第1話 清掃係は、魔王城の血を拭いていた
魔王が死んだ。
玉座の間に、勇者アレクの声が響いた。
「終わったぞ! 魔王は、この俺が討った!」
聖剣が掲げられる。
砕けた天井から差し込む赤黒い光を受けて、刃が白く輝いた。
聖女ミリアは胸の前で手を組み、祈るように目を閉じている。
「神よ。人類は、ついに闇を祓いました」
剣聖ガルドは、床に崩れ落ちた魔王の死体を見下ろし、鼻で笑った。
「こんなものか。魔王といっても、斬れば死ぬ」
賢者ロギアだけは、少し離れた場所で、崩れた魔法陣と壁の傷を観察していた。
誰も。
誰一人として、床に膝をついている俺を見ていなかった。
俺は雑巾を握っていた。
血で重くなった、いつもの雑巾だ。
魔王の血。
魔族の血。
魔物の体液。
聖剣が裂いた肉片。
聖女の浄化で焼け残った呪い。
それらが玉座の間の床に、べったりとこびりついていた。
だから俺は、それを拭いていた。
勇者が勝利を叫んでいる横で。
聖女が祈りを捧げている足元で。
剣聖が死体を踏みつけた跡を、黙って拭いていた。
「おい、清掃係」
ガルドの声が飛んできた。
名前じゃない。
いつもの呼び方だ。
「そこ、血が残ってるぞ。俺の靴が汚れる」
「……分かりました」
俺は立ち上がり、ガルドの足元へ向かった。
膝が痛い。
右肩も上がらない。
昨夜、第三層の怨霊廊下で呪いを剥がした時に焼けた皮膚が、まだじくじくしている。
聖女ミリアの浄化が届かなかった場所だ。
彼女は白い光を一度放ち、笑顔で言った。
『浄化は完了しました』
完了していなかった。
壁の奥に残った怨念が、夜になって兵士たちに噛みつこうとした。
だから俺が処理した。
床を拭き、壁を削り、黒く濁った呪いを雑巾に吸わせた。
吐いた。
何度も吐いた。
それでも朝まで廊下を磨いた。
翌朝、称えられたのはミリアだった。
聖女様の浄化。
奇跡の白光。
人類の希望。
俺の名前は、どこにも出なかった。
「遅いわね」
ミリアが、祈りを終えた顔でこちらを見る。
白い法衣。
澄んだ声。
人々が見れば、きっと女神の使いだと思うだろう。
だが俺は知っている。
その白さの下に、どれだけの黒い呪いが塗り込められているか。
「清掃係。玉座の裏も確認しておいて。呪いが残っていたら、帰還の儀式に支障が出るわ」
「はい」
「あと、私が浄化した場所には触れないで。あなたの汚い手で穢されたら困るもの」
汚い手。
俺は自分の手を見た。
爪の間まで黒い。
血と灰と呪いが染み込んでいる。
この手で、彼女の失敗を処理した。
この手で、勇者たちが踏む道を作った。
この手で、死体を運んだ。
この手で、罠の起点を削った。
この手で、夜通し床を磨いた。
それでも、汚いのは俺らしい。
「清掃係」
今度はアレクだった。
勇者。
人類の希望。
王国が選んだ英雄。
彼は魔王の死体の前で、当然のように笑っていた。
「宝物庫へ行く。道を確認しろ。魔王の最期の罠が残ってるかもしれない」
「……分かりました」
「返事が暗いな。嬉しくないのか? 俺たちは世界を救ったんだぞ」
世界を救った。
その言葉に、胸の奥が少しだけ軋んだ。
俺たち。
その中に、俺は入っているのか。
いや。
入っているわけがない。
俺は勇者パーティの仲間ではない。
清掃係だ。
名前で呼ばれたことなど、ほとんどない。
レイヴ・クロウリー。
それが俺の名前だ。
でもこの城に入ってから、誰もまともに呼ばなかった。
第一層の血紋罠を拭き潰した時も。
第二層の魔獣死骸を処理した時も。
第三層の病棟跡で、腐った呪いを吸い込んで倒れた時も。
アレクが不用意に踏んだ罠を、俺が自分の腕を焼いて解除した時も。
呼ばれた名は、ただ一つ。
清掃係。
宝物庫へ続く廊下は、玉座の間よりもひどかった。
魔王の血が床の溝を流れている。
壁には黒い蔦のような呪いが這い、時折、人の声でうめいた。
俺はしゃがみ、雑巾を床に押し当てる。
じゅう、と音がした。
血が吸い込まれる。
雑巾の布目が赤黒く染まり、手のひらに痛みが走った。
呪いだ。
普通の人間が触れば、皮膚が裂け、血管の中に黒い虫が湧く類の呪い。
けれど俺は慣れていた。
慣れてしまっていた。
「まだか?」
後ろからガルドが苛立った声を出す。
