苺味の傷跡
涼介はハンドルを切り、新宿通りへと車を進めた。ラッシュアワーが始まり交通量が増える中、街路樹の向こうに高層オフィスビルが姿を現す。
涼介は助手席側のダッシュボードを開け、名刺を一枚取り出して差し出した。
「僕の名刺です。先ほどの件、考え直す気になったら連絡してください」
キラは名刺を見つめ、反射的に両手で受け取った。まだあの奇妙な「好都合」理論にこだわっているのだろうか。
涼介は足元に手を伸ばし、小さな紙袋を拾い上げて渡してきた。
「ついでに、これをヨシに渡していただけますか」
キラは首を傾げながら受け取った。「これは何ですか?」
「目に効く高濃度のサプリです」涼介は簡潔に答えた。
目のサプリ。一日中パソコンに向かっているヨシにはぴったりだ。自分も一瓶欲しいくらいだった。車は路肩に寄り、オフィス街へ入る手前で停車した。涼介がこちらを向く。
「オフィス街に着きました。この時間帯は一般車両の進入が制限されているので、ここからは歩いて行ってください」
キラは勢いよく頷いた。「あ、大丈夫です! 送っていただきありがとうございました、涼介さん!」
涼介は軽く会釈し、アクセルを踏み込んだ。
キラは両頬を軽く叩いて気合いを入れ直すと、紙袋を手に会社近くの駐車場へ向かった。そこにはすでに七人乗りのワンボックスカーが停まっていた。今日の千葉日帰りロケに参加するメンバー全員が集まっている。
中村タケシはボンネットに寄りかかり、ホットの缶コーヒーを手にカメラバッグを肩にかけ、リンとケンジの話に時折頷いていた。彼はチーフカメラマンで、四十代半ば、がっしりした体格にたくわえた髭、束ねた長髪が渋い雰囲気を醸し出している。キラが彼と一緒に仕事をするのはこれが初めてだった。少し離れた場所では、ダイキがスマホで香盤表を確認しており、遠くの彼女に気づいて手を振った。ヨシは一瞬視線を向けたものの、すぐに逸らした。
「皆さん、おはようございます! ギリギリになってしまってすみません」キラが声をかけた。
リンは笑顔で手を振り、時間に間に合っているから大丈夫だと返した。タケシはコーヒーを飲み干し、一同に合図を送る。「全員揃ったな。出発しよう」
全員が車に乗り込む隙を見計らい、キラはヨシに歩み寄って紙袋を差し出した。
「ヨシさん、涼介さんからこれを預かりました」
涼介の名を聞き、ヨシは少し意外そうな表情を浮かべて紙袋を受け取った。
「ありがとう。手間をかけさせたな」
大柄なタケシが助手席に座り、後部座席にはダイキとケンジが落ち着いた。リンは通路側の席へ。残るは中央の二席……ヨシはドアを押さえ、キラに先に乗るよう促した。リンは自分のバッグを持ち上げてスペースを空け、キラに申し訳なさそうに声をかける。
「三人掛けで少し窮屈だけど、我慢してね、キラちゃん」
「あ、全然平気です」キラはシートベルトを締め、隣のヨシの肩に触れないよう背筋を伸ばして座った。
車は新宿を離れて走り出した。後部座席ではダイキとケンジが昨夜のサッカーの試合について小声で語り合っている。リンは昨晩夜更かしをしたのか、あくびを噛み殺しながらアイマスクと耳栓を装着し、ネックピローに頭を預けた。「少し仮眠を取るね」。キラは頷いた。この席で一時間半近く過ごすとなると、手持ち無駄で仕方がない。不意にスマホが震え、画面を開いた。『うざいフグ』。顔を上げると、ヨシがじっとこちらを見つめていた。しまった。スマホに登録した名前を見られたのだ。
キラはリンの方へ体を少し傾け、メッセージを開いた。
うざいフグ:さっき、涼介に何か言われたか?
キラ:別に何も。
キラ:あ、実はありました。
キラ:涼介さんから彼女になってくれって頼まれました。
ヨシが突如激しくむせ込み、車内の全員を驚かせた。タケシが助手席から振り返る。
「ヨシ主任、風邪か? のど飴いるか? 持ってるぞ」
ヨシは手で制して大丈夫だと伝え、マスクを着用すると、キラを一瞥してからスマホへ視線を戻した。
うざいフグ:それで、何て答えたんだ?
