第二章(4)
遼太郎が田所の死を知ったのは、研究室でデータ整理をしているときだった。土曜日の昼間だというのに、研究室には五人の男がいた。そのうちの三人が院生で、学部生は遼太郎ともう一人だけ。そろそろ昼飯かと話題が出た頃、遼太郎のスマートフォンが事態を報せた。
〈 話したいことがある。電話してきて 〉
中川からの連絡で、普段の彼とは文面の雰囲気が違った。浮気でもバレたかとひやっとしたが、そもそも遼太郎には恋人がいなかった。とすれば、過去をやり直したことがバレたか。いや、そんなはずはない。中川にはそれを知るきっかけなどないはずだ。
席を立ち、窓際へと歩く。中川の狙いをつかめないまま遼太郎は電話をかけた。
「俺だけど」
『今どこ? 家?』
「いや、研究室」
背後を振り返り、他のメンバーの様子を伺った。一人と目が合ったが、さほど興味もなさそうな顔をしていた。
『落ち着いて聞いて欲しい』
「そんなこと言われたら緊張するんだけど」
『美希ちゃんが殺された』
一瞬、遼太郎の頭は美希という女の正体を理解できなかった。それでもすぐに田所美希の名を思い出し、それに連動して「え!」と叫び声が出ていた。
「なに言ってんだ?」
『美希ちゃんが殺されてるんだ。今は警察がたくさん来てる』
「嘘だろ? どこにいるんだ?」
『金城公園。遼太郎が注目してた、あの公園だよ』
「・・・!」
遼太郎は言葉が出なかった。まさか、自分の考えが正解そのものだったとは。それでも、田所が殺されていることまでは予想外だ。
「詳しく教えてくれ。どこに行けばいい」
中川の返事はなかった。様子がおかしいと感じ、遼太郎が再度問いかけようとした瞬間だった。
『リョウ、家で待ってて。こっちからも訊きたいことがあるから』
有無を言わさぬ奈々恵の声だった。
突然のことに驚き、遼太郎はただ了承するしかなかった。電話は切られ、物理的に教えてもらうことも叶わなくなった。
「なんでだよ・・」
「沖くーん、どうかした?」
タイミングを見計らっていたように院生の声が届いた。
「ちょっと・・出てきます。すみません」
「いいけど、大丈夫?」
「はい・・」
誰にも顔を見られたくなかった。遼太郎は俯いたまま、早足で研究室をあとにした。心の中の動揺を決して悟られぬように注意しながら。
玄関から物音が聞こえ、遼太郎は慌ててソファーから立ち上がった。二人が中へ入ってくる様子が目に入り、これが現実なのだと諦めた。
「・・よう」
「うん、おまたせ」
何と言葉を掛ければよいのかわからなかった。帰ってきた二人も、言葉を探すように曖昧な表情を浮かべていた。
二人を連れてリビングへと戻る。奈々恵の目が腫れていることには触れずにいた。
「悪いけど、もっかい説明してくれ」
飲み物でも出してやろうかと頭に浮かんだが、とてもそんなことをする余裕はなかった。
二人が家へ向かっている間、遼太郎は中川から情報をもらっていた。二人が田所を発見したのは偶然で、遼太郎が気にしていた公園を見に行ったら、偶然田所の遺体が発見された現場に出くわしたこと。第一発見者とも接触し、殺されている田所の姿を目にしたこと。そして、暴れかけた奈々恵を守るために、警察に引き止められる前にその場を脱出したこと。
改めてそれらを伝えられ、遼太郎の中でも状況の断片をイメージできるようになった。しかし、その理由も、事件の真相も不明なままだ。
「田所の死因は何なんだ?」
「わからない。でも、服はボロボロだったし・・どこかを刺されたのか、殴られたのか」
正直、遼太郎は大人になった田所に対してどのような感情を持つべきかわからずにいた。子供の頃は好きだったし、彼女を助け出すのも必死だった。とはいえ、付き合っていたという記憶はないし、どこか他人事のように感じてしまうのも事実だった。
「―――ねえ、リョウ」
俯いたまま、初めて奈々恵が口を開いた。焦点の合わない目で遼太郎を見つめ、静かに口を開いた。
「あんたはどうして美希があの場にいたことを知っていたの?」
「・・・」
この問いに対する回答を、遼太郎は見付けられずにいた。
二人を待っている間にも、この質問がくることは予測できていた。当然なのだ。事件に関して何も知るはずのない遼太郎が、突然田所の行動を言い当てた。不審に思われるに決まっている。それでもなお、遼太郎はこの問いに答える術を持たなかった。
「わからないんだ。どうしてそう思うのか。でも、なんかわからんけど、田所はそこにいた気がしてた」
「それで納得できると思うわけ?」
「うん、わかってる。でも悪い、答えようがない」
奈々恵の視線を受けながら、遼太郎は逃げ出すことだけはしなかった。
嘘をついている。過去へ戻り田所を救った結果、この世界で被害に遭う者が変わった。そんなこと言えるはずがなかった。なにしろ、遼太郎は自分が過去をやり直した方法を理解できずにいるのだから。
「正直に言うとね、ボクたちは遼太郎がその場に居合わせたんじゃないかって思ってる」
