(おまけ)罪と罰と。
教室で俺は今日も、読書に勤しんでいた。窓際で立って、ぺらりぺらりとページをめくる。
夏目漱石はいい。情景が目に浮かぶし読みやすい。しかし、俺の前には、大きな難敵が立ち塞がっていた。「罪と罰」である。なぜあの時、あんなことを言ってしまったのか。
過去の自分に1通メールを送れるとすれば、俺は自己紹介直前のあの日の自分にこう送る。
『「走れメロス」にしとけ』と。
「莉名ちゃんって最近ずっとその本持ってるよね」
櫻子ちゃんが言った。「読んでる」でなく「持ってる」なのが、よく見てる。
だってこれ、全然進まないもん。読んでも読んでも、気がつけば同じ行に戻っている。
登場人物の名前は似てるし、ようやく覚えたと思ったらまた別の名前が出てくるし。しかもみんな悩んでる。
いやそりゃ題名が『罪と罰』なんだから、悩みもするだろうけど。
「これがわたしの罪の形なんだよ。文学少女になるためには必要なの」
「文学少女は人を撲殺できそうな本を片手で持たないよ」
だってうちの高校、ハードカバー版しかなかったから。あと片手で本を持つのってなんかかっこいいじゃん。
櫻子ちゃんが、俺の手元のハードカバーをぺし、と軽く叩いた。
「でも、ちょっとは進んだ?」
「うん。精神的には半分くらいまで行ってる」
「努力目標みたいに言わないでよ」
櫻子ちゃんは笑った。
それでも俺は毎日持ち歩いている。それに、窓際で分厚い本を持ってると、なんかちょっとそれっぽい気がするし。クールキャラへの道は、まだ諦めていない。
「クールキャラっていうのは、ああいうのを言うんじゃないかな」
櫻子ちゃんがつい、と視線を教室の奥に送った。そこには、俺が心の中でひそかに「質問男子」と呼んでいる……あの自己紹介の時に俺に質問してくれた、つまりは俺に「罪と罰」という刺客を送り付けてきた(責任転嫁)彼のことだ。名前を「白河くん」という。
質問のときは明るそうだったのだが、普段は少し距離を置いているタイプらしい。彼はなかなか整った顔をしており、女子の一部は騒いでいるみたいなのだが……その本人は、そんなことをまったく気にしていない表情で、机にもたれながら静かに話していた。
「秘密の場所、見つけたんだ」
数人の男子の輪の中で、そっと打ち明けるように話す白河くん。
「秘密の場所って?」
「屋上」
その言葉に、周りの男子が少し驚いた顔をした。
「屋上って入れるのか?」
「鍵が掛かってるけど、揺らすと開くぞ」
白河くんは淡々と言う。
「危なくない?」
「危ないさ」
即答だった。
「高いところって、落ちたら死ぬだろ」
言い方が妙に真面目で、その場の空気が一瞬だけ止まる。
「……まあ、そりゃそうだけど」
誰かが苦笑した。
白河くんは肩をすくめる。
「だから人来ないんだと思うぜ」
なるほどなるほど。俺も、「罪と罰」を読み切るためには、そういう場所の力を借りないといけないかもしれないな。
そんなある日のことだった。
帰宅すると、珍しくニシャプール様が玄関口まで出てきた。素体の状態で、いつもより少しそわそわしている。
「莉名、マシロから連絡があったわ」
俺は靴を脱ぎかけたまま、固まった。
「……帰ってくるんですか!」
「ええ。今週の金曜日。15時35分に空港着だって」
「卒業って秋じゃなかったんですか?」
「早めに終わらせたんだって。ほんとは莉名の入学式に間に合わせたかったんだと思うわ」
金曜日。今日は水曜日だから、あと2日。
マシロさんが帰ってくる……! ずっとカウントダウンしていたカレンダーの、あの数字がついにゼロになる。ずっとタイミングが合わなくて、ビデオ通話も数えるほどしかできていなかった。
「その時間帯だと、授業終わってからだと間に合わないですね」
「授業はちゃんと出なさい。高校生なんだから」
「わたし、前世も含めたらもう大人なんですけど」
「高校生は高校生よ」
反論の余地がなかった。
そのまましょんぼりしてソファーに座り込むと、ニシャプール様は少しだけ困ったように眉を下げた。
「気持ちはわかるわよ。でも、日常も大事なの。マシロだって、莉名が授業をサボって迎えに来てたら、きっと褒めないと思うわ」
「うっ……それはそうかも……」
マシロさんは、意外とその辺しっかりしている。
いや、意外でもないか。しっかりしているからマシロさんなのだ。
「だから授業は出ること。いい?」
「……はい」
とは、言ったものの。
金曜日、午後の授業中。俺は心ここにあらずだった。
黒板の前では先生が何か英語の例文を読んでいる。窓の外では雲がゆっくり流れていた。
俺は机の上に開いたノートに形だけペンを走らせながら、頭の中では別のことを考えていた。
15:35着。
授業終了が16時。
ここから空港まで50キロ。
……飛べば、いけるか?
