第22話 落ちこぼれ
薄暗い室内で、油の切れかけたランプが頼りなく揺れる光を放ち、壁に歪んだ影を踊らせている。
「はぁ……」
男がため息を漏らす。手入れの行き届いていない黒髪は艶を失い、覇気のない表情には深い隈が刻まれている。
ダラン・ファーゲンス。
男の名だ。共和国中からあぶれ者を集めた『革命の闇』の棟梁にして、自身も共和国警察から『堕慧児』の名で懸賞金付きで指名手配される賞金首。冴えない男だが、生気を失った目と右目から首に深く刻まれた傷は彼が常人ではないことを想起させる。
「……道化師」
ダランは眉をひそめ、椅子の背に投げ出していた体を俄に起こし、指先で机を叩く。
道化師
『革命の闇』の幹部の一人にして賞金首。本名はダランも知らない。エンターテイナーやピエロ、道化師と自分のことを言っているから、それがそのまま名前となった。
情緒が安定せず、小児性愛的な思考を持つなど、人格的な問題を抱えてはいるものの、誘拐、殺人、強盗、あらゆる犯罪を躊躇いなく成し遂げるその実力は疑いようがないものだ。
(……何があった?)
だが、昨日の夜には戻ってくるはずだった道化師は、日が昇っても帰ってこない。
(警察に捕まった?)
そんな疑念がダランの脳裏をかすめる。だが次の瞬間には、自らそれを否定した。道化師が捕まったら、今朝の新聞で一報くらいは伝えられるはずだ。彼もまたダランと同じく、共和国では名の知れた賞金首だ。号外で伝えられてもおかしくはない。
「まさか……奴らが……」
窓から入り込む冷たい風が、薄汚れたカーテンを揺らし、まるで嘲笑うかのようにダランの頬を撫でた。
「くそっ、鬱陶しい……!」
ダランは苛立ち、カーテンを勢い良く跳ね除ける。その苛立ちは、頭を過ったある組織の名がもたらした、拭い難い焦燥から来るものだった。
「情報局……だったか……」
共和国国家情報局。
略称を『情報局』という。共和国を裏で支える国家組織。その存在は広く知られているが、その実態は全く不明で、共和国の裏社会で最も勢力を伸ばしているダランたちでさえ、彼らに関する情報はほとんど持ち合わせていない。
「……しまった。奴にもっと強く言っておくべきだったか」
各地で暴れてこい――ダランが道化師に命じたことだ。道化師を送り出したのは、情報局の出方を窺うためだった。ライノト、ローラン、サンベルク――共和国の各都市を巡回するように暴れさせ、情報局の動向を窺う――それが目的であり、"命令"だった。
「奴らに捕まった、のか……?」
最悪の想定が、独り言となって漏れた。低く地を這うような声。
コン。コン。コン。
ドアがノックされ、ダランはハッと思案に耽るのを止めた。
「あんた、どうしたんだい? また浮かない顔して」
扉の陰から現れたのは見知った顔だった。軍服を身に纏った若い女。暗紫色の髪は後ろで無造作に結い上げられ、被った軍帽の中に押し込まれている。緑色のタレ目に口角の薄っすら上がったその顔は、造形こそ美しいが、どことなく世離れした不気味さを備えている。
「いつものことだ」
浮かない顔――それはダランにとっては普通だ。物心ついた頃からそうだった。別に好きでそうしてるわけではない。ダランの人生、そのものが"そういう"ものだったから、自然とそれが"普通の顔"になったに過ぎない。
「一人で抱え込むんじゃないよ。何かあったら、アタイにも言いなっていつも言ってるだろ?」
女は慣れた手つきで、持ってきたマグカップの一つをダランの前に置いた。温かい蒸気が、張り詰めた空気をわずかに緩める。
「ありがとう。ミュール」
ミュール・プレシア。
元共和国軍人の彼女は、今では悪名高い大罪人だ。警官に、軍人、果ては政治家までもを手にかける――共和国政府からすれば、もはやただの犯罪者ではなく、テロリスト。懸賞金もダランやポーカーより高い。
だが、ダランにとっての彼女は、残忍なテロリストではない。かつて労働者デモの混乱の中、軍人に嬲られ、死の淵にいた自分を救ってくれた命の恩人。出会って以来、ミュールはダランに何かと世話を焼いてくれている。そしてダラン自身もその事に心から感謝している。
ただ、共和国軍の軍服を身に纏ったその立ち姿は、ふとした瞬間に国からの回し者かと疑ってしまうからややこしい。
「……ポーカーが帰らないんだ」
ミュールはカップから口を離し、興味なさげに息を漏らす。
「へえ……。そうかい。まあ、アタイは元々あんまり好きじゃなかったから、別に構やしないけどさ」
「確かに君は道化師のことを少し嫌っていたな」
