ブダペスト
「ふぃ~、極楽極楽。これこそ世に言う天国かもしれないね」
隣で体をプカプカ浮かばせながらメテムが呟く。
「分かる分かる。晴天の下、こんな体験できてると本当にそう思うよ」
そう言うと僕も仰向けになって空を覗き込んだ。
ここは東欧にあるハンガリーは首都ブダペスト。
先日、日本からモスクワを経由してたどり着いた旅の最初の都市だ。
そして今いる場所、それはハンガリーといえばここだと言うべき、そう、温泉だ。
知らない人もあまりいないと思うが、ハンガリーは日本に負けず劣らず温泉大国として有名だ。
国内に無数の公共温泉があり、国民にとっても身近な存在だ。
その中でも格段に有名なのが、ここセーチェニ温泉。
屋外にあるこの温泉は、水着を着て男女混浴で入ることが出来る。
なので隣にいる我らがメテムも、今日はチャーミングな水着を着ている。
黒いセパレイトのビキニで、後ろについた大きなリボンが特徴的だ。
ただ残念なことに胸に少し膨らみが足りないのがセクシーさに欠ける……と、やめておこう。
こんなことを考えてると、メテムの神がかり的な勘で探られてしまう。
「ユウキ!」
!?!? え、まさかもう勘ぐられたか。
「な、何?」
僕は思わず声をうわずりながら応えた。だがそれがまずかった。
「なんでそんな動揺してるんだよ。何か変なこと考えてたのか?」
「い、いや、違うよ違うよ。温泉気持ち良いなって」
「ふ~ん……そんな感じじゃ無さそうだけど」
思わず冷や汗が流れる。
「まあいいや。というかあそこほら、見てみろよ」
そう言われてメテムが指差す方を見てみる。
するとそこには温泉に浸かりながらチェスに興じている老人たちがいた。
そう、先程説明出来なかったが、セーチェニ温泉が有名なのは、温泉をしながらチェスが出来るという独特の風習の為だ。
温泉の壁際では至る所で皆がチェスをしている。
この晴天の気持ち良い中、温泉に浸かりながらするチェスというのはきっと格別気持ち良いのだろう。
僕はチェスのルールは知らないけれど、楽しそうにしているのを見てるだけで気持ちが伝わってくる。
ハンガリーの温泉はシステムもよく出来ており、僕たちのような旅行者にとっても使いやすい。
一日チケットを四千六百フォリント(千六百円程)で購入するとリストバンドが支給され、それでロッカーが使えるようになる。
それから水着に着替えて合流だ。
水温もちょうど良い感じの三十六度ぐらいだ。
ぬるま湯にじっくり入るタイプの僕にはまさしくうってつけと言える。
「ふぃ~」
横を見るとメテムが体を沈めて気持ちよさそうにしていた。
「メテム、メテム」
「ん?」
「メテムのいた世界でも温泉とかはあったの?」
「んー、まあこんな感じじゃないけど、似たような物はあったよ」
「そうなの?」
「うん、もう少しワイルドな感じのだけど」
「ワイルドって?」
「んー、熊だの鹿だのが遠慮なく入ってくる感じかな」
「え……熊に鹿?」
「うん、熊とか鹿は大人しいから平気だよ。でもたまに厄介なモンスターまで浸かりに来るからねえ」
「そ、そうなの?」
「うん、まあ温泉に来たいだけだから邪険にも出来ないけど」
「す、凄いね……」
「まあね、そういう時は温泉のお湯使ってウォーターパペット召喚してお帰り願ってたね。いっちょ召喚しようか?」
「え? ここで?」
「うん」
「いやいや、いいよいいよ。大事になっちゃう」
「キシシ、冗談冗談」
そう笑うとメテムが僕の腕に絡みついてきた。
小さな可愛い胸が僕の腕に当たる。
「さっきちらっと見ただけだけど、ヨーロッパってところは、街並みが日本とは全然違うねえ」
「そうだね、日本は木で家作るけど、こっちは大理石の文化だからねえ」
「うんうん、雰囲気がもうガラリと変わる。あとさ、食べ物もやっぱり全然違うみたいだね」
「こっちはほら、トマトとかオリーブとかチーズとか、そういうのが進んでるね」
「ほうほう、醤油や味噌とは全く違うみたいだねえ。私けっこうソッチのほうが好きかもしれない」
「僕も洋食の方が好きだよ」
「今日の夕食の予定は?」
「うん、ハンガリーといえばやはりリバマーイだね」
「リバマーイ?」
「そう、リバマーイ。要はフォアグラってこと。フォアグラのポワレを食べよう」
「あ、フォアグラの事なの? そりゃとても楽しみだ」
「うんうん、まあでも夕食までまだ時間あるし、ゆっくり街を散歩しよう」
