5話 魂の1テイク
夜の静寂が支配する自室。
鏡台ドレッサーの前に座り、亜紀はただ、冷たいガラス越しに自分の顔を見つめていた。
そこには泣き止んだばかりの、年ごろの少女が映っている。
何故?
視線を落とす。
磨き上げられた大理石の天板の上には、二つのものが並んで置かれていた。
一つは、無機質な光を放つスマートフォン。
もう一つは、彼から無言で押し付けられた、傷だらけで安っぽいプラスチックのUSBメモリ。
『ブルッ……』
短い振動音と共に、スマホの画面が明るく点灯した。
ディスプレイに浮かび上がるのは、部活の一年生たちからの
謝罪や、父親からの予定確認のメッセージ。
それらはすべて、彼女を維持するための、正しき言葉たちだ。
亜紀の細い指先が、ゆっくりと持ち上がる。
光る画面に触れれば、またあの冷たい世界に戻ることができる。
周囲の期待に応え、ノイズのない「正解」だけの約束された日常へ。
だが。
彼女の視線は、隣に転がる無骨なUSBメモリから離れなかった。
高級な品ばかりが並ぶこの部屋で、その黒い小さな塊だけが、ひどく異物だった。
指先で、そっと表面を撫でる。
ただの冷たいプラスチックのはずなのに、あの埃っぽい部室の匂いや、不器用で乱暴な彼の体温がまだ貼り付いているような気がした。
(見てられなかった)
突き放すような、けれど誰よりも真っ直ぐに自分を見ていた彼の声が、耳の奥で蘇る。
亜紀は、小さく、震える息を吸い込んだ。
引き戻そうとする激しい衝突を抑えようと、音楽会のステージに立つ前のように、ただ。
震える両手を一度ぎゅっと握った。
そして、明滅を続けて彼女を呼ぶスマートフォンの光を無視して――迷いのない手つきで、安っぽいUSBメモリを力強く掴み取った。
傍らにあったノートパソコンを開き、スロットに乱暴に差し込む。
ヘッドフォンを両耳に当て、
たった一つだけの音声ファイルをクリックした。
雑音
「えっと」
「とれてるかな」
「歌え」
兄貴分の声が響く
「せかすなよ」
キン
置かれるグラスの音 ハウリングするアンプ音。
「今ライブの後、地下で録ってる。」
「俺また、み みな コホン」
ヒュー (いいぞ)
「亜紀に、聴いて」
頭の奥が痺れるようなギターの低いハウリングが
冷やかしや拍手を一閃した。
静寂。
――次の瞬間、
痛々しいほど生々しい彼の『叫び』が、鼓膜を殴りつけた。
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暗闇を背に歩く
僕は、日常に帰らない あの日から舞台の
君と光に
そして出会った
二人の道で交差したのは、気持ちだけ
形は消えコンクリートを踏む車
どうして君は遠い
完璧な世界から きた君の音は
だけど すごくさびしい音
時計の針が進む 戻れない
あの光には 血だらけで転がる
叫び続けよう
野良犬のように 歌うよ どうして今日だって
世界を変えられず地下で
ただ歌う
君を想い この歌を
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『……もう一回やるか?』
『いや、これでいい』
* ブツッ、
パササア
現実の激しい雨の音。
亜紀はしばらく放心したように動けない。
しかし画面に伏せたその瞳に徐々に光が宿る。
リプレイを押し
ぱっと立ち上がる。
(この音をすぐ乗せたい)
手で清らかに。
ピアノの白い鍵盤をゆっくりと1音押した。
その音は、雨の音と混ざって、静かに部屋の中へ広がっていった。
━終━
『野良犬』を最後まで見届けていただき、本当にありがとうございました。
地下の暗闇で血を吐きながらマイクを握り、あのリフを刻んだ兄貴分。
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笑いと哀愁のエピソード・ゼロ。
ピアノの一音を響かせた亜紀たちの世界の13年前にある。
もう一つのノイズの発生ログを、ぜひ覗きにきてください。毎日18時に更新中です。
➡️ 外伝 https://ncode.syosetu.com/n3050mi/