「早くしろよ。床を拭くくらいしか能がないんだから、せめて速くやれ」
俺は答えなかった。
答えれば殴られる。
答えなくても、気に入らなければ殴られる。
なら、黙っていた方がましだ。
廊下の血を拭く。
魔法陣の残滓を削る。
罠の起点を潰す。
聖剣の光に焼け残った肉片を、袋に詰める。
吐き気が込み上げる。
喉の奥が酸っぱい。
それでも手を止めなかった。
俺が止めれば、こいつらは進めない。
俺が拭かなければ、こいつらは床の血に足を絡め取られる。
俺が呪いを剥がさなければ、ミリアの白い光など、表面を撫でるだけで終わる。
俺が死体を処理しなければ、ガルドの剣は死者の怨念に噛まれる。
俺が罠の残留魔力を消さなければ、アレクは三度死んでいた。
なのに。
「本当に便利よね、あなたのスキル」
ミリアが小さく笑った。
「《清掃》でしたっけ。名前だけ聞くと、可哀想なくらい地味だけれど」
ロギアが眼鏡の奥でこちらを見る。
「地味ではあるが、役には立った。魔王城のような高濃度呪詛環境では、残滓処理の重要性は高い」
「褒めているのか? ロギア」
アレクが笑う。
「床掃除が得意なだけだろう」
「それでも、素材としては興味深い」
素材。
ロギアは、俺を人間として見ていない。
前から分かっていた。
彼が俺を見る時の目は、魔物の骨や、壊れた魔導具を見る時と同じだ。
使えるか。
分解できるか。
再利用できるか。
それだけ。
俺は最後の血紋を拭き取った。
宝物庫の扉が見える。
黒金の扉。
巨大な魔王の紋章。
その前の床だけが、不自然なほど汚れていなかった。
いや。
違う。
汚れが、隠されている。
薄い膜の下に、濃い呪いが眠っている。
俺は膝をつき、雑巾を伸ばした。
「待ってください。ここはまだ――」
背中に、熱が走った。
最初、何が起きたのか分からなかった。
息が止まる。
胸の奥から、空気が漏れる。
視界が揺れた。
床に、赤いものが落ちる。
俺の血だ。
ゆっくり振り返る。
アレクが、聖剣を握っていた。
その刃が、俺の背中から抜かれるところだった。
「……どう、して」
声が、掠れた。
アレクは笑っていた。
魔王を討った時と同じ顔で。
正しいことをしたと信じている顔で。
「清掃係に報酬はいらないだろ?」
痛みが、遅れてきた。
熱い。
焼ける。
刺された場所から、聖剣の光が体内に入り込んで、肉を焦がしている。
「魔王討伐の報酬は、勇者パーティのものだ。お前みたいな雑用係に分け前を与えたら、王都で笑われる」
「俺は……」
「ああ、役には立ったよ」
アレクは優しい声で言った。
吐き気がした。
「だからここまで連れてきた。けど、もう終わった。掃除道具は、役目が終われば捨てるものだ」
ミリアが一歩近づく。
俺は彼女を見た。
助けてくれ。
そう言いかけた。
だが、彼女の目を見て、喉が凍った。
そこにあったのは慈愛ではない。
怯え。
苛立ち。
そして、邪魔な汚れを見る目。
「ごめんなさいね、レイヴ」
初めて。
彼女は俺の名前を呼んだ。
こんな時に。
「あなたが生きていると困るの」
「……困る?」
「ええ。私の浄化が、本当はあなたの後始末に支えられていたなんて、知られたら困るでしょう?」
胸の奥で、何かが割れた。
痛みよりも深いところで。
「あなたはよく働いてくれたわ。だから、せめて苦しまないように祈ってあげる」
「祈る……?」
「それくらいしか、してあげられないもの」
ガルドが笑った。
太い腕を組み、俺を見下ろす。
「みっともねえ顔だな、清掃係。最後まで床に這いつくばってやがる」
俺は床に手をついた。
血で滑る。
自分の血だ。
さっきまで魔王の血を拭いていた床に、今度は俺の血が広がっている。
「立てよ。ああ、無理か。背中から刺されたもんな」
ガルドの靴が、俺の肩を踏んだ。
傷に響く。
喉の奥から声が漏れた。
「ぐ、あ……」
「雑用は雑用らしく、最後に床でも舐めてろ」
ロギアは何も言わなかった。
ただ俺を見ていた。
冷たい目で。
観察していた。
「惜しいな」
彼は呟いた。
「この環境への適応性は、もう少し調べる価値があった」
「ロギア」
アレクが面倒そうに言う。
「死体なら好きに調べればいい。だが、今は宝物庫が先だ」
「そうだな」
