10 おうじょ は さつじんき と であった!
窓枠に雫が打ち付けた。
途切れることなく続く、路上を波紋で満たす雨音。
薄くベールを張るように流れる水を、1人の少女のブーツが踏みつける。
流れる水は逆らうことなく綺麗に割れて、また流れる。
一歩一歩、逆らうように進むのは、フードを被った彼女1人。
差した雨傘は黒。
さあさあと降り注ぐ雨を受け、弾くよりも、重たく流れて地に落ちる。
1人の少女が、歩いていた。
雨傘の下から、真っ直ぐに目的地を見据えて。
ほんの僅かに傾斜した道を上った先は、教会があった。
窓は空きっぱなし。
草は伸び放題。
鐘楼に鐘は無く、門は歪み薄く開いたまま。
元は孤児院も兼ねた教会であったらしいことを、彼女は知っていた。
取り潰される前に、一度訪れたことはあったのだ。
教会の教えには、自らの望む答えなど無かったけれど。
錆びた蝶番が軋んで薄く音を立てた。
雨粒が跳ね、敷地の道はぬかるんでいる。
それすら厭うことなく、彼女は教会へと進んでいった。
両開きの重々しい扉を開く。
ほんのわずかに、木の腐ったような匂いがした。
「……」
雨音が、遠ざかると同時。扉が閉まる鈍い音。
傘を閉じ、見渡せばそこは、いつかと変わらぬ礼拝堂。
教壇の先、彼女の正面に貼られたステンドグラスは、経年の劣化からか色褪せて、殆ど黄ばんだ汚いガラスのようになっていた。
――寒い。
窓を閉め切ることすらできないありさまなのだ。
桜季が訪れたとはいえ、まだまだ気温は低いまま。
そこにこの、王都を包み込むような雨だ。
腕をさすって、彼女は礼拝堂の中へと歩みを進めた。
「――あら。お客様ですの?」
響く声に、動じることなく少女は顔を上げる。
礼拝堂の、最前列。静かに腰かけていたのは、嫋やかな雰囲気の――金が印象的な少女だった。
後頭部の大きな黒いリボンと、一度そこで窄められた"金"が、滝の吹き出たように広がっている髪型が印象的だ。
纏うは純白のワンピースドレス。
黒い外套、黒い雨傘でやってきた少女とは、酷く対照的だった。
「教会がお客様を迎えるイメージは、あまりありませんが?」
「そんなことはありませんわ。金を払って対価を得ようと足を運ぶ者を、世間ではお客様と言うのでしょう?」
「ならば教会には普段から、商品と、商売を支える物流があるのですね。いったい、何をお売りになっているのです?」
「知れたこと。食い扶持に困った愚かな人間全てが物流となるならば、その供給地点は神の面をしたこの商会にしかないでしょう」
「です、か。――貴女は、人売りには見えませんがね」
「ですわね。なにせ、"商品"でしたから。もっとも、王都の教会ではありませんが」
ぴくりと、フードの奥で少女の眉が動いた。
彼女の反応も構わず、ゆっくりと金の少女は立ち上がる。
そして、ゆっくりと振り返り、中央の通路を歩んで外套の少女へと歩み寄る。
「酷く懐かしくなりまして、こうして住まいに選ばせていただきましたわ。どうでしょう。わたくしに、このおうちは似合います?」
「いいえ、と――」
外套の少女は、そこでゆっくりとフードを脱いだ。
金の少女が目を細める。
そこにあったのは、眩しいくらいの美しい"銀"だ。
「――答えて欲しいのでしょう? 口調も出で立ちも、そして雰囲気まで洗練して。自らの出自に抗うように、武力も教養も身に付けた」
「あら……でしたら、付け焼刃に見えるのでしょうか。生まれから輝き続けるような女性には」
「いいえ? ただ、美しい絵画とは、高級な絵の具と高名な画家のみで成立するものではありません」
「なるほど、なるほど」
くつくつと、懐から取り出した扇子で口元を隠し、金の少女は銀に問う。
