第23話 合理な契約の終着点 ——合理主義令嬢、冷徹宰相の独占欲に陥落する
嵐のような騒乱が過ぎ去り、教会の地下に漂っていた不快な薬の匂いは、冷徹な法と軍靴の響きによってかき消された。
しかし、これがすべての終わりではない。
人身売買のネットワークは教会の深層に根を張り、不正な寄進の記録は貴族社会の醜聞へと繋がっている。
私とユリウスの戦いは、ようやくその入り口に立ったに過ぎなかった。
「……顔色が悪いな」
宰相府へ向かう馬車のなか、ユリウスが私の手を取った。
「不合理な環境に長時間置かれた反動でしょう。計算外の疲労です」
「そうか。ならばその疲労のすべてを、俺に預けろ」
彼は私の手を引くと、その指先に静かに唇を落とした。
救出直後の荒々しい独占欲は、今は深い慈しみへと形を変えている。
だが、その瞳の奥に揺らめく光は、以前よりもずっと濃く、逃げ場のない熱を帯びていた。
数日後。保護されていた「本物の令嬢」との面会が叶った。
エルミーネ嬢。親に売られ、心を殺され、地下に閉じ込められていた少女。
彼女は、日当たりの良い療養所で、震える手で茶菓子を口にしていた。
「……ありがとうございます。私を、見つけてくださって」
消え入りそうな声。
彼女の瞳にはまだ怯えが残っているが、それでも絶望の底から這い上がろうとする意思の光があった。
「……怖かったですね。
もう、大丈夫ですよ」
その言葉に 彼女は一瞬だけ目を見開いた。
そして 次の瞬間 堰を切ったように涙をこぼした。
彼女を抱き締めながら 私ははっきりと理解していた。
彼女を救ったことで 前世で代わりはいくらでもあると扱われた自分自身も また一緒に救われたのだと。
その後、エルミーネ嬢は信頼できる親戚のもとで静養することが決まった。
教会の不正を暴くための重要証人として、彼女の存在は大きな武器となるだろう。
ユリウスは冷徹に、そして迅速に、彼女の安全を保障しつつ、敵を追い詰めるための布石を打ち続けていた。
そして、その夜。
宰相府のそばにあるユリウスの私邸で、私は一人、鏡の前に立っていた。
入ってきたのは、上着を脱ぎ、シャツの襟元を寛がせたユリウスだった。
「……リーゼロッテ。まだ起きていたのか」
「未処理の案件が多すぎて、眠気が来ないのです」
「嘘をつけ。君の目は、別の答えを探している」
彼は迷いのない足取りで私との距離を詰め、背後から鏡越しに私を捉えた。
大きな手が、私の肩に置かれる。その瞬間、私の身体が微かに強張った。
教会で死を覚悟したときですら失わなかった冷静さが、今、この男の体温を感じただけで、砂の城のように崩れていく。
「……怖いか?」
低い声が、耳元で熱を帯びて響く。
「それとも……まだ、男としての誇りが君を邪魔しているのか?」
心臓を貫かれたような衝撃だった。
鏡の中の私は、ひどく狼狽している。
そうだ。中身が男だという自覚が、これまで私の最強の盾だった。恋に浮かれず、感情に流されず、常に合理的な判断を下すための。
けれど今、目の前の男に触れられているのは、紛れもなく女であるこの身体だ。
「……っ、そんな非合理な自尊心、とっくに捨てたはずです」
「なら、なぜそんなに震えている。俺に触れられることを、本能が拒んでいるのか?」
違う。拒んでいるのではない。その逆だ。
彼の指先が私の首筋から鎖骨へと滑り落ちるたび、頭の奥が痺れ、まともな思考が霧散していく。
この「自分を保てなくなる恐怖」に、私は怯えていたのだ。
「俺を、見てくれ」
強引に肩を回され、彼と正面から向き合う。
そこには、これまで見たことのないほど、剥き出しの飢餓感を湛えたユリウスがいた。
「前世の君が誰であろうと、男であろうと関係ない。
今、俺の目の前で呼吸し、私の心臓を狂わせているのは、君という唯一の存在だ。
……君のすべてを、俺で塗りつぶしたい」
逃げ場はなかった。
彼の瞳に映る自分を見つめているうちに、最後に残っていた「俺」という残滓が、甘く溶けて消えていくのを感じた。
「……ユリウス、貴方は本当に……最悪の交渉相手です」
私は震える手で彼のシャツの胸元を掴み、自分からその唇に縋り付いた。
深い、深い口づけ。
理性という名の防波堤が、激しい愛着の濁流に飲み込まれていく。
彼の手が私の背に回され、ドレスの紐が音もなく解かれた。
「不平等条約だと……言ったでしょう。
貴方に、これ以上踏み込まれたら……私はもう、戻れない」
「戻る必要などない。二人で新しい規約を作ればいい」
天蓋の帳が下ろされ、月の光が遮られる。
暗闇の中で肌を合わせる。
彼の熱い体温、荒い呼吸、私を求める切実な腕の力。
それらすべてが、どんな完璧な論理よりも強く、私が「生きている」ことを証明していた。
前世の俺なら、こんな非合理な夜は鼻で笑っただろう。
けれど今、この男の腕の中で溶けていく私は、この「バグ」こそが人生で最も守るべき価値であると知っている。
夜が明ければ、また新たな戦いが始まる。やるべきことは山積みだ。
だが、今はただ、重なり合う鼓動の熱だけが真実だった。
「……リーゼロッテ。愛している。君を、決して離さない」
「……ええ。私も、貴方の隣が、一番心地よい現場ですから」
私たちは、夜が明けるまで何度も「愛」という名の契約を更新し続けた。
不合理で、熱く、どうしようもなく甘い、私たちの新しい人生の序章。
その幕は、今、最高に鮮やかな色で開いたばかりだった。
最後まで読んで頂いてありがとうございます。
今後も、こうした作品を書いていきたいと思っています。
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