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終章 スタート

 十二月。

 榊一家は初めての家族旅行にやって来ていた。海の見える温泉宿で、家族三人、水入らずで団欒しよう、と良樹が提案したのだ。

 亮は見慣れぬ景色に始終はしゃぎ通しで、結局普段よりも二時間も早く就寝してしまった。ほとんど昼寝もできていなかったようで、さほどグズつくこともなく、用意された布団に寝かせた途端に亮は目を閉じた。


「いつもはこんなにスッと寝ないのよ。眠い眠いってグズグズ泣くんだから」


 寝間の襖を音を立てないように閉め、千賀子は窓際に立った。

 外は雪がちらついていて、夜の海のしぶきにのまれては消えた。千賀子は曇った窓ガラスを手でキュッと撫で、漆黒の景色を眺めた。流石に窓際は冷え込む。千賀子は浴衣の前を両手で閉じ、窓ガラスに映る良樹の姿を一瞥した。

 広縁の籐椅子に腰掛ける良樹はどこか落ち着かないようで、持参した酒をテーブルに置いては、またその位置を変えている。床に落ちた缶ビールの水滴を浴衣の袂で拭い、チラチラと千賀子の様子を窺っていた。


「本当はね……」


 千賀子は良樹の正面の椅子に座り、ノンアルコールビールの缶を手に取った。プシュリと缶を開け、喉を潤すために一口飲み干す。


「旅行も反対だったの。亮はまだ小さいし、ミルクやオムツだってかさばるし」

「じゃあ最初からそう言えば……」


 ムッとした目つきで良樹が反論しかけるのを、千賀子は手で制した。


「それでもここに来たのは、こうでもしないと良樹さんと二人で話をする時間なんて取れないからよ」


 千賀子はナッツの袋を開け、小皿に広げた。どうぞ、と皿を良樹に差し出し、千賀子はピーナッツを一つ摘んだ。


「それに、はっきり言わないときっと気づいてくれないから。雰囲気で察して、なんて……私も甘えてたのね、良樹さんに。言葉にして言わなきゃ分かるわけないのに」


 良樹も千賀子に促され、缶ビールの蓋を開けた。心地よい炭酸が、喉を突き抜けていく。


「俺は……ずっと孤独だった。千賀子と亮の間に入っていけなくて、俺なんていてもいなくても同じなのかもしれない……そう思ってた」


 ザァと波の音が聞こえる。寄せる波の音は、返す波のそれと共振し、振幅を増した。


「二人のために働いていたのに、いつの間にか自分一人になってしまってた。家に居場所がなくて、家にいたくなくて……そして、俺は二人から逃げ出したんだ」


 良樹の独白を聞き、千賀子は目を伏せた。


「良樹さんって、いつもそう。自分の思い込みで突き進むの。一方的な厚意の押し売りに、私はいつも辟易してた。あなたを除け者にしたつもりなんかなかったのよ。けれども……良樹さんを追い詰めて、そう思わせてしまったのは私ね。冷たい態度であしらって、二人で育児をしようとしなかったのは良樹さんじゃない……私の方だったのね」


 千賀子は良樹の顔を、久方ぶりに見た思いだった。心なしか、痩けた気がする。同じ家で暮らす家族なのに、こうまでも夫の変化を見過ごしていたことに愕然とした。


「あなたは私を理解しようとしてくれたわ。初めての育児に奮闘している私を支えてくれようとした。でも、私の話を聞いてくれたことなんて一度もなかった」


 良樹は俯向くことなく、千賀子の瞳を見つめ返した。妻の言葉が心に突き刺さる。それは今まで、千賀子の声に耳を傾けてこなかったことの、何よりの証拠だった。


「あなたの亮への関わり方が中途半端な気がしてならなくて、どうしようもなく苛々してたの。言えばよかったのね……こうして欲しいんだって。そうすれば、きちんと伝わったのに。ごめんなさい……良樹さん」

「いや、俺の方こそ……。全部分かったつもりになって、千賀子を傷つけてた。それが千賀子を苦しめていたことにも気づかないで、妻を支えているだなんて自惚れていたんだ。ごめん、本当に」


 ずっと言いたくて言えなかった謝罪の言葉を、二人は口にした。互いの思いを噛みしめ、そしてゆっくりと消化する。

 長いような、短いような──沈黙が続いた。



 良樹は妻のことを思った。

 命がけの出産と慣れない育児に追い詰められ、心の余裕を失ってしまった彼女。

 玲には未練はない。未来を紡いでいく相手は千賀子と亮以外ではあり得ないと、今更ながら思えたのだ。千賀子と以前のような関係に戻ることは不可能だろう。それでも、亮を交えて、新たな関係を構築していくことはできるはずだ。

 玲との関係を洗いざらい打ち明けるべきかどうか、最後まで良樹は迷った。けれども、千賀子を目の前にして、言うべきではないと思い至った。

 臆病なのかもしれない。明かした後の千賀子の反応を想像することも恐ろしい。ただ、それ以上に再出発しようとしている二人の間に、敢えて溝を作るようなことをしたくなかった。

 千賀子は気づいているのだろうか。気づいていたとして、彼女も敢えて黙っているのだとしたら──それは裏切りに対する罰であり、家族関係をやり直すための最後のチャンスを与えられたということなのだろう。


『分からないことに悩まないで。でも……分かり合える部分は二人でちゃぁんと共有して』


 きっとこれからも互いを理解できず、思い悩む日も来ることだろう。それを苦しみと捉えるか、あるいはそういう考え方もあるのだと、一歩下がって見つめるか。

 彼女のすべてとは言わない。ほんの一部でも共に有ることを望みたい。

 今度こそ、やり直そう。

 良樹は海を眺める妻を見つめ、心の中で誓いを立てた。



 千賀子は夫のことを思った。

 孤独に苛まれ、別の女性と関係を持ってしまった彼。

 今この瞬間、夫と向き合うまで、千賀子はずっと考えていた。夫の不貞を暴くべきか否か。許すつもりは毛頭なかった。それは千賀子と亮に対する裏切り行為であり、自分に一因があったとしても、仕方ないという言葉で済ませられるものではないからだ。

 しかし、彼女は敢えて、知らない振りをすることに決めた。

 おそらく、彼は相手の女性と会うことはないだろう。あのメールの冒頭文から、別れを切り出されたことはなんとなく察することができたし、今の良樹の態度から確信できた。

 甘いと、泣き寝入りするのかと、そう言われるかもしれない。だが、そうではないのだ。


『戦って、向き合って、足掻いて……それでも無理だと思ったなら、胸を張って逃げなさい』


 自分は良樹と向き合ってすらいなかった。自分にはまだ逃げる資格などないのだ。

 良樹そのものを見つめ、亮と三人で手を繋いでいく。それが千賀子の理想の家族の形であり、いずれ現実にしたい未来の形だった。

 夫婦として時にぶつかり、時に理解し合う。そのためには、思いを叫ばなければいけないのだ。

 本当の、家族になりたい。

 千賀子は窓の外に広がる冷たい海を見つめ、椅子の肘掛を強く握った。



 ─了─

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