見知らぬ土地と紅い戦士
まぁ、じつのところ、大妙寺晶だけなら、非常に深刻な局面だっただろう。
しかし、皇女と、漆黒の戦士がいるおかげで、どこか安心しているところがあった。
まずは、セーラ皇女に《交代》して転移魔法の痕跡を辿り、魔物を含む敵意ある相手と出くわしたら、ダークに代われば良い。
……と、思ったのが浅はかだった。
交代した《魔の皇女》の魔力感覚を以てしても、守護の人形遣いが操った転移魔法の痕跡は全くわからなかった。
さすがは、半ば伝説となっている魔道士である、などと感心している場合ではない。
食料を含む大半の荷物は馬に載せており、ぼくの持っていた荷物袋――デザイン的にはボストンバッグのような形状なので、以降バッグと呼ぶ事にするが、このバッグには、水筒、着替えが一着分、そして、魔戦器しか無い。
セーラ皇女の知識にはサバイバル技術の類は含まれていないので、このままでは空腹で動けなくなってしまう。
しばらく、ここに止まって居れば、サーシャさん当たりが駆けつけてくれるかもしれない。迷子になった時は迂闊に動くのも考えものだ。
一方で、この場に止まるリスクもある。
魔物ほどではないが、野生の獣は旅人にとって脅威でもある。少なくとも、武装した集団ならともかく、単独でうろついている人間は獲物と見なされてしまう。
セーラ皇女の知識によると、この地域に生息する、その昔に龍と間違われた蜥蜴の一種や、炎狼などは、ゴブリンのような下級の魔物よりも危険な存在だ。
ダークに《交代》する事で対応は可能であるが、逆にダークではオーバーキルとも言える。顕在に時間制限のあるダークの貴重な時間を費やすのも考え物だ。
おおよそのダークの顕在時間は一日当たりに半刻程度が限界で、連続しての顕在化は無理だった。この異世界がそれを許さないのだ。
そうして、各々のメリットとデメリットを考えた末に、身体能力と魔力に優れたセーラ皇女のままで、この場所から移動した方が良いと言う結論に達した。
地図自体はセーラ皇女が覚えているので、一度、今までの道を戻るのが確実だ。
薬師のおばさんが少し言っていたが、ぼくらが道に迷ったのは、守護の人形遣いの仕業である可能性が高い。
幻惑の魔法か結界か何かで、道を違えていると考えられる。
そうすると、アゾナを中心に、一日旅程の範囲でそうした結界魔法を張っている事になるのだが、おそらくは、単独の魔法では無く、魔道具を一帯に仕込んでいると考えた方がよさそうだ。
以前に、ぼくがイズミットの召喚魔道士をおびき出した手法と、ほぼ同様だろう。
あの時は、魔法を阻害する魔石を使ったが、今度は感覚を惑わす魔道具を使われたと見るべきだ。セーラ皇女の意識は、そう結論づけた。
そして、あの魔道人形は、ぼく以外の人々の魔力を察知して現れた公算が高い。
ぼく自身に魔力があれば、それを指標にできるのだろう。
しかし、感覚を惑わす結界が無くても、明確な目印無しで、同じ場所を見つける事は伝説の魔道士と言えども難しいだろう。
周囲一帯の地形を詳細に知っているのならともかく、例えば、広大な森の中で目印も無い場所を再び見つけられるかどうかを考えてみれば良い。大妙寺晶のままで、この位置にとどまって、見つけてもらう可能性が低いと判断したのは、これが最大の理由だ。
従って、一度、確かな位置まで戻り、慎重に探知しながら進めば、宿場町までたどり着けるだろう。《魔の皇女》は直接的な魔法こそ劣るものの、元々の魔力自体はサーシャさん以上であり、補助系や探知能力はソルタニア聖皇国で随一の才能を持っているのだから、伝説の魔道士と言えども、その感覚を欺くのは難しい筈だ。
野生の獣に遭遇しても、身体強化の魔法で逃げきれる。
と、言うわけで、バッグを手にした美しい少女が、たった一人で、無法地帯を歩いている状況となった。
