚えている。
とは当然答えず、おかずを咀嚼しながらエミリの話に首の動きだけで相槌を打つ。
「それで、心配になったお婆さんが、せめて家賃くらいは楽になるようにって、このハイツを建てたって言ってましたけど……それって、あのお婆さんがここの大家さんってことですよね!? うわー、すごいなぁ……」
そうよ。孫である前世の私を溺愛していた祖母――あの老婆――は、なんだかいろいろお金を持っていたらしく、前世の私のためだけに小さなアパート――それがこのハイツだっていうことはさっき知ったばかりだったけれど――を建てた。それが孫にとっては、有難迷惑だとも思わずにね。
まぁもちろんそんなことは答えずに、炊き込みご飯を咀嚼しながら相槌を打った。
「あれ? でも、お婆さん、お孫さんがどの部屋に住んでいたのか言わなかったですねぇ。まぁもう亡くなっている方ですし、別の方が住んでいるんでしょうかね?」
目の前にある皿が空になり咀嚼するものが無くなった私は、コップに麦茶を注ぎ静かにゆっくりとそれを飲み干し、また注ぐのを繰り返していた
「というか、他の部屋の方はあのお婆さんが大家さんて知っているんでしょうか? ……聞いてますか、アリス様?」
お腹がタプタプと音をたてそうなくらい麦茶を飲んでいると、エミリに不意に顔を覗き込まれる。
「え、えぇもちろん。たしか、最近は高齢化が進んでいて若い人よりもお年寄りのほうが元気に活動しているっていうお話しだったわよね?」
聞いてはいたが考え事をしていた私は、その内容を悟られまいと適当に話をそらす。
「それは実際そうかもしれませんけど、全然違いますよ。もしかして、お加減が悪いのですか? だったら今日は先にお風呂に入って、ゆっくり休んでください。夏は何気に体調崩しやすいですからねー」
エミリの言葉に甘えて、私はお風呂に入ってとっとと眠ることにした。――前世のことなんて、さすがに榛葉にも相談できないから、こればっかりは自分で考えないといけない。
脱衣所で洋服を脱ぎながら湯船にお湯を溜めていた私は、湯が溜まりきってしまう前に身体を洗ってしまおうとバスルームへ入った。
いつも私はお湯が溜まるまでの間に脱衣をはじめ身体や髪の毛を洗っているのだ。
ルーチンと化した洗い場での作業を終え、今日のバスボムを入れようと湯船を振り返った私は悲鳴を上げた。
「アリス様!? どうされました!?」
私の悲鳴に駆け付けたエミリが勢いよく風呂場のドアを開けてしまい、あられもない姿を見られてしまったが、そんなことにも気づかないで湯船の方を指差した。
私が湯船に溜めた湯は、真っ赤に染まり鉄臭いにおいを放っていた。




