第二章(5)
中川が帰宅し、家の中は遼太郎と奈々恵だけになった。父親の沖教授は土曜日も研究室にこもりきりのはずだ。二人の子供が手を離れた頃から、彼は自らの研究に没頭し出した。おそらく、妻を亡くしていることが原因だ。何か違うことを考えていなければ精神を保つことができないのだろう。
中川が帰る際、奈々恵が送っていこうとしたが、彼はそれを止めた。事件に巻き込まれているのは奈々恵と同じ大学の女子学生なのだ。この場にいる三人の中で、ターゲットにされる可能性が最も高いのは彼女だ。奈々恵はふてくされた顔をしながらも、中川の言うことには従うらしい。もう少し自分の言葉にも耳を傾けてもらいたい、遼太郎はその感情を飲み込んだ。
中川がいなくなったら、家の中は一気に静まり返った。これが普段の状態なのだ。仲良く昼食をとるような関係ではない。互いに自室へ戻り、遼太郎は空腹だったが、後で冷蔵庫を漁ることにした。今はまだ解決すべき問題がある。
部屋のカギを閉め、タンスから段ボールを取り出す。先日中を覗いたため、すぐ手前に置かれていた。中から卒業アルバムを引っ張り出し、目的のページを開いた。過去をやり直す直前に見ていたページには、二年三組で合唱をしたシーンの写真がある。これを見ていた直後、気付けば遼太郎は小学二年生に戻っていた。まるで、写真の中に入り込むように。
こうして卒業アルバムを見返してみても、過去にタイムスリップはしていない。二十二歳の沖遼太郎のままだ。あのときと何が違うのだろう。偶然だっただけなのか。それとも、一枚の写真につき一度しかやり直せないのか。試しに隣の写真に目を向けてみる。運動会のワンシーンだった。帽子に書かれた文字から、それが小学三年生のときのものだとわかる。とはいえ、遼太郎には何の変化もなかった。過去に戻ることもなく、写真を見ているだけ。
はっきりしているのは、あのときは、写真の中の状況に戻ったということ。つまり、過去に戻るための重要なファクターは写真なのだ。意図的であれそうでないとしても、事実を受け入れることが近道だ。
ただし、タイムスリップするには他にも条件があるらしい。ポンポンと過去をやり直すことができれば、遼太郎はどんな夢でも叶うように感じた。大切な人を救うことも、後悔している部分を完璧にこなすことも。そして、未来を知ることもできるのだ。株やギャンブルで大金持ちになることだってできる。―――そんなことは後でいい。今は現実に集中しなければ。
田所美希は殺害された。おそらくは皆川恵子も同様だ。同じ大学の学生が事件に巻きこまれたとなれば、大学や学生たちは大騒ぎするはず。犯人だってそれくらいわかっている。―――いや、もしかすると違うのか。犯人は単に若い女を狙い、偶然同じ大学の学生だった可能性はある。そうであれば犯人に近付く術はない。遼太郎が担当すべきは、野田と田所の共通点を探ること。そして、田所が襲われた原因を事細かに理解することだ。
遼太郎はスマートフォンを手に取り、自分と田所の関係を探った。この数日、何度も確認してきた。結果としてわかっていないわけだが、この中にしかヒントはない。田所が遼太郎と別れ、それが原因で公園に入り犯人に目をつけられたのだとして、何ができるだろう。
考えてこんでいると、とある点が気になった。
遼太郎が過去を変えたことで、この世界も変化した。その中には田所が生きながらえたという意味もあるが、他にも人生ががらりと変わった者がいる。遼太郎の小学校の校長だ。彼は今、どこで何をしているのか。田所を誘拐しようとして遼太郎に防がれた。その後の記憶はないが、言い逃れはできないだろう。なにしろ、ザックの中に女子生徒を隠していたのだから。
校長の現在が変わったように、あの出来事が原因で、遼太郎の知らないところでも世界が大きく変わっているはずだ。遼太郎は溜息をつき、この捜査には大きな欠陥があることに気付いた。まず、問題がしっかりと定義されていないのだ。突如事件の中に放り込まれ、何を考えるべきかも知らされない。これでは解決しろという方が無茶だ。それに加え、遼太郎には変化した後の結果しかわからない。その過程がなければ、考えるべき点を見逃してしまうだろう。やはり、遼太郎には過去をやり直すしか方法はないように感じた。それだけが、遼太郎に許された奥の手なのだ。
遼太郎がなすべきことを模索していると、机に置いたスマートフォンが音を立てた。慌てて画面を確認する。意外な人物からの連絡だった。
「はい。沖です」
『急にごめんなさい。今って大丈夫?』
「あぁ」
電話の相手は清水だった。中川と同じ研究室に所属する、遼太郎たちと同じ学部の四回生だ。
「どうしたの?」
『特に用はないんだけど、暇してないかなーって思って』
「デートの誘い?」
『言葉が露骨ね』
清水は控えめに笑ったが、特に否定もしなかった。
『今から、会える?』
清水の指定した場所は、遼太郎の自宅と大学のちょうど中間にあたる場所だった。金山駅からも比較的近く、巨大な商業施設と化したショッピングモール。その一階に店舗を構えるカフェの前で清水が待っていた。
「ごめんね急に」
「いいよ、家で暇してたから」
今日の清水は、たまに研究室で見かけるときよりも女性らしい格好をしていた。白のロングスカートにスニーカー、上はグレーのパーカーを羽織っている。図書館にいたら好きになりそうだな、というのが遼太郎の感想だった。
「入ろっか」
清水は普段と同じように品の良い笑顔で言う。
