01 真田幸村
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢
――豊臣秀吉
轟。
城が、燃えていた。
この国の戦国史上、最大、最強の城が燃えていた。
その城の名を、大坂城。
築城者は――豊臣秀吉といった。
*
慶長十九年。
徳川家と豊臣家は決裂し、合戦に及ぶに至った。
いわゆる大坂の陣である。
徳川家が麾下の全国の大名に出陣を命じるに比して、豊臣家は牢人を多く募って対抗した。
その牢人の中に。
「われこそは真田左衛門佐信繁! 徳川家康、いざ、いざ尋常に! 勝負!」
後世に「真田幸村」として知られる四十九歳の武将がいた。
彼は、豊臣秀吉から豊臣姓を賜り、秀吉の馬廻衆の一員として名を連ねていた。
そして──その馬廻衆の同輩に、大野治長という男がいた。
*
「左衛門佐、手を貸して欲しい」
治長は不思議な男だった。
まずもって、出自が不明だ。
何でも、母が茶々の乳母で大蔵卿といい、つまり治長は茶々の乳兄弟なのだが、それが理由かどうかは知らないが、気がついたら太閤秀吉の馬廻衆となっていた。
それだけ有能かと言われれば、武士としては疑問符が生じるが、少なくとも吏僚としては優れていた。
さらに政治家としての資質も持っていたらしく、秀吉亡きあと──特に関ヶ原の合戦以降の、衰えゆく豊臣家を支えたのは、間違いなくこの大野治長だった。
なぜなら。
「修理(大野治長のこと)、わしはもう疲れた」
そう零した片桐且元──かつての賤ヶ岳の七本槍──を支え、徳川家への交渉を差配し、かつ、大坂城という、この渾沌とした、ある意味「異界」を保ちつづけていたのだから。
*
「もはやこれまで。やんぬるかな」
やがて且元は徳川家との交渉に神経を擦り減らし、大坂城内の過激派から命を狙われるようになると、彼は大坂から退いた。
忍耐の限界と、何より心身の消耗が激しく、耐えられなかったのであろう。
最後まで豊臣家を案じ、徳川家の鋭鋒を避けるために腐心していた且元だったが、しかし皮肉なことに、この且元の退去を契機に、徳川家は豊臣家への攻勢を開始する。
それは──この国史上、空前の規模の、「大」攻勢であった。