大妙寺晶の服装では胸とお尻がかなり窮屈で咄嗟の動作に支障が有ることと、何より、大事な部分がすれて痛いので、セーラ皇女に交代した時の為に用意した衣類に着替えている。
以前、魔道騎士団の閲兵式に参加した時に、セーラ皇女の意識に少し羨ましそうな感情があったので、魔道騎士団の制服を一着入手していたのだ。
もっとも、高価な魔法布の下履きまでは入手できなかった。
また、乳房を押さえる胸当ても、男のぼくには気が回らなかった。
従って、現在の皇女の格好は、元の世界の感覚で言うと、ノーブラ、ノーパンなセーラー服と言うのが一番近い姿である。
上の方は胸のサイズが少し合っていない為、ぱっつんぱっつんで、おへそが丸見えだし、下のスカートは元々短めのデザインなので、少しでも強い風が吹くとモロに見えてしまいそうになるが、全裸よりはマシだし、人目が無いと言うことで、セーラ皇女は妥協しているようだ。
ともあれ、今まで歩いて来た道を回れ右して進むことにした。
感覚を惑わす魔道具が発動しているとすると、元の場所に戻れるかどうかもわからないので、先ほど結晶化させた、その類の魔法を抑止する魔石を手にしている。
参加していた冒険者のパーティーが――厳密にはサーシャさんと薬師のおばさんが地図と現在位置の一致を確認したのが、一刻半前なので、そのくらいの距離を戻る事を目安に歩いていると、不意に、少し離れた場所に膨大な魔力を感じた。
この魔力波動には覚えがある。
――召喚魔法だ!
ぼくは、そちらの方に、慎重に歩を進めて行った。
その魔物が何と呼ばれるものかは、セーラ皇女の知識にはなかった。
この地方に元々生息する、龍のような蜥蜴の群を、強力な四肢で次々と粉砕している《それ》は、真紅の鎧のような形状の体躯で、頭部はバイザーのような感じだった。
そして、背には巨大なサイズの剣がある。
セーラ皇女が持っていた元々の知識には無いが、ぼくは《それ》を知っていた。
黒と紅の色違いではあるが、「ダーク」と名付けた、もう一人のぼくとそっくりな存在が、そこに居たのだ。
紅い戦士がこちらを見たような気がしたので、慌てて身を伏せた。
四つん這いのような格好になったので、誰かに後ろから見られたら非常に困るような状況だったが、そんな事は言っていられない。
最悪、ダークに入れ替わる事も考えたが、非常に謎が多い相手なので、慎重に対応する必要がある。
元々、黒い戦士の事だって、ぼくもセーラ皇女もよく分かっていない。
じつのところ、ダーク自身も、自分が何者でどのような世界から来たのかがわかっていないようだった。
何かしらの任務があるような記憶の名残があったようだが、入れ替わった時点で、ぼくや、セーラ皇女の記憶、知識がそれを上書きしてしまったような感じだった。
してみると、ダークの記憶容量は、人間のそれよりも、もっと小さいと言えるだろう。
なので、ぼくはダークの躰を使ってはいるが、その能力を十分に引き出しているとは言い難い。
あの紅い戦士が、どのような事情で、この異世界に顕在化しているかは不明だが、ドラゴンを撃退するような存在と同型の者に軽々しく相対するような真似は避けるべきだろう。
何よりも、あの紅い戦士のメインウェポンである巨大な剣は、見た限りでは少しの損傷も無い。
これだけでも、ぼくのダークにとってはハンデがあると考えても良いだろう。
蜥蜴の群を一掃した紅い戦士は、その場に留まって、少し首を傾げているような風情だった。まるで、何者かの指示を聞いているかのようだ。
やがて、紅い戦士にも、ダークと同様なタイムリミットが訪れたらしい。
魔法陣が展開し、紅い戦士は、その中に姿を消した。
しばらくして、安全を確認したぼくは、紅い戦士が居た周囲を調べたが、蜥蜴の残骸以外に《あれ》を召喚した魔道士、もしくは、その痕跡すら見つける事はできなかった。