タメル地区
ガツッ!
すごい音がしたと同時に、一瞬意識がクラっと落ちかかった。
何とか立ち直って頭に手を当ててみる。
すると、そこから血が出ているのが分かった。
やれやれ、とんでもない所に来ちゃったな……。
僕はホテルを見回してそう思った。
インドの旅が終わった僕らが次に向かったのは、お隣の国ネパールだ。
目的は特にこれといって無いけれど、どうせすぐ近くだしそれなら噂のカトマンズとやらを見てみようかと軽い気持ちでいくことにしたのだ。
突然の決定だったので勿論ビザの用意などはできていなかった。
だけどネットで見る限りアライバルビザがすぐ取れるとのことで、僕たちはそれを信じて向かった。
空港についてみると専用のラインがあり、30分ほど並んだら無事に取ることが出来た。
特に難しい手続きもなく、厄介な詮索すらされずに済んだ。
とりあえず一安心だ。
空港から首都カトマンズの中心街へ向かう。
辺りが暗くなってきていたのでタクシーを使うことにした。
揺られること20分程で到着。
そしてすぐ旅人御用達TI(Tourist Information)へ行った。
何も情報を持たない地域に行った時、まずはTIで情報収集をしなければならない。
真っ先に観光地図をもらって説明をうける。
何やらカトマンズ市内はタメル地区というエリアが中心になっていて、そこには沢山のホテルやお店、レストランがあるとのこと。
そしてその南には名所ダルバール広場あり、東側には観光の拠点になるバスターミナルがあるようだ。
距離間には特に問題無さそうで、タメル地区からバスターミナルまで歩いても20分ほどとのことだった。
地理を把握できた僕たちは、ホテルの当てもなかったのでTIに紹介してもらうことにした。
TIを経由すると条件毎に紹介してくれて、さらに料金も割り引かれるので願ったり叶ったりなのだ。
今回泊まることになったのはKathmandu Boutique Hotel。
場所はタメル地区から南へ5分ほど歩いたところ。
ちょうどダルバール広場へ行く道の間にある。
料金は一泊2200ルピーとこちらもまあ問題ない。
なにより「ブティックっていう響きがいいねえ」とメテムが気に入ったのが決め手だ。
早速電話でホテルを抑えてもらって向かった。
Kathmandu Boutique Hotelは第一印象ではとても頑張っている感じがした。
大層な門が置かれ、中に見える白い外壁も綺麗に整っている。
ネパールでは珍しい、どことなく西洋を思わせる作りだ。
そして中に入るとすぐ左手にオシャレなテラスもある。
滞在客だろうか、ちょうど数名がコーヒーを飲んでいた。
これは中も期待できそうだ。
そう思って中に入ってみたところ、何か違和感を感じた。
て、天井が低い。
そう、何故かこのホテル天井がとても低いのだ。
中腰にならないと、頭をぶつけてしまう低さだ。
これはさすがにおかしいと思って周りを見てみると、通常一階と二階で構成される高さのところを、一階、半二階、二階と三段階で使っているのが分かる。
そのため高さが無くなるようだ。
なんでこんな作りにしてるんだろう……。
若干戸惑いながらもチェックインをお願いする。
と、ここでもやはり驚きの事が告げられた。
曰く「お湯は基本的にソーラーシステムで沸かしてるからしばらくは水だけで我慢してくれ」との事。
これはまだ分かる。
アジアの片田舎ではむしろお湯が出るだけありがたい。
だが「計画停電が頻繁にあるから電気は期待しないでくれ。いつ停電するかはわからないからな」というのは困った。
計画停電……電力が足りていない国ならば仕方のない事かもしれないが、初めての事なので戸惑う。
まあ戸惑おうが戸惑なかろうが、あるのはあるのだから仕方ないか。
諦めて受け入れることにして、僕たちは部屋へと向かった。そしてちょうどその時。
ガツッ!
