死海
「メテム、今日これから行く場所はね、ちょっと不思議な場所なんだよ」
隣に歩いているメテムに僕は話しかけた。
「ほうほう?」
こちらに小さな顔を向けてメテムが答える。
「死海と言ってね、湖なんだけど、そこに入ると体が浮くんだよ」
「体が浮く?」
「うん、僕も詳しくは知らないんだけど、普通湖とか海に入ると体が沈むんだけど、そこの湖だけは体が浮かんで溺れないらしいんだよ」
「へー、そりゃ不思議だ。どうなってるんだろう。まさか魔法がかけられてるのかな」
「はは、どうだろうね。よし、行こう」
そう言うと僕は近くを通っていたタクシーに手を上げた。
「お客さん、死海辺りに行きたいのかい?」
タクシーに入るや否やタクシードライバーが聞いてくる。
やはりここアンマンでは最もポピュラーなアクティビティらしい。
「はい、お願いできますか?」
「もちろんだよ。ただ死海には二種類あって、高級ホテルがもつプライベートな死海と、国が管理しているパブリックなホテルがあるんだ」
「らしいですね。高くても構わないのでプライベートな方に行こうと考えてます」
僕がそう答えると、タクシードライバーは口を鳴らした。
「チッチ、お客さん、オススメは断然パブリックな方だよ」
「いや、ホテルの方が綺麗だと聞いてますので」
「いやいや、一度パブリックな方を見てみなよ。それから判断しても遅くはないだろ」
「いや、最初からホテルの方が……」
「まあまあ、そうは言わずにさ」
僕がどれだけ言ってもタクシードライバーはパブリックな方を推してくる。
「こいつ、絶対紹介手数料狙ってるだけだぞ……」
メテムが僕に呟くのだった。
アンマンから死海へは程近く、大体一時間ほど揺られたところでタクシーが止まった。
眼の前には何の変哲もないビーチが見える。
「どうだい? 悪くないだろ?」
タクシードライバーがそう言うと、メテムはビーチを眺め、「フンッ」と鼻を鳴らした。
「まあいいだろ。おっさん、ありがとうな。ビーチから紹介手数料を貰ったらタクシーで待機していてくれ」
メテムにそう言われると、タクシードライバーは焦ったように、乾いた笑顔を浮かべた。
「さて、ではっと……」
脱衣所で水着に着替えた僕らは死海を眺める。
見た所特に変わりのないビーチに見えるが、海ではプカプカ浮いてる人が見えてるので、ここぞまさに死海なんだろう。
「ヨッ、ハッ、トッ」
隣でメテムがしっかりと体操をしている。
体をたっぷり伸ばす元気いっぱいなその仕草は、本当に見ていて微笑ました。
「よし、行くぞー!」
しばらく眺めてると、メテムはそう言い放ち死海へと向かう。
「あ、まって」
それを見た僕は慌てて静止をしたのだが、時すでに遅し、メテムは壮大に頭から死海へと突っ込んでいた。
「ぶは――――――っ。辛い!辛い!」
大きな波しぶきを立てて飛び込んだメテムだが、すぐに体を起こして大声を挙げた。
「メテム、この湖は塩分濃度が高くて、それで浮くんだよ。だから突っ込むと酷い目に……」
「馬鹿野郎!それなら早く言えよお前。そんなとこに立ってないで、お前も私みたいに飛び込んでみろ」
「そんな無茶な……」
「つか目が痛いいいいいい」
メテムの叫びが辺りに響いた。
「いやー、酷い目に遭ったわ」
そう言いながらメテムは近くの噴水で目を洗った。
「つか、不思議湖って、ただ単に塩分濃度が高いから比重値が高まって浮くだけじゃねえか、くそ」
そう毒づくメテム。
「まあまあ、目を洗ったらもう一度行こうよ」
そう促す僕に目を向けず、メテムはお馴染み魔法書を取り出した。
「ふん、こんなもん魔法の力で復元できるわ。いでよ、お馴染みウォーターパペットくん」
メテムがそう言うと、目の前の死海の水が一箇所に集まり、人間大の形を作る。
が、現れたウォーターパペットはなぜかいつもの様子ではなく草臥れてる感じがする。
「ありゃ、元気が無いぞ。こんなのは初めてだ」
不思議そうに見つめるメテム。
「まあいいや、ほれ、行くぞ」
そう言うとメテムはウォーターパペットを連れて湖に向かった。
死海の水は若干ぬるく、ヌメッとした感触がする。
メテムとは違って慎重に体をいれたのだが、腰まで浸かった時点で浮遊感を少し感じた。
そして胴体、首を沈めた時点でその浮遊感が強くなる。
ここで半信半疑になりながらも足を地面から離し、前に向ける。
すると体全体が死海の面上へ浮かび上がった。
「おぉ、確かに浮くね!」
驚きと共に思わず声が出る。
「だな、体が不思議に持ち上げられるな」