キラは小さく笑みを浮かべた。ヨシはこの件に興味があるらしい。それなら……。
キラ:涼介さんはお金持ちでイケメンですし。考える価値はありますよね? 承諾しちゃいましょうか?
うざいフグ:好きにしろ。
好きにしろ、とはどういうつもりだろう。キラはヨシを睨みつけ、視線が真っ向からぶつかり合った。いきなり質問しておいて、そんな素っ気ない返事をするなんて。キラはヨシに渡した紙袋の中に、涼介の名刺が入ったままだったことを思い出した。彼女は声を潜めて呟いた。
「ヨシさん、さっきの袋から涼介さんの名刺を返してもらえませんか?」
ヨシは聞こえないふりを決め込み、前方に視線を向けたまま返事もしない。
キラは息を吸い込み、身を乗り出して袖を引っ張って返してもらおうとした。しかし動いた瞬間、ヨシはゆっくりとスマホを取り出して返信を打ち込んだ。キラの画面が点灯する。
うざいフグ:勤務時間中の私用は禁止だ。
私用……キラは目を見開き、眉を寄せてヨシを睨みつけた。先に言い出したのはどちらなのか。再びスマホが震えた。
うざいフグ:だいたい、何だその登録名は。僕のどこがフグに似ているんだ。
キラ:私のスマホなんですから私の自由です!
うざいフグ:君は試用期間中だ。勤務態度を評価する権利が僕にはある。
キラ:職権乱用です! それに拗ねている時の顔を見てみてください、頬を膨らませて完全にフグそのものですよ。
うざいフグ:拗ねてなどいない。
キラ:拗ねてます! 突然『好きにしろ』なんて突き放して、人の名刺を隠すなんて。子供じみた真似はやめてください。
うざいフグ:涼介は会う人全員にああ言っているだけだ。真に受けるな。
キラ:少なくとも涼介さんは優しいです。誰かさんみたいにいつも不機嫌で、部下に当たり散らしたりしません。
うざいフグ:いつ僕が君に当たり散らした?
キラ:今です! 早く名刺を返してください。
うざいフグ:断る。そのままにしておけ。僕が捨ててやる。
キラ:ヨシさん!!
ヨシはバッグのファスナーを開け、名刺を取り出した。キラは返してくれるのかと期待したが、彼は何食わぬ顔で手を伸ばし、運転席の後ろに提げられたビニールゴミ袋の中へそのまま落とした。
本気で言っているのか。キラが身を乗り出し、ゴミ袋から名刺を拾い上げようとしたその瞬間、車が前方の車両を追い越すため急ハンドルを切った。急な揺れにバランスを崩し、キラは隣のヨシの膝の上へと転がり落ちた。
彼の手がとっさに彼女を抱きとめる。その手が、胸のすぐ下あたりを強く掴んでいた。胸の下……よりによってその位置……一体どこを触っているのか。
「キラ先輩、大丈夫ですか?!」後部座席からダイキが声を上げた。
顔から火が出るほど赤くなったキラは慌てて体を起こし、振り返りながら答えた。「あ、いえ、大丈夫! ちょっとバランスを崩しただけで……」
「キラ……君……」ヨシが彼女を見つめ、声に微かな焦りをにじませた。
口の中に広がるこの塩気は何だろう。
「うわあああ! 先輩! 唇から血が出てますよ!」ダイキが叫んだ。
隣でリンが飛び起きた。車内が騒然となり、運転手が何度も頭を下げて謝罪する。ヨシは素早くハンカチを彼女の唇に当てると、声を落として顔を寄せた。
「口元を見せてみろ」
キラは呆然としていたが、反応する間もなく、ヨシの手が顎をそっと持ち上げた。彼の指先が傷口を確認するため下唇を軽く押し下げる。
「下唇が少し切れただけだ、傷は深くない」ヨシは小さく息を吐き、眼差しを和らげた。「ハンカチでしばらく押さえておけば血は止まる」
助手席のタケシが振り返り、運転手に尋ねた。「運転手さん、この近くに道の駅はありますか? まだ時間に余裕がありますし、少し休憩してキラさんの手当てをしましょう」
「ええ、ここから十五分ほどの場所にありますよ」
車内の全員の視線が集中する中、キラは気まずさに耐えかねてヨシの手を顎からそっと押し退けた。
「私……平気ですから」
ヨシも二人の間の微妙な空気に気づいたのか、咳払いをして十五分ほど休憩を取ると手短に告げた。傷口の腫れを防ぐために冷やした方がいいかもしれない。
