最後の日は珈琲が飲みたい
バイバイと言う言葉は嫌いじゃないよ。サヨナラに比べたら全然平気。具体的に、と聞かれても上手く答えられなくて頭を抑える。
「どっちでもよくない?」
と恋人が呟いた。私は彼女の長い黒髪を撫でながら首を横に振った。
「バイバイがいいの」
「なんで?」
まるで子供みたいにゴネているみたいだが、普段の私は仕事もできるクールなOLで通っている。だから勘違いしないでもらいたい。私は小さく息を吐いた。
「バイバイって、愛してるって感じしない?」
「え…しない…」
うーん。言葉で伝えるのは難しい。同じ言語を使っていて難しいのだから世界平和なんてもっと難しいだろう。
「サヨナラだと冷たい感じするでしょう?」
「まぁ…するかな…」
ムッと彼女の顔を覗き込む。やれやれといった様子で彼女は頷いた。それを見て私は良しとした。
「だからさ、最期はバイバイって言ってね」
約束の日、私は恋人になった時のことを思い出していた。恐る恐る「あの…好きです…」と言っていた可愛い彼女がどうしてこうなってしまったのだろうか、と不思議に思ってしまう。最近はエッチしても顔を真っ赤にしたりしない。まぁ、それでも可愛いけどね。
昔のことを思い出すのはこのくらいでいいかな。
だって私はもうすぐ死んでしまうのだから。
そっと瞼をおろしてあの日病院の先生に言われたシーンを再生する。
「記憶喪失症候群です」
私は、もうすぐ消える。私という記憶がバイバイしちゃう。その日の夜は、二人でベットの上で互いの服を濡らしたっけ。
ポーっとお湯が湧いた音が聴こえてきた。私の愛する彼女が淹れてくれる珈琲は最高だ。その音で朝、起きるのが本当に楽しみで…本当に楽しみで…本当に…本当に…
「楽しみだったな」
寝たふりを続けるのが楽しかったんだよね。彼女に肩を揺さぶられて起こされるのが、言葉にできないくらい幸せでした。そして、たまにキスで起こしてくれることは秘密です。この事は手紙には書かないでおこう。“私”と彼女だけの秘密にしてやろう。
サラサラと私はペンを走らせる。遺書は書かないことにした。きっと彼女のことだから苦しませてしまう。
「…………だから私は“貴方”宛に手紙を書きました。私の最後の願いは私の力では叶いません。私の願いは一つだけです。私の恋人だった彼女を泣かさないでください。これは命令です。私の顔をした“私”がどう生きようと構いません。ただ、私の大切な彼女のことだけ。それだけ、守ってください。勿論、“貴方”の幸せも願っています。どうかこの手紙を嘘だと思わないことを祈ります。バイバイ。
二代目の“私”へ
初代の“私”より」
他に続きがないか探してみたけれど、どうやら手紙はこれで終わりみたいだ。“私”は深く椅子に腰掛けて息を長く吐き出した。朝、机の上に謎のレシピと医療機関からの正式な診断書類、そしてこの手紙があったのを見つけた。頭が少し重たい気がする。書類と一緒にあった錠剤を飲めば抑えられると書いてあった。いやいや、待って待って…
「なんだこれ」
小説みたいなことの連続で正直、手紙の内容は嘘だと思った。けれど私には過去の記憶がないような気がする。
いや、確かにない。その事実が無性に怖くなってきた。トイレで少し吐いてしまった。おえー。
「さて、これからどうするか」
冷蔵庫は有り難いことに食料沢山入れてくれていたみたいだ。サンキュー、初代の私。これで数週間は持つだろう。問題はその先、どうやって生活していくかだ。財布の中を確認したところ、野口さんが10名ほどいたくらい。うん、軽くて便利。
「仕事は辞めちゃったみたいだし…どうするかな…」
クローゼットの中は意外と少なくてビックリしたから買い物にも行きたい。あ、そうだ、銀行に行けばいいんだ。早速、出かけるとしよう。カバンの中に携帯を入れて化粧も軽く済ます。玄関で靴をトントンと履いて敬礼する。