隣ではもう慣れたのかメテムが器用なポーズで湖面に浮かんでいた。
「しかし凄いねえ、これ」
体が持ち上げられるという不思議な体感をしながらつぶやく。
この感覚は表現しづらいのだが、体が全体的に押し上げられる感じだ。
最初は腹に力をいれて態勢を維持したのだが、途中から試しに全身の力を抜いて脱力した状態になった。
それでも体が浮く。
これぞ死海なのだろう。
「世の中には不思議な場所があるもんだねえ」
隣では死海に浮かぶメテムと、その真似をして浮かんでるフリをしているウォーターパペットがいる。
「この世界もなかなか見どころあるじゃないか。はっは」
楽しそうなメテムを横目に見ながら、僕は体を浮かばせ続けた。
「メテム、ここはね、泥パックが良いらしいよ」
ガイドブックで知り得た情報をメテムに伝える。
「ほうほう、泥パックとな」
「うん、美容にとても良いんだって。ポピュラーらしいよ。例えばほら、あそこの人みてよ、ちょうど体にドロ塗ってるでしょ」
そう指示す先には、目の前で白人の女性が足元にある泥を体に塗りつけていた。
「なんだ、泥って本当にここに落ちてるやつ使うのか」
「そうみたいだね」
「おい、ユウキ。これ高いホテルのビーチ行ったら、高い泥があったんじゃないのか」
「ははは、かもしれない。まあ泥は泥だし、これでいいんじゃない?」
僕がそう言うと、メテムは「フンッ」と鼻を鳴らした。
「メテム、泥、僕が塗ってあげようか?」
「お前、ただ単に私に触りたいだけじゃないのか?」
「いやいや、そんなそんな」
「ふん、ウォーターパペット君、泥を塗ってくれたまえ」
メテムの声に呼応するかのようにウォーターパペットが動き出し、地面の泥をすくってメテムに塗り始めた。
「それ、そんなこともやってくれるんだね」
「便利だろ」
泥を塗られながら答えるメテム。
僕もそれに続いてとばかりに泥を体に塗った。
死海の泥は特段何かあるわけではなく、身も蓋もない言い方をすると単なる泥だ。
固まっているわけでもサラサラなわけでもない。
多少生ぬるいが、肌触りが良いなどもなかった。
足元から塗り始め、体、腕、そして首まで擦る。
「おいユウキ、これ、顔も塗るのか?」
「うーん、僕は塗らないけど、メテムみたいな女の子は美容のために塗るみたいだよ」
「私のように美人は、だろ」
そういうとメテムはウォーターパペットに顔まで塗らせた。
そしてあっという間に泥まみれのメテムが出来上がった。
「ふふ、どうだユウキ。この完璧な姿」
「うん、全身泥人形だね」
「で、これからどうするんだ?」
「乾かした後洗うんだって」
「なるほど」
そう言うと僕とメテムはしばらくその場に立ち尽くした。
「もう良い頃じゃないか?」
メテムが声を上げる。
確かに泥はパリパリとなっており、体を動かす度に軋む音がする。
試しに少し腕の泥を剥がしてみると、器用に固まった泥が剥がれ落ちた。
「うん、良い頃合いだね。死海に入って落とそう」
そう言いながら僕たちは死海へと戻った。
死海の水を体につけ、ゴシゴシと洗う。
が、泥がなかなか落ちづらく、大して綺麗にならない。
「おい、これ落ちないぞ」
隣りにいるメテムも不平を言った。
「これ頑強だねえ。流せど流せど落ちない」
「全く。この美しい体に傷がついたらどうするんだよ」
しきりに不満を言いながら、なんとか二人で洗い流す。
乾いてる部分を剥がし、そして濡れた部分を削ぎ落とす。
なんとか苦労しながら洗うと、ようやく肌が露出してきた。
「おー、確かにスベスベになってるな」
露出した肌を摩りながらメテムが言った。
確かに肌は見るだけでツルツルになっている。
触ってみるとシルクのようになめらかな感触だ。
これが塩分を大量に含んだ泥の効果なのだろう。
「悪くないね」
「悪くないだけか?」
メテムに言うと、険しい顔を向けた。
「いや、いつにも増して綺麗だよ」
慌てて訂正する。
「そうだろう、そうだろう。泥美人とは私のことさ。はっは」
メテムは破顔の笑みを浮かべた。
「お客さん、死海はどう?」
僕たちが笑い合ってると、いつの間にかタクシードライバーがやってきた。
おそらくそろそろ時間なのだろう。
「お、運ちゃん。お前はどうだ?紹介フィーでも入ったか?」
隣でメテムが辛辣に対応すると、困ったような顔をする。
「よし、まあ死海はとりあえずこんなもんにして、そろそろ帰るとするか」
そう言うとメテムは死海の香りを携えて、タクシーへと向かった。
慌てて僕とタクシードライバーも続くのだった。




