さよなら、おじさん。
おじさんがいなくなって3日が経った。3日間、私は近所を探しまわったけれど、おじさんは見つからなかった。
おじさんはきっと知ってたんだ。いつか追い出されるってこと。
登にはまだ返事をしていなかった。おじさんがいなくなったから結婚する!という気にもなれなかったからだ。
4日目、この日も一日中探したが、やはりおじさんは見つからなかった。すっかり日も暮れてしまい、私はとぼとぼとアパートへ戻る道を歩いていた。目の前を、猫が通り過ぎる。
猫やカラスに…。それ以上は考えたくなかった。
「久美ちゃん」
聞きなれた声が聞こえたのは、アパートの近くにある電柱を通り過ぎた時だった。私はあわてて電柱の方を振り返る。
電柱の陰からひょこっと、おじさんが出てきた。初めて会った日に私が作ってあげた黄色いTシャツを着たおじさんは、上から下まで泥だらけだった。
「おじさん!」
思わず叫んだ私に、おじさんは「しーっ」と言って、きょろきょろとあたりを見渡した。幸い、他に人はいなかった。
「おじさん、探してたんだよ?なんで何にも言わずに行っちゃうのっ…」
泣きそうな私に、おじさんは申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね。本当はもう、会わない方がいいと思ったんだけど」
おじさんは手に持っていたものを私に差し出した。
「これを渡したくって」
それは、一輪のタンポポだった。おじさんの着ているTシャツと同じ色の、黄色いタンポポ。
「今までありがとう、久美ちゃん」
「おじさん…」
「おじさんは、久美ちゃんに幸せになってほしいんだよ。だから、お別れしようと思う」
娘を見守る父親みたいに、おじさんはほほ笑んだ。その顔は泥だらけだ。それを見た私は、ずっと前から考えていたことを言った。
「おじさん。おじさんも一緒にアメリカに行こうよ。向こうで、3人で暮らそう?登ならきっと、おじさんのことも理解してくれるよ」
「…ありがとう」
おじさんはそう言ってから、顔を曇らせた。
「だけど、行けない」
「なんで…?」
「…ラブラブのお2人さんに水を差すような真似はしたくないからね!はっはっは」
おじさんは明るい声で笑うと、もう一度「ありがとう」と言った。
「おじさんは、久美ちゃんに会えて本当によかった。このTシャツは、おじさんの宝物だよ。これを着てるとね、冬でもとってもあったかいんだ」
メタボ体型だしね!と付け加えてから、おじさんはほほ笑んだ。
「おじさんのことは気にしなくていい。登君とアメリカに行っておいで」
「おじさん…」
「タンポポの花言葉はね、まごころの愛!」
おじさんは明るい声で叫んだあと、小さな声で付け加えた。
「それから、別離」
その声は震えていた。
「幸せになりなよ、久美ちゃん。おじさんはずっと応援してるからね」
私の足もとにタンポポをそっと置くと、こっちを見てにっこり笑った。
「さよなら、久美ちゃん」
おじさんはそう言うと、アパートとは反対方向に向かて歩きだした。その背中は震えていた。おじさんが行ってしまう。私の大切な、おじさんが。
「おじさん、待って!!それじゃあ…」
アメリカ行きの飛行機の中で、私は読んでいた小説を閉じると丁寧にしおりをはさんだ。それを見ていた登が訊いてくる。
「そのしおりさ、すごく大切にしてるよね」
「うん」
「自分で作ったの?タンポポの押し花」
「そうだよ」
私は眼を細めて笑った。
「大切な人からもらったタンポポなの」
……なんだこれ。アタシの頭は、急に働かなくなった。
結婚してアメリカに行ったアネキから、小包が送られてきた。小包に貼られた割れ物注意のシールを見て、アタシはてっきり要らなくなった食器でも送ってきたのかと思った。
特に迷うことなく、その小包を開けた。一人暮らしだし、そんなに食器は要らないんだけどなーとか思いながら。
だけど小包に入っていたのは、思ってた以上に小さな食器と服と、それから、
黄色いTシャツを着た、ちっさいおっさんだった。
おっさんはアタシの顔を見ると、とびきりの笑顔で言った。
「やあ」
やあ、じゃねえよ。