一瞬頭に火花が飛び出る。
あー、やっちゃった……天井低いんだっけ……。
クラクラしていると後ろからホテルの人の声が響いた。
「Mind Your Head (頭上に注意)」
「あっはっは、ユウキ、血が出てるぞ」
ベッドに腰を下ろした僕に、メテムが言う。
手を額に触れてみるとヌメッとしているのが分かる。
「もう何ここ。なんでこんな天井低いの?」
部屋を見渡して僕は呟く。
そう、低いのは通路だけかと思いきや、全体的に二階層の高さで三階層分の構成にしているので、当然のごとく部屋の中も天井が低い。
「メテム、本当にちょっと痛いんだけど……」
「大丈夫、ツバつけときゃ治るって」
「いやあの……出来れば回復魔法とか……」
「大丈夫大丈夫」
「……んーもう、自分はしっかり立てるからいいけど、僕は結構辛いんだけど」
「それより窓際来てごらんよ、景色良いから」
そう言われて窓を覗き込んだ。
遠くの方まで茶色をした古き良き街並みが見える。
「確かに見事だね。インドとは全く別の雰囲気だ」
「そうだろうそうだろう。来てみた甲斐があったってもんだね。よし、ユウキ、準備できたら外に行こうよ。街を歩こう。お腹も空いたし夕食探しに行こう」
「いいねえ!」
僕たちはすぐに荷物を下ろし、外へと向かった。
ホテルからカトマンズ中心街タメル地区へ向かう。
地図で見る限り結構近いので軽装ででかける事にした。
目の前の道をテクテクと歩く。
歩くのだが。
この街、いやもしかしたらネパール全土に言えることなのかもしれないけれど、とにかく車やリキシャーが多い。
狭い道路をひっきりなしに通過していく。
それだけならまあ当然問題ないのだが、その車の群れが異常なほどにクラクションを鳴らすのだ。
もう目の前で親の仇でも見つけたかのように。
ブッブー! ブーブー! ブッブブー! ブッブー!
まさにこんな感じ。外に出る度クラクションの音しか聞こえない
「ユウ……、こ……んでこんな凄……? ちょ……耳が痛く……てくる……けど」
「え? 何? 何て言ってるの?」
「だ……耳……くなって……るんだ……ば!」
途切れ途切れに聞こえるメテムのセリフ。
可愛い様子で耳に手を当てているところを見ると、まあ当然クラクションが五月蝿いと抗議してるんだろう。
なんとかしてやりたいがどうしようもない。
しかもきついのはクラクションだけではない。
この狭い道路を往来する車が撒き散らす排気ガスも酷い。
耳だけでは無く鼻や喉もやられるのだ。
もうなんとかして大通りを離れようと僕たちは小道へと向かった。
ここならば車が入ってこれないので、静かだろう。
僕の目論見は正しく、一本外れるだけで車の往来は随分減った。
その分リキシャーが増えたが、まあ我慢できなくもない。
さて、んじゃ街並みを見てみようか。
気分を入れ替えて歩こうと思った矢先、目の前を通っていたネパーリ(ネパール人)に目がいった。
ブヒンッ
文章だけではどうしても伝わりきれないだろう。
そう、彼は今思い切り素手で鼻をかみ、事もあろうか汚れた手をそこらの壁になすりつけているのだ。
「うへっ」
メテムが思わず立ち止まり、そして壁につけていた手をすぐに離した。
「ユ、ユウキ、あいつ今凄いことをしたね……」
二人共暫し呆然とする。
あの人に近づかないようにしなきゃ……。
そう思って離れようとしたところ……。
ブヒンッ
見れば別のところで別の人がまた同様のことをしている。
しかも今度は痰を地面に吐きつけているではないか。
もしやネパーリはこれがデフォルトなんだろうか
カルチャーショックにクラクラする二人。
……これはちょっと国の選別誤ったかな。
ネパールについて数時間だというのにそんなことが頭によぎったのだった。
街並みや人に衝撃を受けたが、旅の醍醐味の一つ、食事に関しては期待出来そうだ。