キラは激しく首を横に振った。「アイスクリームで十分です! 冷たくて美味しいですし、保冷剤なんていりません」
車は道の駅の駐車場へと滑り込んだ。外へ出るなり、キラは両腕を伸ばして爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。直売所の入り口正面には木製の棚が置かれ、青々とした苗木や色鮮やかなヒヤシンスの鉢植えが並んでいる。その脇の通路にはオレンジ色のプラスチックコンテナが積まれ、みずみずしい長ネギの束がぎっしりと詰められていた。キラは力強い漢字が並ぶ紫色の看板に目を留めた。小声で読もうと呟いていると、背後に立ったヨシが囁いた。「『新鮮市場』だ」
一行はそれぞれ散らばった。タケシとダイキは屋外の野菜売り場に足を止め、リンとケンジはお手洗いを済ませるためまっすぐ館内へ向かった。広々とした店内は温かみのある照明に照らされ、地元の特産品や伝統的な発酵食品が並ぶ棚が整然と並んでいる。ヨシは彼女に付き添い、色鮮やかなイチゴやキウイの並ぶコーナーを通り抜けてソフトクリーム売り場へと歩いた。
「傷口、痛むか?」ヨシが唇に視線を落としたまま静かに尋ね、キラの胸をざわつかせる。
「少しヒリヒリするくらいです」気まずい空気を紛らわせようと、果物売り場に目を向けながら打撲痕に指を触れた。
「糖分の多いアイスを食べたら傷にしみるぞ。何の気休めにもならない。意地を張るな」ヨシは彼女を一瞥し、握りこぶしに小さく咳払いを落とした。
「平気です。アイスは思っている以上に効き目があるんですよ」キラは強がって見せるようにぎこちない笑みを返した。
「なら、冷えが保てるようにアイスを唇に当てておけ。そうしないとタラコ唇に腫れ上がるぞ」ヨシはからかうように口元を緩めた。
「タラコ唇?」彼女は目を細め、どんな奇妙な生き物なのかと首を傾げた。スマホで『タラコ唇』を検索し、勢いよくヨシを振り返る。あんな腫れぼったい唇の魚に例えるなんて!
「バニラとイチゴがあるが、どっちにする?」ヨシはキラの反応に気づかないふりを装ったが、浮かべた笑みを隠しきれていなかった。
キラは鼻を鳴らし、目の前の売り場へと視線を向けた。
「イチゴで。みんなの分もミックスで頼めますか?」
少しして、キラはできたてのソフトクリームを載せたトレイを抱え、ヨシの隣を歩いてみんなの元へと戻った。タケシは緑色のカボチャやキャベツ、レタスが山積みになった野菜売り場を楽しそうにカメラに収めていた。ダイキは自分の背丈ほどもある白ネギの束を抱え、プロの動画配信者のようなポーズを決めている。
「もう撮影を始めているんですか?」キラが声をかけた。ダイキは手を伸ばして彼女を引き寄せ、カメラの前に紹介した。
「こちらがキラ・レイノルズさんです! 千葉の田舎の直売所に初めて足を踏み入れた感想を聞いてみましょう」
キラは吹き出し、コーンをダイキの手に押し付けた。その間にヨシが残りのスタッフへアイスを配っていく。タケシはカメラをバッグに収め、ヨシからコーンを受け取った。
「機材のテストを兼ねてな。ここは見通しが良くて開放的だ。来るのはずいぶん久しぶりだよ」
近くにいたリンがアイスを一口頬張り、目を輝かせた。
「このアイデア、すごくいいかも。後でメイキングをこんな風に撮りましょうよ。キラちゃんは一目で外国人観光客って分かるし、メインのゲストはテレビ局が押さえているから、普通の裏側映像じゃつまらないわ。キラちゃんとダイキ君でVlog風に撮ってみるのはどう?」
キラは数秒間固まった。「リンさん、本気ですか?」
タケシも頷いた。「いいと思うぞ。今から始めてもいいくらいだ。産直市場の紹介もいいアクセントになる」
ダイキが歓声を上げた。「だったら、この後の移動はレンタサイクルにしましょう! 観光客は普通、公共交通機関で来ますからね。直売所のすぐ隣に観光案内所とレンタサイクルがあるんです。この晴天ですし、田園風景を自転車で走るVlogなんて最高じゃないですか!」