「それでは二代目、ただいまより行ってまいります」
なんとなく変な事をしたくなった気分なのです。深くは聞かないでください。
ガチャリ
そして私はドアを開けた。
数分歩いてみた感想は普通の一言に尽きる。
この街並みを見たことあるかと言われても?マークが頭に浮かぶ。あると言えばあるし、ないと言えばない。そんな感じがする。キョロキョロと見渡して見覚えのある建物がないか探してみてもどれも特徴がなくて普通だ。なんて普通なんだ。
この街の魅力は一体何かとインタビューされたら「普通なところです」と答えるのが正解だなと馬鹿なこと考えていたときだった。
ヒラリ、と目の前の人のカバンからハンカチが落ちていった。
青色の清潔感のあるハンカチを拾い上げて落とした女性の元へ駆け出す。
「あの、スミマセン!」
「え?……っ!?」
その女性は驚きのあまり青ざめていた。
「ご、ゴメンナサイ。驚かせてしまって」
「あ…いえ、こちらこそ」
ペコリと綺麗なお辞儀をした女性は微笑んでいる。
「えっと、ハンカチ落としましたよ」
「あぁ、ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
ペコリ。私も真似をして綺麗なお辞儀をしてみる。
「フフッ」
あ、笑ってくれた。笑った顔も可愛い人だな。でも…少し顔色が悪そう?
気になった私は尋ねてみた。
「あの…体調悪そうですよ?」
「え?」
「少し休んだほうが…」
「そ、そうですね」
やっぱり顔色が悪い。近くの店で休みませんか、と言えないのが悔しい。これ以上は迷惑になるかもしれない。だって出会ったばかりの人に変なことされるのは誰だって嫌に決まっている。
「あの…気をつけてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
それじゃあ、と手を上げたとき「ぐぅううう」と虫が鳴いた音がした。そういえば朝から何も食べていないことを思い出す。私は少し俯いて手を上げた。
「フフッ」
あー、笑われてしまった。もし墓穴があったら入りたい。
「あの、良ければ喫茶店にでも寄っていきませんか?」
「え?でも…」
「ハンカチのお礼をさせてください」
うぐぐ…。そこまで言われててしまったら断ることが出来ない。こんな綺麗な人に誘われて断る女なんていないよね!うん!
そして私たちは近くの店に入ることとなった。
私は彼女が女神様だと言われても信じる。
「こんなに奢ってもらって…」
「いいの、いいの。好きでやったことだから」
私が食べた量は普通くらいだったのだが、メニュー、一つ一つの値段がそれなりにしたのだ。あーでも味は最高でした。綺麗な人と囲んで食べる空間も最高です。
「それじゃあ食後の珈琲を頼みましょうか」
綺麗な人は店員さんを呼んでコーヒーを2つ頼んでくれた。数分後、たっぷり湯気を揺らしているカップが私たちの目の前に置かれた。優しい匂いが私たちを擽る。
「美味しい」
その声を聞いて私もカップに口を付ける。
「苦っ!?」
「…………」
なんだこれ?泥水の方がマシじゃないか?と失礼なことを考えている間も綺麗な人はカップを傾けてグイグイ飲み干していく。
「わ、私はお腹いっぱいかなぁ…」
「そう……」
あれ、と違和感を覚える。今まで楽しく食事していたのに、私がコーヒーを口にしてからテンションが低い。まさか私みたいに苦手なわけがないし…どうしたんだろう。
「あの…」
「もう解散しましょうか」
「え?あの、ちょっと」
「会計してくるから」
そう言って早歩きで支払いを済ませて去って行ってしまった。原因は分かりませんが、わたくし二代目、大失態してしまったようです。
意外にも仕事はすぐ見つかった。丁度、育休に入られる女性が一人いてその穴を私が埋める形となった。