ロギアは頷いた。
俺は笑いそうになった。
死体なら。
そうか。
もう俺は、こいつらの中で死体なのか。
アレクが宝物庫の扉に手をかける。
その前に、俺の胸ぐらを掴んだ。
「安心しろ」
アレクが耳元で囁いた。
「王都では、お前のことも少しは話してやるよ」
息が止まった。
「魔王城で勇敢に散った、名もなき清掃係としてな」
名もなき。
清掃係。
最期まで。
こいつは、俺の名前を持っていく気すらない。
「……俺の、名前は」
「いらないだろ?」
アレクは笑った。
「英雄譚に、雑巾の名前なんて残らない」
体が浮いた。
宝物庫前の床。
その端に、黒い裂け目があった。
地下へ続く廃棄口。
魔王城が、不要物を落とす場所。
俺が何度も死体を捨てさせられた穴。
「ちょうどいい。清掃係には似合いの場所だ」
アレクが言った。
「お前も、魔王城のゴミと一緒に沈め」
投げられた。
落ちる。
ミリアの白い法衣が遠ざかる。
ガルドの笑い声が歪む。
ロギアの目だけが、最後までこちらを見ていた。
そして、アレクの声が降ってきた。
「お前の功績は、俺たちが持って帰ってやる」
闇が、俺を呑んだ。
落ちた。
落ちた。
まだ落ちる。
背中の傷から血が噴き、空中に赤い線を引いた。
壁に体がぶつかる。
骨が鳴る。
息が潰れる。
それでも落ちる。
やがて、ぐしゃり、と何か柔らかいものの上に叩きつけられた。
死体だった。
腐った腕。
折れた鎧。
古い法衣。
砕けた聖剣の柄。
名前の消えた墓標。
人間の骨。
魔族の角。
黒く固まった血。
呪い。
怨念。
封印。
ここは、魔王城の地下廃棄層。
捨てられたものが腐る場所。
忘れられたものが沈む場所。
都合の悪いものを、世界が押し込めた場所。
「……は、はは」
喉から変な笑いが出た。
痛い。
寒い。
血が止まらない。
死ぬ。
俺は死ぬ。
清掃係として使い潰されて。
名前も呼ばれず。
報酬も奪われ。
功績も奪われ。
最後はゴミとして捨てられて。
終わる。
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな。
指が動いた。
血だまりの中で、俺は雑巾を握っていた。
あの使い古した雑巾。
落ちる時も、なぜか手放していなかった。
血を吸いすぎて、もう元の色も分からない。
俺はそれを床に押し当てた。
いや、床じゃない。
死体。
呪い。
怨念。
腐った歴史。
隠された罪。
全部が混ざった、最悪の汚れ。
「……掃除、しろってか」
声が震えた。
怒りで。
悔しさで。
痛みで。
俺は雑巾を握り潰す。
「最後まで……俺に掃除させる気かよ」
その時だった。
雑巾が、脈打った。
どくん。
手の中で、布が生き物のように震える。
周囲の血が動いた。
腐った死体の下から、黒い液体が這い出す。
呪いが、俺に向かって寄ってくる。
怨念が耳元で囁く。
――憎い。
――許すな。
――拭え。
――喰え。
背中の傷口に、地下の血が入り込んだ。
「あ、が……っ!」
痛みが爆発した。
聖剣の光が、肉の内側から剥がされる。
焼けた皮膚が裂ける。
血管の中を、黒いものが走る。
喉に血が上がった。
飲み込む。
まずい。
鉄の味。
腐った祈りの味。
嘘の味。
誰かの最期の息が、肺の中に入ってくる。
死体の記憶だった。
叫び声。
祈り。
折れた刃。
破れた法衣。
神殿の紋章が押された黒い契約書。
小さな骨。
泣きながら許しを乞う声。
誰かが「記録に残すな」と命じる声。
見てはいけないものが、次々と脳に叩き込まれる。
「やめろ……っ、入ってくるな……!」
だが、止まらない。
俺の中に流れ込んでくる。
血が。
呪いが。
怨念が。
罪が。
捨てられた名前が。
消された死体が。
俺の奥に、沈んでいく。
そして、浮かび上がる。
壊れた文字が、視界に滲んだ。
【《清掃》――限界】
【清掃対象、再定義】
【血】
【呪い】
【死体】
【怨念】
【罪】
【封印】
【処理不能汚染――喰らうことで処理可能】
【《清掃》、破損】
【《清掃》、変質】
【《穢れ喰い》、発生】
雑巾が黒く染まる。
ただの血の黒ではない。
夜より深い黒。
罪を吸った黒。
呪いを喰った黒。
俺の手に巻きつき、布が形を変えていく。