キラの目が輝いた。ダイキがこんなに面白い企画を思いつくなんて。
ソフトクリームを舐めながら、ヨシが怪訝そうに眉を上げた。「自転車移動で本隊の集合に遅れたらどうするんだ」
ケンジが手を振って懸念を打ち消した。「ここからまちづくり交流拠点までは二キロほどですよ。電動アシスト自転車なら、車でゆっくり走るのと大差ありません。僕も乗ってみたいですね、風を感じるのも久しぶりですし」
「じゃあタケシさんは運転手さんと先に車で向かって、みんなの到着シーンを撮ってもらうということでいいかしら?」リンは空になったアイスのカップをゴミ箱へ捨てるタケシに向き直りながら、メモ帳にペンを走らせた。
「若者たちがみんな自転車で、俺だけ車に逆戻りか?」タケシは苦笑いした。
「作品のための犠牲ですよ、タケシさん」リンはおどけてウインクした。「ヨシ主任は自転車にしますか? それともタケシさんと車ですか?」
「全員が漕ぐなら、僕も自転車にする」ヨシが答えた。彼もこの提案を気に入ったようだ。
キラの気分は一気に高揚し、舌の上でとろけるイチゴアイスを堪能した。唇の傷口はかすかに痛むものの、痛みは引いていた。「ここのソフトクリーム、本当に美味しい! ミルクのコクが濃厚なのに後味がすっきりしています」
「千葉県は酪農が盛んだからね」ケンジが言葉を添えた。「もっと贅沢にいくなら、地酒の酒粕を使ったロールケーキと一緒に食べるのがおすすめだよ」
キラが顔を上げると、背後の観光案内マップの前に特徴的な緑色の像が立っているのが目に入った。彼女は興味津々で尋ねた。
「あのキャラクターは何ですか?」
ヨシが振り返り、口を開きかけた。「ああ、あれは――」
「なんじゃもんです!」ダイキが興奮気味に割り込んだ。「後で撮影に行く神崎神社の、樹齢二千年のクスノキをモチーフにしたマスコットキャラクターですよ! 名前の由来は、昔の人が見慣れない巨木を見て『なんじゃこの木は?』と驚いたことからきてるんです。胸元には『こうじ』と書かれた徳利を抱えていて、この町の伝統的な発酵文化と名物の日本酒を表してるんです。後ろについてる小さな杉玉も、酒蔵の伝統的なシンボルなんですよ!」
ヨシがダイキに鋭い眼光を向けるのを、キラは見逃さなかった。後輩は気まずそうに頭を掻き、キラの背後へと隠れる。
「すごく可愛いですね。動画のテロップに入れましょう」キラは写真を撮りながら言った。「あっちにある二つの巨大な木樽は何ですか?」
タケシが笑顔で説明した。
「あれは伝統的な醸造用の木桶だ。この地域は醤油や日本酒などの発酵食品で栄えた場所だから、そのシンボルとして入り口に古い木桶を据えてあるんだよ」
「なるほど……」
「うわあ、屋根の上に飛行機までありますよ!」ダイキが庇の上を指差して声を上げた。そこには赤と白のプロペラ機が堂々と展示されていた。
「どうしてここに飛行機があるんですか?」キラが尋ねた。
「ここは成田国際空港から車で十五分ほどの場所だからね」ケンジが隣に歩み寄り、のんびりと機体を見上げた。「このあたりは利根川沿いの遊覧飛行でも親しまれているから、引退した機体を写真スポットとして設置したんだよ」
みんなが楽しそうに語り合う様子を見て、キラはスマホを取り出し、手招きした。
「皆さん、一緒に集合写真を撮りましょう! なんじゃもんの前で!」
全員が彼女の周りに集まった。ヨシがすぐ隣に歩み寄ってくる気配を感じる。
「いきますよー。いち、に、さん!」
キラはシャッターを切った。画面の中のヨシは相変わらず仏頂面で落ち着き払っている。タケシとダイキは飛行機を指差し、ケンジとリンは穏やかに微笑んでいた。カメラの一番近くにいるキラの顔が最も大きく写り、唇の端に微かな赤みが覗いている。それでも、今日は間違いなく最高の晴天だった。
そういえば、先日ヨシと一緒に撮った写真はどこへ行ってしまったのだろう。
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