「当たり前さね。あの男は猟奇的っていうかさ、中身が完全に壊れちまってんだよ」
確かに、道化師は言ってしまえば、人格破綻者だ。変に冷静な時もあれば、感情を制御できず、獣のように暴れ、善悪の別がつかないこともある。ゆえに、元は長い間、精神病棟に隔離されていたという。
「あの男は言っていることも、日によって違うし、やることも一貫してない。あんな頭のおかしい気分屋と一緒にされたら、アタイらまでそういう人間に見られちまうよ」
ミュールは露骨に嫌悪感を表して、吐き捨てるように言う。
「それでも問題はない。別に俺たちは正義の味方でも、大義を掲げる反乱軍でもない。綺麗事ばかり掲げて体裁を気にする必要なんかないんだ。いや……むしろそんなのはもうウンザリだ」
ダランの顔に刻まれた深い傷跡に、ランプの影が落ちる。右目から首へと這う裂傷と火傷の跡。
共和国。
王政を打倒し、人民の自由と平等を勝ち取った類稀なる国。だが、共和国が彼に与えたのは、奴隷のような生活と安全基準など存在しない劣悪な工場での凄惨な事故だけだった。
この国に自由と平等があったのなら、彼は『革命の闇』など作ろうとも思わなかったし、こんな場所へ流れ着く者もいないだろう。
「少なくとも俺はそんな"崇高"なもののために、こんな事をしてるんじゃない。俺は一人の人間として、俺を陥れてきたような連中に復讐できればそれでいい」
「そうかい。それじゃあ、アタイのことはあまり良く思ってないのかい?」
ミュールが口角を上げて、ダランを見つめる。
ミュールは"正義感"に溢れている人間だ――もっとも、その"正義"を執行するのには、いかなる代償も手段も問わないが。
だから、そんな"正義感"に基づいて行動する自分のことは嫌いなのか、そういう問いだった。
「言っただろう。俺はただ、一人の人間として、情動的に行動する。俺は正義でもなければ、反正義でもない、何も掲げないし、何にも囚われたくない。お前は俺を助けた、だから仲間になったし、俺はお前に好感を持っている。そんな単純な感情だけじゃあ、ダメか?」
「アンタは本当に素直な"人間"さね」
"人間"――それが意味するのは、人道とか、人倫とか、そういう高度な次元ではない。ただ己の感情に任せて行動する生物としての『人間』のことだ。
「ははっ。醜いだろう?」
「いいや。取り繕っていない分、自分を正義と信じて行動している奴らに比べたら、随分と清々しくてカッコいいさね」
「惚れてくれるなよ」
「ああ、もうベタ惚れさね」
ミュールはダランの冗談にくすっと笑ってのったが、それから大きく息を吸って表情を引き締めた。
「でもさ、あの男が負けたんだとしたら……」
「ああ。相手はお前お墨付きの奴らだろう」
「……アタイは、始めからアイツらにちょっかいを掛けるのには反対だったさね」
ミュールの言葉には、元軍人として情報局の恐ろしさを知る者特有の切実な響きがあった。
ダランもその事は以前から聞くに及んでいたから、そのことを今になって知ったのではない。
しかし――
「仕方がない。これはあいつからの直々の"お願い"だ。無碍にすることもできなかった」
「アイツって、あのパトロンの……」
「ああ。そうだ」
『革命の闇』が共和国でこれほどまでに大きな力を持てているのは、彼らに資金や武器を流す支援者がいるからだ。
(ガリウスの奴は何を企んでいる……)
ガリウス。
それがその支援者の名前。しかし、ダランに与えられているのはその名前という情報だけ。そして、その名前すら、ミュールたち他の構成員には他言無用とされている。
ダランからしても、素性の分からない人物であるが、ダランたちが共和国を相手取って活動を続けられているのは、彼のお陰と言っても過言ではない。
「……それなら、仕方ないかもしれないけどさ、アイツらに狙われたら、アタイらだけじゃない。あの子たちの身も危なくなるんだよ」
ミュールは反論を飲み込み、不安げに手元のカップを見つめ、俯いている。
「大丈夫だ。ガラージャとナラータには危なくなったら、逃げるよう伝えてある。あの子たちは賢い。きっと上手くやる」
「……それはそうだけど、アンタはどうするのさ? もし情報局があの男を捕まえていたなら、必ず来るよ」
「そうだな……まずは証拠隠滅だな」
ダランはそう言って部屋の奥に置いてあった木箱に手を伸ばした。
ダラン・ファーゲンス。何の変哲もなかったしがない元労働者は、復讐の為に犯罪組織『革命の闇』を作った。
面白いと思っていただけましたら、ブックマーク、感想、評価など、応援のほど、よろしくお願いいたします。