ネパールといえば、当然モモ。
日本でいうと小籠包と餃子の間の子みたいな感じだ。
いやもう丸型の餃子をイメージしてもらえると多分それがモモだ。
大きく分けてスチームモモ(蒸したモモ)とフライドモモ(揚げたモモ)がある。
国民食の地位を確固たるものにしてるようで、どの屋台でも売っている。
特にスチームモモなんかは、大きな蒸し器が店頭にあり常に出来立てがあるようで、頼むと8個位を皿にいれて20秒ほどで出来る。
150ルピーと格安で、この旅でも頻繁にお世話になった。
「ユウキ、モモこれめちゃいけるじゃん」
お腹が空いたので、歩きながらモモを食べる僕たち。
「そうだね、これは日本で食べる餃子の味そっくりだ」
「このソース不思議な味だけどなんだろう」
メテムがモモについてきたソースを舐めながら言う。
確かになんて表現したら良いのか難しい。
醤油っぽいわけじゃないけど、ちょっと酸っぱい感じがする。
「なんだろうね、でも結構美味しいね」
「うん、肉まんに酢醤油つけて食べる感覚だね」
肉まんに酢醤油……身も蓋もない言い方だが、まあその通りかもしれない。
結局のところ、どれだけ離れた場所に住んでいようが、味覚の好みは一緒なのだろうか。
「おっと、メテム、あんまり食べちゃダメだよ。僕たちのお目当ては別にあるんだから」
「分かってるって。ダルバートタルカリだろ?」
そう、僕たちの目当てはダルバートタルカリ。
ネパールを代表する家庭料理だ。
ダルが豆スープを指し、バートが米、そしてタルカリがおかずを意味する。
ワンプレートに全てが載られた伝統料理だ。
ホテルの人に美味しいお店を聞いてきたので、僕たちはそのレストランへと向かっているのだ。
タメル地区を歩き、程なくしてレストランへ到着した。
二階のテラスに案内される。
窓際で辺りが一望できるとても良い席だ。
早速メニューを見て、ダルバートタルカリを二人分頼む。
食前酒、スープ、ダルバートタルカリ、デザート、コーヒーがついて850ルピー。
ネパールの相場でいうと若干高い気もするが、僕たちにとっては問題ない価格だ。
「この食前酒、甘くて美味しい」
メテムがチビチビと飲みながら言う。
「そうだね、疲れが癒される感じがするね」
「ユウキはお酒飲めないんだから無理するなよな」
「分かってるって、この量じゃ問題ないよ」
そう言って小さなグラスを手に収めた。
「フフン、そういっていつも気持ち悪くなるのはお前だろうが!」
……ギクッ。なかなか痛いところをついてくる。
食前酒を飲んでるとスープが出てきた。
茶色いスープで豆が浮いている。
「ユウキ、おまえ苦手だろ、こういうのも」
「うーん、そうなんだよね。僕ほら、普段から日本でスープとか飲まないじゃん? それにそもそも豆が嫌いじゃん。どうしたもんだか」
「しょうがないなあ、飲んでやろうか?」
「いやまあ、せっかくここまで来たんだから自分で飲むよ」
そう思って口に含む。すると……。
「うわ、これ美味しいじゃん。ガーリックが効いてて僕好みなんだけど」
「お、本当だ。確かにスパイシーでこれは美味しい」
「うんうん、これなら飲めるよ、飲める」
すっかりテンションが上がりスープを飲みほす僕。
我ながら都合が良い性格だ。
気分が良くなってきたところでいよいよメインのダルバートタルカリが運ばれてきた。
さて本場はどんなもんか。
そう思ってると、まずはメインの皿が目の前に置かれた。
米が盛られていて、漬物のようなものが入っている小皿もある。
それから他に五つの小皿が置かれる。
カレーの様な物が二皿、緑のスープが一皿、小さな鶏の唐揚げが一皿に、青菜の炒め物が一皿だ。
「なんだ、ワンプレートで出てくるわけじゃないんだね」
「そうだね、僕もてっきりそうなのかと思ったよ。まあでもここはほら高級レストランに分類されるから、一般のスタイルとは違ってくるんじゃない?」