上手く行っている。それなのに私は何か足りないと感じていた。というより、アノ人のことが気がかりとなっていた。もう一度会いたい。会って謝りたい。あれからコーヒーは飲めないままだけれど、もっと苦い感情があることを私は知ってしまったのだ。
「ある意味、初恋か…」
今日は雨が降るらしいから傘を忘れないように準備しておこう。天気予報に従うのが一番。少し憂鬱な気持ちでその日は家を出た。
仕事帰り。雨足は酷くなるばかり。街はカラフルな傘で少しだけ楽しそう。それでも私は俯いて歩いていたんだろう。自転車にぶつかりそうになって危なかった。すーっと視線が遠くのコンビニに移る。なんとなくお酒が飲みたいと思った。
いらっしゃいませー、という声が向けられて少し恥ずかしい。コンビニの中はクーラーが入っていて肌寒いなと思った。レジから遠い場所の飲料コーナーへ足を進める。
「あ」
いた、と声に出てしまうかと思った。
「あ」
と、向こうも口を開けて立ち止まっていた。気まずいと言う言葉が頭に浮かぶ。
「あの」
と言う前にレジへ逃げていく。私は空っぽのカゴを持ったまま追いかける。多分、私のことが嫌いなんだろう。それでも私はこの人のことが気になってしょうがない。
「なんで付いてくるんですか」
「あ、あの…その…」
誤りたくて、の一言が出てこない。
「もう会わないと決めていたのに…」
「え?」
「いえ…その…実は私…」
スミマセンお客様、と声をかけられた時には遅かった。私たち二人は何度も頭を下げてコンビニを後にした。歩きながら話しましょうか、と言ってくれたので私はホッと胸をなでおろした。雨は小雨に変わっていた。
「実は私、“前の貴方”の知り合いなの」
「そう…なんですか…」
話を聞く前からなんとなくそんな予感がしていた。
「知り合いってことは…」
「ただの友達でした」
「あ…じゃあ初代のこと、知っているんですね」
「初代?」
「あー!こ、こっちの話!…それで、私が何か失礼なことをしてしまったと」
本当にゴメンナサイ、と言って頭を下げる。
「なんのこと?」
「……?」
「貴方は何もしてないから」
「え、でも」
あの日、態度が悪くなったのは私のせいで間違いないはずなのだ。理由が分からなくても謝らない理由にはならない。悪いのだから頭を下げるのは当然のこと。
「私が悪いの。ゆ、友人だった時のことを思い出しちゃって…だから貴方は悪くないの」
私は何も言えなくなった。私が起きる前、恋人のいた初代。きっと友人のことも大切にしていたに違いない。二代目の私が入っていいわけがない。
「そういうことなら…仕方ないですね…」
「気にしないで」
「あ、そうだ」
「何?」
「お願い、聞いてもらってもいいですか?」
私は歩みを止める。雨は止んでいたから傘は閉じて好きな人の目を見る。
「あ、あの!私と、友だちになってくれませんか!?」
「……」
「と、友達になって…そ、そして!私と、お、お付き合いしてくれませんか?!」
「………」
言った。言ったぞ。手も唇もブルブル震えてカッコ悪いけど言ってやったぞ。まさか私も女性のことを好きなるなんて。それも初代の友人だった人を好きになるなんて。だけど告白しない理由にはならなかった。
じっと見つめる顔は悲しそうで嬉しそうで辛そうで楽しそうで、兎に角、表情は読めない。傘をゆっくりと閉じて、ポケットから携帯を取り出すのを私は見ていた。ギュッと祈るように携帯を操作している。少しして口を開いた。
「携帯」
そう言われて慌ててカバンから取り出す。
「番号、教えて」
私は自分の番号を声に出して教えた。そしたら高速で操作して登録したみたいだ。まるで以前から良く使っていた番号のよう。
それから直ぐに、ピコン、とメールが届いた。件名、なし。私はソレを恐る恐る開いた。
「いいよ」
こうして、コーヒーの苦手な私に恋人が出来ました。