「でしたら、ご教授くださる? 芸術品の類だけは、わたくしは何度目にしても理解が出来ませんの」
「もちろん、構いません。美しい絵画と、醜悪な絵画の違い。それは、初めから決まっているものです。即ち、真っ白なカンバスに――画家が何を描こうと考えたか」
「――」
初めて、金の少女の呼吸が僅かに乱れた。
眇めた瞳を真っ直ぐに、ぶつけるように銀の少女へと向ける。
「生まれから、全てが決まっていると?」
「まさか。それはわたしが最も憎む思想です」
とん、とん。礼拝堂に居並ぶ長椅子の背に手を置いて、手持無沙汰に遊ぶように、余裕を持った少女の言葉。
そんな彼女の様子を窺うように、探るように、金の少女は見つめ続ける。
「何を、何のために、どう描くか。それがどんなに美しいものを描く結果になったとしても、画家の込めた魂だけは伝わってくるものなのです。貴女は確かに、ああ、美しい絵なのでしょう。磨かれた研鑽が、目に浮かぶようです」
「あら。嬉しいお言葉ですわ。貴女も、綺麗に綺麗に磨かれてきたことでしょうから。お世辞などと、くだらない媚びへりくだりを並べ立てるような蒙昧には思えませんもの」
ふふふ、と銀の少女が笑う。
うふふ、と金の少女が応える。
「それで、わたくしは美しい絵画なのでしょうか」
「いいえ?」
「……それは、何故?」
口元に閉じた扇子を当てて、小首を傾げて見せる様は確かに美しい。
そんな彼女に、銀の少女は告げた。
「描こうとした目的が、他を顧みず己のみを高めようとする"修羅"ならば。相応に、余人には理解出来ない醜悪なものと映るでしょう?」
「ふ、ふふ……」
思わず、と言った風に。金の少女は口角を歪める。
静かな笑いは、外の雨音をも消し去るように、この礼拝堂を支配した。
小さく震える肩、抑えた口元、見せぬ目元。
そんな、押し殺すような笑みに、銀の少女も口角を歪める。
「ふふふ……教会が、貴女に似合うとは言いませんが」
寂れ、朽ち果てた廃教会を見渡して、彼女は続ける。
「ここは、よく似合っていますよ」
「ふふふ……ふ、ひひ……」
扇子を、放り捨てた。
からん、と脇に転がるそれを見向きもせずに、金の少女は天を仰ぐ。
がくりと俯き、同時にその美しい金の髪がぼさりと枝垂れた。
「――あ゛はァ」
瞬間。
金の少女の姿が消えた。
銀の少女は、目を見開き――一瞬の思考も隔てず背後にコンツェシュを抜き放つ。
鈍い音を立て、かたかたと揺れる自らの剣。
隔てた先には――金の少女の、"拳"。
「日傘を、扱うと聞いていましたが?」
「日傘? ……ああ」
がん、とコンツェシュが弾かれると同時。
銀の少女の視界を、"黒"が埋め尽くし――気づけば天井を見ていた。
焼けるような痛みを感じる額に、気付く。
あの少女の持つ"黒"など、履いているブーツしかない。
単純な話だ。低い姿勢から蹴り飛ばされた。
「あれはドレスに飛び散る返り血を防ぐためのものでしかありませんわ」
天井と自らの間に割って入る金を、彼女は転がることで回避した。
礼拝堂を揺るがすような音と共に、長椅子が四つほど跳ねて転がった。
地に叩き込んだ拳の一撃に目を見張る銀の少女を、追いすがるように金が靡く。
「くっ――」
首を傾げるようにして、突き貫かれる拳を回避した少女を、"風圧"が弾き飛ばした。
どん、と弾けるような音とともに、礼拝堂の壁が砕ける。
「稽古相手には少々勿体ないと思いましたから」
くるりと一回転して着地した銀の少女に、金の少女は軽くステップを踏みながら告げる。
髪を耳にかけ、呼吸を整え、見据える眼光は獣のそれだ。
「"修練"させて貰いましょう。ライラック王女殿下」
「人が名乗る前に、相手の名を口にするのは失礼ですよ、"アリア"」
