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第76話 彼女の継承者 エピローグ

レポートを読み終えた光莉は、長い間、動けなかった。


膝の上のデータストレージが、少しだけ熱を持っている気がした。でも、それはおそらく気のせいだ。


彼女は何度も、特定の箇所を読み返した。


・コウスケが書店の二階から父を見ていたこと。

・その同じ男が、母が弁護士事務所ビルに入るのも見ていたこと。

・でも、それを誰にも言わず、記録も残さず、忘れたこと。

・非常階段の目撃者が、ただの通りすがりの社員で、彼女は今もどこかで普通に生きていること。


そして、彼女は思った。


(父は――どうして何も言わなかったんだろう)


あの日、カフェで待っていた父。ドタキャンされた後、何を考えていたのか。後になってすべてを知った時、母に何か言ったのか。それとも――何も言わなかったのか。


AIレポートは、Eの心理を「中途半端な関与」と分析していた。でも、それは本当に「中途半端」なのか? 何もしないことが、いつも間違いなのか?


(母は――どうして「受け入れるふり」を続けたんだろう)


嫉妬している。疑っている。でも、それを認めたら自分の負けだ。そう書いていた母。なぜ、父に本当の気持ちを言えなかったのか。なぜ、一人で抱え込んだのか。


(純さんは――なぜ、書いたんだろう)


観察するだけじゃなくて、小説として発表した。多くの人の目に触れる場所に置いた。それは、誰のためだったのか。本人たちのため? それとも――自分のため?


(康介さんは――なぜ、見ているだけだったんだろう)


書店の二階から父を見下ろしていた。母が弁護士事務所のビルに入るのも見ていた。でも、何もしなかった。何も言わなかった。ただ、見ていただけ。


それは、優しさなのか。弱さなのか。それとも――何か別のものなのか。


光莉の胸の中に、収まらない疑問が渦巻いていた。


知りたい。でも、知りたくない。

わかるべきだ。でも、わかったら終わりだ。


彼女は、自分の中に芽生えた感情に気づく。それは――怒りに近かった。


(父は、もっと母を守れなかったのか?)

(母は、もっと自分を大事にできなかったのか?)

(純さんは、もっと違うやり方はなかったのか?)

(康介さんは、もっと何かできなかったのか?)


でも、その怒りのすぐ後で、別の感情が顔を出す。


(でも――私は、何ができるというのだろう)


(私は、あの場にいなかった。何も見ていない。ただ、データとして後から知っただけだ)


(それなのに、彼らを責める資格が、私にあるのだろうか)


その問いに、答えは出なかった。


「知りたかったこと」と「知ってしまったこと」の間に、深い溝がある。


父は、あの日、何も知らずにカフェで待っていた。

母は、離婚の決意を胸に、弁護士と話していた。

その両方を、一人の男が書店の二階から見ていた。


でも、その男は何もしなかった。何もできなかった。ただ――見ていただけだ。


そして、その「見ていただけ」の男は、後に母の元夫になる。


光莉は、父と母と、コウスケという男の、その奇妙な関係を思う。


誰も悪者じゃない。

誰も完全な善人じゃない。

ただ、それぞれが、それぞれの「見る」と「見られる」の中で、もがいていただけだ。


(でも――)


(それで、終わりにしていいのか?)


(「わからない」まま、放っておいていいのか?)


――私も、同じだ。


彼女は気づく。


このレポートを依頼した自分もまた、過去を「見よう」としている。両親と同じ「視線の連鎖」の中にいる。しかも、彼らよりもはるかに強力な「分析の目」を持って。


「見る」ことは、生きることだ。

でも、「見すぎる」ことは、何かを殺すことかもしれない。


(でも――)


(私は、殺すために見ているんじゃない)


(知りたいから見ている。わかるまで考えたいから見ている)


(それが、私のやり方だ)


窓の外では、夜景が広がっている。無数の光。それぞれの下で、誰かが誰かを見て、誰かが誰かに見られている。その99.9%は、誰の記憶にも残らず、ただ通過していく。


光莉は、コーヒーを淹れようとして、ポットが空なことに気づいた。いつ空になったのか、覚えていない。冷たいマグカップを手にしたまま、彼女は窓辺に立っていた。


その時、画面に新たな表示が現れた。


---


【処理選択】

本レポートの分析結果を、以下のいずれかの方法で処理してください。


1. 採用

2. アーカイブ

3. 破棄

4. 保留


---


光莉は、その選択肢を見つめていた。


採用する――でも、何をどう採用すればいいのか。

アーカイブする――知った上で、忘れることができるのか。

破棄する――知ってしまったことを、なかったことにできるのか。

保留する――先送りにすること自体が、もう一つの選択なのか。


(でも――)


(この四つの選択肢は、どれも「彼らの物語」の処理方法だ)


(私は、自分の物語を選びたい)


彼女は、冷めたマグカップを置いた。


そして、キーボードに手を伸ばした。


カーソルが、選択肢の上で点滅している。


(私は、このどれかを選ぶのではない。私が書く。自分の言葉で)


光莉は、新しいドキュメントを開いた。


光莉の指が、止まる。


窓の外で、また誰かの視線を感じる。


それは、父かもしれない。

母かもしれない。

ジュンかもしれない。

コウスケかもしれない。

Eかもしれない。

あるいは――この物語をここまで見てきた、あなたかもしれない。


光莉は、少しだけ微笑んだように見えた。


(あなたも、見ているんだね)


(でも、私はただ見られるだけじゃない)


(私も見る。そして、書く)


指が、動き始めた。


カーソルは、選択肢の上を越えて、新しい行へと移動する。


窓の外の光が、その横顔をかすかに照らしている。


彼女が何を選ぶのか――


選ぶのか、選ばないのか――


いや、彼女はもう選んでいる。


「私が書く」という、第五の選択肢を。



         ---了---


※第8部『核の窓 ―拓の内側―』に続きます


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