ストーカー
人が来ないうちに壊した青い箱のオルゴールを元の位置に戻せと慌てて砂橋のことをピアノの部屋へと押し込んだ。
砂橋は口をすぼめて拗ねたような顔をしたが、すぐにピアノの部屋に入っていった。
「どうして壊したんだ」
「不可抗力だよ。手から落としただけ」
ピアノの部屋の床に絨毯は敷かれていなかったが、オルゴールを落とした時の音は隣の部屋まで響いてこなかった。ピアノの部屋が防音になっているからだろう。
砂橋がオルゴールを元に戻している間に熊岸刑事が一階から呼ばれた。手すりに手をのせて、下に見える玄関を見下ろしていると、熊岸刑事が警察官から、小野坂が落ち着いたという報告を受けていた。
「手すりには触んない方がいいと思うけど」
後ろを振り返ると、そう言っている砂橋が俺の隣に来て、手すりに両肘をついたところだった。
熊岸刑事に一階から呼ばれ、リビングに行くとソファーには落ち着いて、すでにリビングに戻っていた小野坂がいた。どうやら、話せるくらいには落ち着いたようだ。
「こいつの名前は小野坂靖。俺の後輩だ」
「元後輩ですけど……俺は二十年前に警察を辞めていますから」
俺と砂橋がソファーに腰かけ、向かいのソファーに小野坂元刑事と熊岸刑事が座った。知り合いである熊岸刑事が近くにいた方が小野坂も多少は気が楽だろう。
「君たちは……」
小野坂が俺と砂橋を見る。
元刑事に対して、安易に「警察関係者」だという嘘はつけないだろう。そもそも、俺も砂橋もそんな嘘をつくつもりはない。
事件に関わらせてもらい、事件を解決したら、熊岸刑事に手柄を渡して、その代わりに関わったことをなかったことにしてもらう。これが砂橋と熊岸刑事の関係だ。俺は砂橋のおまけのようなものだ。
しかし、この関係を周囲に広めることは本意ではない。
「俺の協力者だ」
「協力者……?」
熊岸刑事の言葉に小野坂は困惑を示したが、今は俺や砂橋に関する些細な困惑はどうでもいいのだろう。すぐに彼は首を横に振り、こう言った。
「熊岸先輩たちは、美友が死んだ理由を探してるんですよね? 美友の部屋を調べたのなら、なにか分かりましたか?」
「……いや、彼女が抱えていた問題は分からなかった」
熊岸刑事が答える。
正確に言うと、見合いの相手のことでなにか思うところはあったみたいだが、考えられるのはそれぐらいだ。
日記を読んだ限り、その後、見合い相手とは婚約者として、二ヶ月に一度デートをする仲だったらしい。日記に書いてある内容だけを見ると小野坂美友は順調に親が望む人生を歩んでいるようだった。
そこにどんな本音が隠されていたのかは分からなかった。
「絶対、ストーカーのせいです」
しかし、こちらが原因を突き止められなかったと言っているのに、小野坂ははっきりと言い切った。
彼女はストーカー被害を受けていたと話には聞いたが、警察はどうにもできないので平田にお願いをして、小野坂美友のことを守ってもらっていたというのは聞いている。
異常なストーカーであるのならば、小野寺美友のことを家族が知らない方法で苦しめることもあったのだろう。
人間は「見られている」という思い込みから発狂するような生き物だ。実際に見られ、後をつけられ続けるだけで、ストレスは想像以上にたまっていくだろう。
家族もストーカーの存在を知っていたのであれば、自然と小野坂美友のストレスの原因はストーカーになるのだが、気になることはある。
警察に突き出せないとしても、どうしてストーカーが一年も野放しになっているのか。
「そのストーカーは一年前からいると聞きましたが、その間、平田元刑事に来てもらう以外の対策をしたんですか?」
小野坂は防犯対策会社に勤めている。それならば、監視カメラを仕掛けるなど、対策はできるだろう。小野坂は渋い顔をした。
「対策といっても、相手は姿を見せない上に家の敷地に入ってくるわけではないので……どうしようもなかったのです。できることといえば、どうしても一人で出かける時は催涙スプレーと防犯ブザーを持っていけと言うくらいでした。もちろん、監視カメラはつけていました」
監視カメラなどの防犯アイテムで固めるとしてもそれは家の敷地内でしかできない。相手が必要以上に近づいてこなければ、できることはなにもないわけだ。
ピアノの部屋には分厚い遮光カーテンがかかっていたが、同じカーテンが小野坂美友の部屋にもあった。きっとあのカーテンは防音のためと、外から覗きを回避するためにつけられたのだろう。
「俺と違って、現役の警察官である平田先輩になら、何があっても美友のことを守ってもらえると思ったんですが……」
小野坂は膝の上に置いた拳を固く握りしめた。
「買い被りだったみたいです」
人ができることには限界がある。守ってほしいと言われて、その人物を守り抜くことができる人がいったいどれだけいるのだろうか。
小野坂の怒りはもっともだが、それは娘を守ると引き受けた平田だけに向けるものではないはずだ。
「小野坂さんも元刑事だったんでしょう? だったらどうして、自分で娘を守ろうとしなかったの?」
砂橋の言葉に小野坂は分かりやすく眉をしかめた。
彼は自分の左の膝に手を置いた。
「杖をついている時点である程度察せないか?」
「歩くことができないわけじゃないでしょ」
こんな状態でお茶を出してくれる人間もいない。リビングのテーブルには何ものっていない。ただ話をするだけの空間で、砂橋は言葉のナイフを手にとった。
「自分がいない時に娘さんが亡くなったら、先輩刑事のせいにできるもんね」
がたん、とテーブルがずれると同時に前のめりになった小野坂が砂橋の服の襟を乱暴に掴んだ。殴られてもおかしくなかったが、テーブルについたもう片方の手を小野坂はあげなかった。
「砂橋、謝れ。さすがに言っていいことと悪いことがある」
熊岸刑事が両腕を組んだまま、静かに言うと砂橋は降参とでも言うように両手を軽く上げた。
「悪かったよ。ごめんなさい」
砂橋が謝罪の言葉を述べると、小野坂はしばらくじっと砂橋の顔を見てから、大きく息を吐いて座り直した。
これ以上、砂橋に喋らせるとよくないことが起こる。その前にこの話し合いを終わらせた方がいいだろう。
「ストーカーに心当たりは?」
小野坂は、しばし考えてから首を横に振った。
「一年間もストーカーが尻尾を見せないことなんてありえない。だから、万が一、美友が、幻覚を見ている可能性があったら……」
彼の言葉に俺は目を見開いた。
「娘が危ない薬に手を出していた可能性を?」
彼は自分でも納得をしていないのかぎこちなく頷いた。
彼の中では、自分の娘が「ストーカーによって追い詰められた」という可能性と、一年間もストーカーが姿を現さずにストーカー行為を続けていることへの不信感から「危ない薬によって見た幻覚だ」という可能性の二つがせめぎ合っているのだ。
娘のことが大切だった父親としては、一年間もストーカーに苦しんでいる娘のことを無条件で信じたいだろうが、元刑事、そして、現在は防犯対策会社に勤めている彼の観点からすれば、現在までの状況はおかしかっただろう。
おかしいと思いながら、彼は信用のおける人物に自分の娘を守ってもらうと同時に、自分の娘がなにか良からぬ薬を飲んでいないかの見張りを頼んだのだ。