「アリア? それこそ、今の名前呼びよりも失礼に当たりますわ」
「……?」
くすくすと、金の少女――"アリア"は微笑む。
「その名を口にするということは、自らを雑兵と蔑むのと同じですわ」
「どういうことでしょう」
「問われずとも、教えてあげますわ」
だん、と礼拝堂の床を蹴る"アリア"に、銀の少女――ライラックはコンツェシュを構えた。
瞬間、"アリア"は前へと跳躍する。
上ではなく、ライラックに飛び込むようなその姿勢に、ライラックは刹那困惑を露わにした。
このまま飛び込んでくるなら、コンツェシュの間合い。突き刺せば終わりだ。
だが――ライラックに直接届くには微妙に飛距離が足りない。
"アリア"は飛び込みと同時、両手を床について――ライラックはそこで察した。コンツェシュを防御に扱い、蹴撃に備える。
《独奏曲》
渦を巻くように空中で放たれる二連撃。
彼女のブーツは特別製なのか、コンツェシュの薙ぎを受けても全くの無傷。
一撃目で距離を取ったライラックは、二撃目の踵を受けるようなことは無かったが、それだけに理解した。
一撃目を迂闊に回避すれば、二撃目は敵対者のこめかみを穿つ。
「――わたくしの独唱にすらついて来られない人間には、"アリア"と名乗ることにしておりますの」
「なるほど。訂正ありがとうございます。知らず屈辱を口にしていたようですね」
「ふふふ。良い目ですわ」
くるりと身体を起こした金の少女に、ライラックは目を細めた。
今、手が地面を離れるよりも、足が地面につく方が早かった。
凄まじい柔らかさを持ちながら、自らの肉体そのものを武器とする強靭な筋肉。
なるほど。これは一筋縄ではいかなそうだ。
「では、貴女のことは何とお呼びすれば?」
「そうですわね。アイルーンと。アイルーン・B・スマイルズ。それが、わたくしの名ですわ。宜しければ、その名を憶えて是非、死後の世界で自慢してくださいな」
攻勢に出るアイルーン。
蹴りはまるで鎗のように鋭く、回避しようと蹴り上げに振り下ろしと自由自在。なまじ肉薄しているが故にコンツェシュを操るのも難しく、インファイトとなった瞬間に拳が無防備な胴体を襲う。
「ぐ、ふっ」
もろに腹部に一撃を受けて吹き飛ぶライラックが、長椅子を幾つかなぎ倒してようやく止まった。
しかし、意識が持っていかれそうになったとしても、ここは耐えなければならない。何故なら――
《鎮魂歌》
「ッ――!!!!」
瞬間的に頭部を守り、転がって回避するライラックの真横を、熊の爪の如く広がったアイルーンの右手が掠めた。
危うく、ここで人生が終わるところであったと自覚する。
急激に膨れ上がった殺気に息を飲む彼女は、改めてゆっくりと立ち上がると、呼吸を整えてアイルーンと相対した。
そんなライラックを、訝し気な瞳でアイルーンは見据えていた。
「攻め気に欠けますこと。瞳に宿る闘志は欠片も消えていないのに、これでは焦らされているようですわ」
「それはそうでしょう。わたし、"今日"はまともにやるつもりがありませんから」
「……今日は?」
とんとん、と踵を鳴らして、ライラックは呟く。
「ええ。わたしの催し物は貴女も知っているはず。あれだけ堂々と選手登録をするのですから、勝負はそこで付けましょう?」
「お断りしますわ」
「……でしょうね」
やれやれ、とライラックは首を振る。
何を言われずとも分かる。アイルーン・B・スマイルズは、今殺し合いたがっている。
武闘大会のルールを理解しているのなら、全身全霊を込められるこの場の方が、武闘大会よりも優先度は高いのだろう。
そんなこと、ライラックは百も承知だった。
だから。
「困りましたね。これ以上わたしと今し合うなら……フウタとの戦いは諦めて貰うことになります」