「それもそうか。よし食べよう」
そう言うと、ガツガツと食べ始めるメテム。
「うわっ、これめちゃ旨! ユウキ、ちょっと食べてみろよ。このカレーみたいなの、どちらもいける!」
「わ、本当だね。これチキンとポテトだ。しかもこの青菜だってガーリック味で美味しい!」
「うんうん、これもいけるわ。というかユウキ、おまえ普段青菜食べない癖に、こんなとこだと食べるんだな」
笑いながらメテムが言う。
「うん、現金なもんだけど、これは美味しいや」
そう言いながら僕たちはダルバートタルカリをあっという間に平らげた。
それはそれは本当に美味しいダルバートタルカリだった。
お腹が膨れた後、最後はデザートがきた。
ヨーグルトの上に何かがふりかけてある。なんだろうかと思って食べてみると胡椒だった。
「うーん、これは凄い組み合わせだなあ。だけど残念ながら私の味覚には……」
渋い顔をするメテム。気持ちはとても分かる。僕もあまり好ましくない。
「そ、そうだね、これはちょっと合わないね。でもこのコーヒーは一息つけてよい感じ」
コーヒーを口に含み休む。
ダルバートタルカリが結構量があったので、しばらくは動けそうにない。
メテムを見ると同じようだ。
小さなお腹をさすっている。
どうせもう今日は予定もないしゆっくりしていくか。
そうやって二人でユックリとしていた矢先……。
ブツッ
変な音がしたと思ったと同時に、辺りが一気に闇に包まれた。
あんなに明るかった外が一気に激変する。
なんだ、これは一体何が起きたんだ。
そう思って慌てて周りを見渡すと、僕たち以外の客や店員は特に慌てている素振りは見られない。
メテムがふざけて魔法でもかけたのかとも思ったが、メテムを見て見る限り一緒になって驚いている。
これは一体なんだろう。
そう思っていたところメテムが思い出したように口を開いた。
「あ、これがあれか、計画停電か」
計画停電。
なるほど、これが噂に聞こえる計画停電というやつか。
ちょうどそのタイミングになったってわけね。
周りはもう何度も体験してるから落ち着いてるんだな。
事態を把握した僕たちは少し余裕が出てきた。
改めて辺りを見渡す。
すると先ほどまでネオンでギラギラだったタメル地区がひっそりと静まり返った別の顔になっていたのに気づく。
「しょっちゅうあるのは困るけど、こういうのも情緒があって良いね」
メテムが呟く。
確かにこれはこれで雰囲気がある。
昔々電気が普及していなかった時代にタイムトリップした気分だ。
電気に囲まれている日本ではとても体験できそうにない。
「ユウキ、怖いならナイトサイトをかけてあげようか?」
そう言いながら、キシシ、とメテムが笑った。
程なくして停電が終わり、僕達は支払いをしてホテルへと戻った。
「今日も一日楽しかったね」
「そうだね、メテム。やっぱ新しい国ってのは新鮮だよ」
「うんうん、見どころ結構ありそうだし、明日からが楽しみだ」
「分かる分かる。よし、僕んじゃシャワー浴びてくるよ」
そう言ってシャワールームへと向かう。
シャワールームといっても、小さなシャワーが1個あるだけでバスタブなんてものは当然ない。
小さな桶が置いてあるのでそこに水をいれてつかえということだろう。
そしてホテルのスタッフの言うとおり最初は水しか出なかったのだが、しばらくするとぬるいお湯が出てきた。
適温ではないが十分実用できる温度だ。僕は手早く体を洗った。
「メテム、出たよー。次入ってー」
シャワールームで体を拭きながら僕はメテムに声をかけた。
そして寝巻きを身にまとって部屋へ戻ろうとした。
そしてまさにその時。
ガツッ!
本日二回目となる鈍い音と共に、猛烈な痛みが頭を襲った。
あぁ、すっかり忘れてたよ。もうなにこれ……。
なかば諦めぎみになりながら、僕は自分の頭をさするのだった……。