第033話 リッカの手
最初に動いたのはネサルだった。低く走り、ミロの右手首を蹴る。結晶の光が横へ逸れ、空の椅子を白い塊に変えた。
続いて魔王ベルダクの盾が、ミロの透明な壁へ激突する。壁の真ん中に大きな亀裂。ハトの足元まで震えた。
「アルディオ!」
ハトの声より先に、アルディオは踏み込んでいた。剣が盾の作った亀裂を斬り開く。壁の欠片が彼の頬を切る。それでも刃を止めない。
ミロの足元で、乳白色の宝石が一瞬だけ人の指に戻った。シェリザの菫色も淡く光る。
「あと少しだ!」
ハトが叫んだ途端、ミロは左手を地面へ向けた。広場に白い棘が並ぶ。アルディオの踏み込む先、魔王の足元、ネサルの退路。三人がそれぞれ止まった。
「同時に来れば届くと思いましたか」
ミロは穏やかな声のまま、手を握った。棘が伸びる。アルディオは剣を横へ払って折り、魔王は盾で叩き潰し、ネサルは尾を石畳へ打ちつけて身体を跳ね上げた。折れた棘がハトの方へ転がる。
「ハルトさん!」
ナユエがハトの前に出た。短い防御魔法が棘を弾く。反動で彼女の腕がしびれ、顔をしかめた。
「お前、無理すんな!」
「ハルトさんが避けないからです!」
「今避けようとしてた!」
「遅いです!」
ハトは言い返せなかった。ナユエのジャージの袖が裂けている。上着のサイネを彼女に渡し、両手を空けた。
「サイネ、頼む。俺はあいつの手を見る」
「はい。絶対、落としません」
ナユエは琥珀色の宝石を両手で包んだ。ネサルが再びミロの右腕へ飛びつく。ハトが顔を上げると、ミロの自由な左手がアルディオへ向いていた。白い光が膨らむ。
「アルディオ、左!」
アルディオが剣を戻す。今度はミロの光が、彼の剣そのものを狙っていた。リッカの打った楔の周囲が白く染まる。
リッカが工具箱を光へ放り投げた。鉄の蓋が剣の前で光を受け、一瞬で宝石のように固まり、割れた。アルディオの剣は無事だ。
「工具箱が!」とハト。
「剣を守れた。安いよ!」
リッカはハトの脇へ駆け戻った。走りながら工具を拾おうとして、やめる。ミロの左手が今度はハトへ向いた。
「あなたも、お仲間を守ろうとする。美しい選択です」
「待て――」
ベルダクの盾は割れた壁へ押しつけたまま。アルディオは刃を抜く途中。ネサルが叫んだが、遠い。
ハトの襟を、小さな手がつかんだ。
「ポッポ君、頭下げな!」
リッカがハトを石畳へ投げ出した。いつもの抱擁より容赦のない力だった。ハトは肘を擦り、振り向く。
光を受けたのはリッカの背中だ。工具袋の留め金が落ち、金属音を立てた。
「……リッカ?」
返事がない。そこに、銅赤色の宝石が一粒転がっていた。
ハトは一度、石をつかみ損ねた。二度目で拾う。さっきまで自分の襟を持っていた手が、掌より小さい。リッカの声がするはずの高さには、誰もいない。
ナユエが駆け寄り、両手をかざした。
「ライフリバース!」
治癒の光が赤い宝石を包む。何も変わらない。
「なんで……」
「傷じゃない。サイネと同じだ」
「泣かないでください」とミロが言った。「よい救助でした。あの手も、このまま美しく残ります」
ハトは立った。リッカの宝石をナユエの手に乗せる。ナユエはサイネとリッカを胸元へ抱き、ハトの後ろの割れていない石畳にそっと並べた。それからミロを睨んだ。
「あの人、やっとハルトさんに優しく触れられるようになったんです。手の力を、勝手に止めないでください」
「そうだ」とハト。「次のハグ、まだやってもらってねえんだよ」
声は震えた。ミロの笑顔は変わらない。それが余計に腹立たしかった。
ネサルが赤い尾でミロの腕を絡め取り、膝を蹴った。ミロの身体が沈む。魔王ベルダクが砕けかけた盾で壁を押す。アルディオが剣を引き、全身を使って突いた。
「ボクが必ず、皆を守ってみせる!」
アルディオの声だった。ついさっき横顔の美しさを語っていた男が、今は誰の顔も見ず、ミロだけを見ている。
リッカの楔が入った柄が、震えている。
ミロの壁が割れた。欠片が雨のように散る。ハトは今度こそ届くと思った。
しかし剣先の前に、透き通った薄い層が一枚だけ残った。
アルディオの靴底が石畳を削る。魔王の盾にも新たな亀裂が走る。ネサルの尾はミロの腕を離さない。ナユエがアルディオの肩へ治癒をかける。
それでも、剣先はミロまであと一センチ届かなかった。