10歳の頃と比べると、スピードはだいぶ上がった。全速力で飛んだら、間に合わなくもない気がする。ニシャプール様は「授業はちゃんと出なさい」と言った。ちゃんと出る。出た上で飛んでいくのは、駄目とは言ってない。
これは抜け道じゃない。合理的な判断だ。
マシロさんが帰ってくるんだぞ。これを迎えに行かなくてどうする。
そう思った瞬間、俺の中で何かが決まった。
最後の授業が終わるチャイムが鳴る。
先生が「じゃあ号令」と言った瞬間には、俺はもうカバンを掴んでいた。
飛んだら目立つに決まっているので、人の来ない場所へ。
白河くんの言っていたとおり、屋上は静かだった。
風が強くて、制服のスカートが揺れる。空は薄く白みがかった青で、遠くに飛行機雲が一本だけ伸びていた。屋上は、腰くらいの高さの柵にぐるりと囲われており、柵の上には金属の古びた手すりがついている。
俺はぐらぐらと揺れる手すりに手をかけ、ひょいと柵を乗り越えた。少し体重をかけただけで、金属がぎしぎし鳴る。……なにこれ危なっ。男子がもたれかかったらケガしちゃうぞたぶん。明日先生に言おう。
そんなことを考えながら柵の外側に降り立ち、軽く膝を曲げた、そのときだった。
「おい!!」
背後から鋭い声が飛んできた。思わず振り向く。
すると、屋上の扉のところに、白河くんが立っていた。
目が合う。
その瞬間、彼の顔色がはっきり変わった。
「ちょっと待て、何やってる!」
そう言うやいなや、白河くんはダッ! とこちらへ駆け寄ってきた。
俺は慌てて手を振る。
「ごめん大丈夫。戻るから」
「そういう問題じゃない!」
白河くんは俺の腕を掴んだまま、さらに体を乗り出してきた。
このままじゃ届かないと思ったのか、焦ったように手すりへ足をかける。こっちに来る気だ。
「いやいや危ないってば」
「柵の外から言うな!」
その瞬間、金属が大きく軋んだ。
ぐらっ、と手すり全体が傾く。
ばきっ。
乾いた音が響いた。
手すりの支柱が一本、根元から外れる。体重をかけていた白河くんの体が一気にバランスを崩し、そのまま屋上の外へ大きく傾いた。
「「あっ」」
白河くんの体が傾いた。
足が空を踏む。
落ちていくのが、ゆっくりとスローモーションで見える気がした。
……やばい!
俺は反射的に、空へ踏み出す。帽子の羽がぱたんと開く。
落ちていく白河くんに一瞬で追いつき、その腕を掴む。
落下が止まる。
羽が風を掴み、二人の体が空中で静止した。
白河くんの目が大きく見開かれる。ぱたぱた、という帽子の音だけが耳元で響いた。
とりあえず、屋上に着地し、手を離す。
白河くんは、目を真ん丸にして、俺のことを見つめている。
「と、飛んだ……?」
「飛んでない。落ちてただけだよ。かっこつけてね」
「そういうの今いいから。ちょっと真面目に話してくれる?」
「はい」
……見られた。
完全に。
ここから、言い逃れできるか……?
俺の頭の中で、イマジナリーマシロさんが目を閉じて、首を振った。
――無理なのです。
……いや、待て!!
俺は脳内のマシロさんに「異議あり」と書かれた札を上げる。
人間の脳というのは、理解できない光景を都合のいい解釈に書き換えてしまうものだと聞く!! その機能は白河くんにも備わっているはずだ。
……つまり。
ここまで見られたなら、もう開き直って幻覚にすればいいのでは……!!
理解できないこと……ありえないこと……? なんだ? 何をすれば……そうだ!!