少し並んでから会計を済ませ、二人は用意されたストローとプラスチックスプーンを持って壁際の席を選んだ。午後二時半、客のピークを過ぎた頃のようだ。
「どうせお金受けとってくれないんでしょう?」
「いいよ、そんなの」
遼太郎が二人分の会計を済ませた。清水は自分が二人分を支払おうとしたが、とてもそんなことさせるわけにはいかなかった。遼太郎にだって見栄というものはある。
「私が呼びつけたのに」
「さっさと飲もうぜ」
清水の悔しそうな表情が可笑しかった。普段の冷静な彼女とはまた違う一面だったからだ。二人ともストローに口をつけながら、遼太郎は清水の思惑を図れずにいた。彼女がどういうつもりでこの場に誘ったのか。偶然か、必然か。
「ごめんね。田所さんが行方不明だっていうのに」
「大丈夫、田所は見つかった」
「え! どこで?」
「金山にある公園。今朝のことらしい」
「無事だったの?」
「死んでる」
遼太郎の言葉を耳にしたはずだが、清水は何の反応も示さなかった。遼太郎の瞳を見つめたまま、冗談だと言われる瞬間を待つように。
「嘘じゃないよ」
「どうしてそんなに冷静なの」
「実感が沸かないからかな」
本音だった。田所が殺され、発見されたとしても、遼太郎はどんな気持ちでいればよいのかわからなかった。哀しいと思う。犯人に憤りだって感じるが、テレビの中の出来事のようで仕方がなかった。
「事故に遭ったの?」
「違う。殺されたらしい。―――知りたい?」
清水はじっと動かなかったが、やがてコクリと頷いた。
遼太郎は自分の頭の中を整理するためにも、ひとつずつゆっくりと説明していった。清水は表情こそ変えたものの、途中で口を挟むことはなかった。細部は想像を交えながら説明を終えると、ようやく遼太郎の中にも実感がわいてきた。
「田所は殺されたんだ。たぶん、もうひとりの女も殺されてるんじゃないかな」
「平気なの?」
「そう見える?」
「見える」
「残念ながら、その通りなんだ。薄情なやつだって思うか?」
「ううん」
清水ははっきりと首を振り、迷いのない表情で口を開いた。
「いいと思う。それが沖くんの本心なんだろうし」
「犯人を捕まえてやりたいって気持ちはあるよ」
「彼女が殺されたんだもんね」
「正確には、元カノだけど」
「そういえば、いつ別れたの?」
「つい最近。田所がいなくなる二日前とかだったかな」
「それはなんていうか・・」
清水は言葉が見付からなかったのか、視線を揺らしながら口を閉ざしていた。遼太郎のカップの中の氷が音を立てて液面に沈んだ。周囲のざわめきとは裏腹に、二人の間には気まずさだけが浮んでいた。
「そんな話をしにきたのか?」
「本当は田所さんのこと訊きたかったの。沖くんと付き合ってるのは知ってたし、幼馴染みなんでしょう?」
「小学校の頃からだな」
―――記憶はないけど。
「でもどうして田所?」
「だって、沖くんが好きになった人でしょう? 気になるもの」
「なかなか難しいことを言うね」
「そう? もっとハッキリ言って欲しい?」
「いや、言わなくていい」
清水は含みを浮かべた笑顔をしている。遼太郎は反応に困り、カップに手を伸ばした。誰かに助けを求めたい気分だった。
「小学生の頃にさ、あいつが事件に巻き込まれそうだったんだ」
清水を見ないようにしたまま、遼太郎は口を開いた。意識せず、自然と出た言葉だった。
「事件って?」
「小学校の校長が田所を誘拐しようとしたんだ。それで、殺すつもりだったんだと思う」
「いきなり物騒なんですけど」
清水は予想外だったのか、素の表情で遼太郎を見ていた。
「下校時刻に田所と校長は偶然会って、校長がザックにあいつを仕舞い込んだんだ。ほら、登山で使うようなでかい鞄」
「それはわかるけど、どうして沖くんが知ってるの?」
「俺が阻止したから。そのザックごと車に乗せた校長が帰るとき、俺が校長の車に飛び込んで停めた」
「ごめんね、ちょっと意味がわからない」
清水が両眉の上あたりを抑えているせいで、遼太郎からは彼女の表情が見えなかった。驚いているのか、混乱しているのか。
「それがきっかけで二人は親しくなった感じ?」
「たぶんな」
元々田所のことが好きだったが、それは言う必要もないだろう。清水は相変わらず顔を覆うような姿勢だったが、やがて背もたれに寄り掛かると、堪えきれなくなったように笑い出した。
「なにそれ、ロマンチックすぎない? 事件に巻きこまれたとこを助けるとか」
「嘘じゃねぇからな」
「うん。疑ってるわけじゃないよ。すごい偶然だなぁって思うだけ」
「そんなわけで、俺と田所の間には変な繋がりがある」
「納得した。私じゃ敵わないわ。―――でもね」
清水は両肘をテーブルに突き、遼太郎の近くまで顔を寄せた。
「チャンスだと思ってる。沖くんが凹んでるとき、近くにいようと思ってる」
「たぶんここに中川がいたら、お前のこと不謹慎だって叱るぞ」
「二人しかいないじゃない。私と沖くん、二人しかいないのよ」
清水の視線を受けながら、遼太郎は動けずにいた。考えたくはないが、清水の言わんとしていることは伝わる。だが、それに乗っかるつもりはないし、拒絶する気もない。単に、関係を進めることが億劫だった。
「そんなわけで、これからもよろしくね」
「どんなわけだろうな」
「聞きたい?」
「・・やめとく」
二人は視線を合わせながら、言葉はなかった。無言の会話がそこにはあった。田所が殺され、彼女の遺体が発見された今、自分はいったい何をしているのだろう。遼太郎は不思議に感じながら、プラスチックのカップに手を伸ばした。