【使用済み清掃具、適合】
【専用武装:《黒雑巾》】
黒雑巾。
馬鹿みたいな名前だ。
でも、笑えなかった。
その布は、俺の手の中で生きていた。
血を吸い、呪いを絡め取り、死体に残った怨念を啜っている。
俺の傷が塞がっていく。
いや、治っているのではない。
穢れが傷を埋めている。
聖剣に焼かれた肉を、呪いが喰って作り替えている。
魔王城が震えた。
地下から。
壁から。
床から。
血のような魔力が湧き上がる。
【旧管理者、死亡確認】
【中枢権限、空席】
【候補者確認】
【レイヴ・クロウリー】
その名が響いた。
清掃係ではなく。
雑用ではなく。
名もなき誰かではなく。
レイヴ・クロウリー。
俺の名前。
俺が、奪われかけた名前。
【認証開始】
【汚染耐性、適合】
【怨念処理履歴、適合】
【呪詛清掃履歴、適合】
【魔王城攻略支援履歴、適合】
【新管理者認証】
【魔王城新管理者:レイヴ・クロウリー】
地下が、俺に跪いた。
死体がざわめく。
壁の封印が軋む。
天井の暗闇に、いくつもの赤い目が開いた。
魔王城の罠。
結界。
死霊兵。
封鎖扉。
血紋。
呪詛炉。
それらの位置が、手に取るように分かる。
ここはもう、敵の城ではない。
俺の城だ。
俺を捨てた場所が。
俺の墓になるはずだった場所が。
俺の武器になった。
「……そうか」
俺は笑った。
喉の奥で、低く。
自分でも知らない声だった。
「俺が掃除してたのは、床だけじゃなかったんだな」
黒雑巾を握る。
布が伸び、地下の血を吸い上げる。
死体にこびりついた怨念が、俺の中へ流れ込んでくる。
苦しい。
だが、不思議と吐き気はなかった。
今まで押し付けられてきた汚れだ。
今まで黙って拭いてきた呪いだ。
今まで俺が、誰にも見られず処理してきたものだ。
俺は床を拭いていたんじゃない。
あいつらの汚さを、ずっと飲み込まされていたんだ。
今さら怖いものか。
俺は見上げた。
遥か上。
宝物庫前に、勇者たちがいる。
俺が死んだと思っている。
報酬を分け合い、功績を持ち帰り、王都で英雄として迎えられるつもりでいる。
ミリアはまた聖女として微笑むだろう。
ガルドは俺を笑い話にするだろう。
ロギアは俺の死体が回収できなかったことを、少し惜しむだろう。
アレクは。
俺の功績を、自分のものとして語るだろう。
許さない。
殺して終わりになどしてやらない。
死ねば楽になる。
だから、まだ殺さない。
奪う。
名声を。
聖剣を。
仲間を。
信頼を。
白い嘘を。
隠した罪を。
あいつらが踏んで立っているものを、一枚ずつ剥がしてやる。
床の汚れを削るように。
血の跡を浮かび上がらせるように。
骨の隙間まで。
綺麗に。
ただし、許すためじゃない。
お前らがどれだけ汚れていたか、世界に見せるためだ。
魔王城が応えた。
上層の封鎖扉が、重く閉じる音がした。
宝物庫前の結界が起動する。
血紋罠が、床下で目を覚ます。
黒い血が、魔王城の石畳の隙間を這っていく。
勇者たちの勝利が、音を立てて閉じ込められていく。
俺は地下の闇から、一歩踏み出した。
黒雑巾が、血を吸って揺れる。
もう、清掃係と呼ばせておく理由はない。
だが。
最後の仕事だけは、してやる。
世界で一番汚れた勇者たちを。
俺が掃除する。
魔王城の床から、黒い血が上へ上へと広がっていく。
そして、俺の声が城中に響いた。
「お前らは魔王城を攻略したんじゃない」
喉が焼ける。
背中の傷が疼く。
それでも、笑った。
「俺が掃除した道を歩いてただけだ」
その頃。
宝物庫の前で、聖女ミリアは小さく息を呑んでいた。
白い靴の先に、黒い血が触れていた。
「……浄化」
彼女の手から白い光がこぼれる。
だが、その光は床に落ちた瞬間、白ではなくなった。
濁った。
腐った。
そして、黒い血の中から、誰かの声が笑った。
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現在のステータス
名前レイヴ・クロウリー
立場元・勇者パーティ清掃係/魔王城新管理者
スキル《穢れ喰い》
装備《黒雑巾》
支配権限魔王城の地下廃棄層・封鎖扉・血紋罠・結界の一部
復讐対象勇者アレク、聖女ミリア、剣聖ガルド、賢者ロギア、王国神殿