俺は、何事もなかったように、さっきグラグラと揺れていた手すりへ歩み寄った。
そして、そのまま顔を近づけて、がぶっと噛みつく。
ばき、と音がして、手すりの一部が消える。
それをそのままバリバリ噛み砕き、飲み込む。
手すりの一部がぽっかりと消えた。
俺はそこを指で示した。
「あ、ここなくなっちゃった。危ないね」
ぴゅーっと、屋上を風が吹き抜ける。
雲の隙間から落ちてくる光が、屋上のコンクリートに淡く広がっていた。
白河くんはまだ動かない。
俺と空と手すりを、信じられないものを見るみたいに順番に見比べている。
「危ないから先生に言っとかないとね」
言葉を足すと、ようやく白河くんの喉がかすかに動いた。
「……え?」
――よし。
心の中で小さくうなずく。
人間の脳というのは、理解できない光景を自然と都合のいい解釈に書き換えてしまうものだ(大事なことなので2回言った)。こんな光景を見て、現実だと思うわけがない。
「戸倉さん?」
「夢。夢だよ。これは悪い夢。だから家に帰って寝て忘れよ?」
俺は笑って、屋上の床を軽く蹴った。
その瞬間、帽子の羽がばさりと大きく開き、体が一気に空へ引き上げられる。背中を押すように風が膨らみ、屋上のコンクリートがみるみる遠ざかっていった。
そのまま高度を上げる。
風の質が変わり、空気が一気に冷たくなる。
雲の下まで突き抜けた瞬間、視界がぱっと開けた。街が遠くまで広がり、川が細い光の線になって流れている。道路は網目みたいに交差し、さっきまで立っていた学校はもう、街の中の小さな点にしか見えなかった。屋上はちょっと怖くて見られなかった。たぶん大丈夫。うん。
そのとき、俺の耳に、白河くんの呟きが小さく届いた。
「……これ、夢か……?」
よし!!! なんかいけそう!!
さて、空港はあっち、と。
俺は体を少し傾け、進路を合わせると、そのままさらに速度を上げた。景色が後ろへ流れ、街並みは一瞬で遠ざかっていく。空はどこまでも青く、その下で夕方の光が地面をゆっくり染め始めていた。
* * * * * * * * * * * *
管制塔のレーダー担当が異変に気づいたのは、16時8分のことだった。
突如として光点が現れた。
「……なんだこれ。地上速度3200km/h……?」
民間機でも自衛隊機でもない。飛行計画の申請もない。速度がおかしい。戦闘機を超えるスピードの、何か。それが、レーダーに映っている。
「早すぎる……!」
同僚を呼ぼうとした瞬間、光点は着陸エリアの手前で唐突に消えた。
「……消えたって?」
呼ばれてやってきた同僚が呆れたように、レーダーを覗き込む。
「今のは……いったい、何だ……?」
しばらく二人で画面を眺めたが、それきり何も起こらなかった。その少し前、市街地のあちこちで、空から突然大きな音が降ってきたという報告が数件入っていたが、原因は不明のままだった。
なお――物体が音速を超える速度で空を通過した場合、衝撃波によって地上に大きな音が響くことは、よく知られている。
* * * * * * * * * * * *
空港の到着ロビーは人が多かった。
俺は人の流れをかき分けながら、ゲートの前に立った。15時35分着。手続きを含めても、そろそろ出てくるはずだ。
しばらくして、見慣れた顔が、人混みの中に見えた。
マシロさんだ。いつも通り、白衣を着ている。
すらりとした鼻筋と、柔らかい口元。ちょっと髪は伸びただろうか。変わらずアンバランスなほど丸い、大きな無機質な瞳。なんだかゲッソーとかスライムを思い出させる、デフォルメされたみたいな、丸い目。
その隣に……ニシャプール様もいた。マシロさんの隣をニコニコしながら歩いている。
こちらに気づいて、マシロさんが足を止めた。ニシャプール様が「莉名!!」と声を上げる。
俺はとっさに手を振った。
マシロさんは、一瞬だけ目を丸くした。目は元々丸いけど。それからゆっくりと近づいてきて、俺の前で立ち止まった。
そして、マシロさんは少し背伸びをして――。
俺は、そっと頭を撫でられた。
マシロさんの指先は、少しだけ冷たかった。
「……大きくなりましたね」
「えへへ……」
頭を撫でられる年齢では、たぶんもうない。
でも、マシロさんに言われると妙に嬉しいから困る。
やけにくすぐったかった。
前に撫でてもらったのは、たぶん十歳のあのとき以来だ。マシロさんは変わってない気がするのに、俺は変わったらしい。それが当たり前なのに、なんだか、うまく言葉が出てこなかった。
「マシロさんは、変わってないですね」
「そうですか? あたしはけっこう変わった気がしますです」
どこが変わったのか全然わからなかったけど、マシロさんが言うならそうなんだろう。
改札を抜けて、電車に乗った。
三人で並んで座ると、マシロさんがバッグの中から何かを取り出した。文庫本だった。薄い。羨ましい。
「そういえば」とマシロさんが言った。
「莉名さんの入学式の挨拶、なかなかよかったですよ」
俺は思わずマシロさんの顔を見た。
「え!? あれアメリカまで届いたんですか!? ほんとに!?」
「そんなわけないじゃないですか」
即答だった。
「モッちゃんがビデオを持って天井付近から撮っててくれたんです」
モッちゃん……!!!
できる部下……!!!