「……どういう、ことですの?」
やはりか。
分かってはいたことだが、この女の目的はやはり彼なのだ。
厄介な武人にばかりモテることだとため息を吐きながら、ライラックは告げる。
「どうもこうも。彼はわたしのものですから。どうしようとわたしの自由です」
「……」
ライラックを見据えるアイルーンの瞳は鋭い。
探るようでいて、ほんの僅かでもライラックが乱れればその喉元を掻き切ろうというほどの殺気を乗せて。
しかし、ふ、とその殺気が緩んだ。
ゆるゆると首を振るアイルーンが、ぽつりと呟く。
「なるほど、嘘はないようですわね。……では、貴女は何をしにここまで来たのでしょう? わたくしと楽しい午後を過ごすつもりは、どうやらないようですけれど……」
「そんなつもりだと思われていたのなら、心外だとだけ言っておきますが……」
指名手配されているとか、命を狙いにきたとか、そういう発想はこの女にはないのだろうか。
そんな疑問を胸に、ライラックはそっと唇を撫でる。
「取引をしに来たまでですよ。少し、話に付き合ってください」
「わたくしと、取引? まあ、話くらいは伺いましょうか」
ざあざあと、雨の音。
ライラックはふと、ステンドグラスに目をやった。
そういえば雨が降っていたのだと。
ずっとずっと、降っていたのだと。
けれど今、この瞬間に到るまで、雨音など意識の外だった。
それは――目の前の女の気配が、目に見えて萎んだからだろうか。
「珈琲でも出しましょうか?」
「いえ、結構です。ああ、取引の前に1つだけ聞きたいことがあります」
「なんですの?」
「貴女……戦意の無い、女子供を殺したことは?」
その問いは、ある種の確認だった。
しかしアイルーンはきょとんとした表情で、しばらく彼女の問いを咀嚼してから。
「さあ……殺したかもしれませんわね……?」
「自信が無いようですが」
「それは……そうですわ」
だって、と彼女は続ける。
「貴女の言う女子供とは、わたくしや、貴女を差しているわけではないのでしょう?」
「ええ」
「だとしたら……まあ。他の武人と楽しんでいる間に、勝手に巻き込まれて死んだとか。鍛錬の途中に目障りで跳ね除けて死んだとか……そういうことは、否定は出来ませんわね」
「結構な大ごとだと思うのですが、どうしてそんなに曖昧なのです?」
「大ごと?」
何も理解出来ていないような表情で、アイルーンは一度二度と目を瞬かせると。
「何故、他人の生死に気を払う必要が?」
「ああ、もう結構です」
ひらひらと手を払い、ライラックは思考する。
目の前の女は、女子供の殺しを"否定しない"。
だからこそ――罪を被せるにはもってこいだ。
「では、わたくしからも1つお聞きして構いませんわね?」
「ええ、どうぞ?」
今のライラックの質問は、心の底からどうでもよかったのだろう。
そんな心の声が聞こえてきそうなほど、ライラックの問いには無関心だった彼女は、あっさり自分の質問へと切り替えた。
何故こんな質問をされたのかとか、女子供に何かあったのかとか、ライラックが握っていそうな情報は幾らでもあるのに、だ。
半ばあきれるような笑みを交えてアイルーンの質問を促せば、彼女は本当につまらなそうに唇を尖らせて口を開いた。
「貴女、最初から取引などを持ち掛ける気があるなら、どうしてわたくしを煽りましたの?」
「ああ、だって」
推測通りなら、彼女は弱者を対等と見做さない、ただ1人の修羅なれば。
――だからそう。貴女の言葉を借りるなら。
「貴女を"アリア"と呼ぶような女と、取引などしたくないでしょう?」
アイルーンは、酷く納得したように。それでもどこか不満そうに。
なるほど、と小さく呟いた。
NEXT→4/1 11:00