「田所を殺したって言いたいのか?」
「ううん。それはないって信じてる。でも、彼女があの公園にいたことは知っているんじゃないかって。見ていたのか、一緒にいたのか」
なるほど、と遼太郎は頷きたくなった。何も知らない者からすれば、そう考えるのが妥当だろう。―――だが。
「違う。俺は見てないし、田所から何かを聞いたわけでもない」
「それじゃあなぜ?」
「なんでだろうな」
二人が遼太郎の返事に満足していないことが伝わってくる。それでも遼太郎は深呼吸をし、無意味な衝突を避けることにした。
「なあ、警察は何か言ってなかったか? 田所を襲った犯人のこととか」
「ちゃんと話したわけじゃないからね」
「たぶんさ、行方不明になってるもう一人も事件に巻き込まれてるんだよな」
五月に入ったばかりの頃、皆川という学生が姿を消している。彼女は未だに見付かっていない。
「リョウにはそっちの子の行動もわかるんじゃないの?」
「・・わかんねえって」
奈々恵はあくまで遼太郎を疑っている。犯人としてというより、事件の一部を知っているのではないか、と。
「美希ちゃんが個人的な恨みで殺されたとは思えない。もう一人の皆川さんも行方不明だし、若い女性を狙っているって考えた方がいいのかな」
中川が心配そうに奈々恵を横目に見た。
「だとしたら俺たちが考えても仕方ない。せいぜい自分の身を守るくらいだ」
「―――心配してくれるのはありがたいけれども。リョウ、あんたは野田さんの個人情報を知りたがってたらしいわね。サークルとか、金曜日の行動とか。それと、最近失恋したんじゃないかって」
「そんなこともあったな」
自分の会話は奈々恵に筒抜けらしい。おそらくは中川が犯人だ。
「どうして野田さんに興味を持ったの?」
「わからないって」
「そんなわけない。もしかして、未来でもわかるわけ?」
その問いに、遼太郎は思わず息を呑んだ。
奈々恵の言葉が正しかったわけではない。だが、考え方としては合っている。遼太郎は起こるはずだった過去を知っている。だからこそ野田に注目し、彼女の行動を知りたがった。
「未来では野田さんが襲われるの?」
「違う。というか、知らん。変な妄想はやめてくれ」
「それともなに、失恋ってところがポイントなわけ?」
「刑事かよ」
遼太郎は二人から目をそらした。それが負けを認めているようで、ごまかすように瞼を閉じた。やっかいだ。我が妹ながら奈々恵は鋭いところを突いてくる。遼太郎は苦笑いをしたくなると同時に、いずれ逃げられなくなることを悟った。
「リョウはどうして美希と別れたの?」
「・・そういう話題はやめよう」
遼太郎には答えられないからだ。
「あんなに仲良かったのに。表面上だけだった?」
「知らねえよ」
「遼太郎と別れなければ、美希ちゃんは襲われずに済んだのかもね」
「おい、お前まで変なこと言うな」
「あながち間違いじゃないでしょ。野田さんの見た美希は、ひとりぼっちで公園で佇んでいたらしいじゃない」
「それとこれとは別だって」
相変わらず分が悪い。きちんと否定できないから尚更だった。
田所が襲われた理由は、事件が起きた公園の辺りにいたからだ。前回の野田と同様、犯人に狙われてしまった。遺体となって発見された田所から、その犯人の手懸りは見付かるのだろうか。そんなに楽観視できる状態ではないように思う。そして、おそらく次の被害者も現れる。
こうなるくらいだったら、過去をやり直す前にもう少し先まで体験しておくべきだったか。だが、あの出来事は突然訪れた。遼太郎が思い出に浸るために卒業アルバムを見て―――集合写真を見て―――。
そういえば、どのようにして過去をやり直したのだろう。突然小学二年生の頃に戻っていた。それを理解のできない偶然だとばかり思いこみ、理由を考えようともしなかった。だが、もしも再び過去をやり直せるのだとしたら―――。
「遼太郎、聞いてる?」
「え?」
「大丈夫?」
二人の視線を受け、慌てて余計な意識を振り払う。
「あぁ。ちょっと疲れただけ」
「ムリもないけどさ。きっとそのうち、遼太郎のところに刑事さんがくるよ。美希ちゃんの元交際相手ってことで」
「うわ・・」
そこまで頭が回っていなかった。中川の言葉は真実だろう。警察は被害者の身辺を洗うはずだ。そうして、別れたばかりの元交際相手を疑う。しかも、遼太郎には田所に関する記憶がない。曖昧な返事をする遼太郎を、彼らが疑うのは時間の問題だ。
「嘘はつかない方がいいわ。もしもつくなら・・最後まで嘘をつきとおしなさい」
まるで、嘘をついていると決め付けているような言葉だった。真実とはいえ、状況が状況だ。遼太郎が真実を話したところで、二人だって信じてくれるはずはない。
だが、まだ遼太郎にはすべきことがある。自分にしかできないことがある、とも考えていた。過去をやり直す方法を探るべきだ。そして、ターニングポイントとなる地点をやり直し、全てがうまくいく道を模索してみせる。
偶然手に入れたこの力を使いこなせば、可能性は無限に広がるのだ。