やっぱりモッちゃんは忠臣の鑑であった。
俺はマシロさんを真似して、カバンから「罪と罰」を取り出した。マシロさんがちらりとこちらを見て、目を丸くする。
「……それ、読んでるんですか」
「読もうとしてます」
「どのあたりまで」
「なんか主人公が老婆を……」
「序盤じゃないですか」
俺は弁解のように、「クールキャラになろうと思ってて」と慌てて言った。
「自己紹介で文学少女みたいなキャラを出したら、それに合わせないといけなくなっちゃって」
「挨拶の雰囲気はクールだったですよ」
「そうなんです!! わたし、高校生になって落ち着いてるんです!」
マシロさんは「ほー」と言ったあと、首を少しだけ傾けた。
「まあ、目指すのは自由ですかね……。落ち着いた高校生活、楽しみにしてますです」
「見ててくださいマシロさん! わたしのクールで穏やかな高校生活を!」
マシロさんは「はい」とだけ言って、文庫本に視線を戻した。
電車が動き出す。窓の外に、夕暮れの街が流れていく。ニシャプール様が窓の外を眺めながら「久しぶりね、この空気」と小さく言った。
俺は窓を見た。
外の景色じゃなくて、ガラスに映った二人を見る。
ニシャプール様と、マシロさん。
それは、俺の記憶の中にいる、2人の光景そのままだった。時間は経ったけれど……変わらないものもきっとあるのだと、そう思える気がした。
その夜は、久しぶりに3人で一緒の部屋で眠った。まるであの秘密基地みたいに。それが嬉しくて、俺はなかなか眠れなかった。でも最後まで起きてたのはニシャプール様だったので、あの人が一番喜んでいたのだろう。
そして、翌日。
俺はいつも通り、櫻子ちゃんと登校した。
普段と同じ通学路なのに、なんだか全てがキラキラ輝いて見える。まるで無敵になった気分だった。この調子なら、俺の高校生活もこのままいい感じに行くのでは……!
ところが教室に入ると、なんとなく空気が妙だった。
ざわざわしている。
見ると、白河くんが、周囲の数人に向かって何かを言っていた。顔が真剣だった。あとなんかちょっと遠巻きにされている。
「だから、確かに見たんだって。戸倉が屋上の柵の外に出てて、俺と一緒にそのまま落ちて——飛んだんだ! 帽子が羽ばたいて! それで屋上から飛んで消えて!」
「……?」
「お前は何を言ってるんだ……?」
「羽が生えてるってことだろ? 俺の見てる戸倉もそうだよ。昨日もうちでニコニコ笑って一緒にテレビ見てたし」
「お前はお前で何を見てるんだ」
「それで、戸倉が手すりをいきなり食べたんだ。『鉄分って摂るの大事なんだよ』みたいなこと言って!」
「俺の見てる戸倉、さすがに手すり食べない」
「俺も夢に戸倉出てきてほしい」
「手すり食わせるのは性癖拗らせすぎだろ」
白河くんがさっそく喋ってる……!!
しかもほぼ覚えてる!!
いや俺は「鉄分って摂るの大事なんですよ」とか言ってないけど。なるほど、デマはこうやって作られていくらしい。
俺は、騒いでいる男子の後ろから、ひょっこりと顔を出した。
「おはよう。なんだか騒がしいけど、どうかした?」
「戸倉……さん」
「うん。戸倉さんだよ。どうしたの? 夏目漱石について語りたいとか?」
すると、白河くんが、真面目な顔で俺を見つめた。
「戸倉さんって空飛べる?」
「いや、そんな真剣な顔されても、飛べないよ?」
昨日言ったじゃん。
飛んでない。
かっこつけて落ちてるだけだって。
「あ、でも昨日はありがとう。白河くんが助けてくれたんだよね。手すりが壊れてわたしが屋上から落ちそうになったんだけど、白河くんが引っ張ってくれて。で、あんまり怖かったから、2人で「夢かな」って言って別れたけど、大丈夫だった?」
「……夢? じゃあ、戸倉は手すりを食べないのか……?」
「食べない食べない」
普段はね。
まだざわついている男子たちを置いて。
俺は、自分の席に着き、そっと「罪と罰」を広げた。ハードカバーは顔を隠すのにちょうどいい大きさだった。
……しばらく、白河くんとは、目を合わせないでおこう。
(お知らせのコーナー)
別サイトなのですが、ハーメルンで「恋愛ゲームの世界を願ったらなぜかヒロインになった俺は、今日も攻略を回避するのに忙しい」を再連載し始めました。ちょっとだけ変わってます。あと、ハーメルンは作者の解説みたいなのが文中に入れられるのですが、私は今これにはまっているので、オーディオコメンタリーみたいな感じになると思います! もしお時間がある方は、よければ読んでいただけたら!↓
https://syosetu.org/novel/404872/