「オッケー、楽しみにしているよ」
そういうと僕たちは温泉に浸かり、暫くの間その湯を堪能した。
ブダペストという街は、ドナウ川を挟んで東側にある旧市街のブダと、西側にある新市街のペストが合体して出来た都市だ。
その二つの街を結びつけるのが九つの鎖橋で、中でも有名なのが世界遺産にも登録されているセーチェニ鎖橋だ。
何やらライオン像が入り口に置かれ、街のシンボルとして存在しているようだ。
セーチェニ温泉を出た僕たちもまずはそこに向かうことにした。
「タラタンタンタン、ターラッタ~」
隣ではメテムが何かの歌を口ずさみながら陽気にしている。
「随分気分良さそうだね」
「うん。こういうさ大理石の都市はいいねえ」
「そうだね~、雰囲気落ち着いているし、何というか知的な感覚があるね」
「そうそう。私の世界にもさ、こういう街あったんだけど、ちょっと遠いからあんま普段行かないんだよね」
「なるほど、僕も日本にはないから楽しいよ」
そんなやり取りをしながら僕たちは街を練り歩いた。
住民たちにとっては特段心躍る風景ではないだろうが、それでもなんとは無しに行き交う人々を見てみると、幸せそうな感じがする。
西欧に比べて暗く控えめな印象が強かった東欧だが、実際に来てみると意外にもそうではないことに気がついた。
決して浮かれているというわけではないが、人々の顔には影は特に見えない。
なかなか面白い気づきだ。
「ユウキ、ちょっとちょっと」
人々を観察していると、メテムが僕の腕を引っ張った。
「なになに、どうしたの?」
「あそこ、ほら、マーケットがあるっぽい」
「マーケット?」
思わずメテムが指す方向を見ると、確かにセントラル・マーケットと書かれた看板のある建物があった。
「ちょっと寄って行かない?」
楽しそうな笑みをこちらに向ける。
「うん、いいね。まだ時間はたっぷりあるし、ちょっと見てみよう」
そう言うと僕たちは建物の中へと向かった。
マーケットの中は、フロアー一杯に店がひしめいていた。
肉屋や乾き物屋、野菜屋等の他に、その場で食べれる簡単なレストランがあった。
そして勿論僕たちの好きなリバマーイ屋もある。
「うわ、すごい。これ全部フォアグラ?」
メテムがショーウィンドウにぎっしりと置かれたフォアグラの缶詰を見ながら声をあげた。
確かにこれは僕も驚きだ。
日本でフォアグラというとルージエが真っ先に思い浮かぶが、正直そこまで選択肢があるとは言えない。
しかし今目の前には見たことのない種類のフォアグラが沢山ある。
「うーん、壮観だねえ」
「ユウキ、何個か買って帰ってさ、ホテルで食べない?」
「いいね、しかしどれを買えばいいのかな」
「うーん、うーん、悩むねえ」
首を小さくかしげながらメテムはフォアグラを見つめる。
しばらく唸っていたが、やはり決まらないようだ。
するとその様子を見ていたお店のおじさんが話しかけてきた。
「こんにちは、お嬢さん。フォアグラをお探しかい?」
「あ、うんうん。そうなの。あとでパンに挟んで食べようと思ってんだけど何かオススメある?」
「パンに挟んで食べるか。それならばこれだよ」
そう言うとおじさんは数ある中から深緑のパッケージの缶詰を持ってきた。
「お嬢さん、これはね、トカイワインが入ってるフォアグラのテリーヌなんだよ」
「え、ワインが入ってるの?」
「そうそう。ハンガリーのワインといったらこのトカイワイン。それを練り込んでるからまさにパンに挟んで食べるのにうってつけだよ」
「わー素敵! ユウキ、これにしよう、これに! おじさん、一個頂戴」
「ほいよ、まいどあり! それならお嬢さんの為に一個小さなポーションをつけておこう。これは気軽に食べれるから、小腹が空いたらお食べ」
そう言うとおじさんは缶詰とは別に小さなポーションをつけてくれた。
「やったー! おじさん、ありがとー!」
僕もお礼を言いながらお会計を済ませる。
一体如何ほどのお値段かと思ったが、三千フォリント(千二百円)と、庶民向けの設定だった。
やはり生産される量や消費される量が絶対的に日本と違うので、随分身近な存在なのだろう。
ありがたいことだ。
フォアグラを購入した僕たちはもう少しマーケットを歩いた。
途中コーヒーを買い歩きながら飲んでいると、パン屋に出くわした。
「ユウキ、調度良いしここでパンでも買ってかない?」
「いいね」
そう言うと僕たちはカウンター越しにパンを覗いた。
マーケットの中だからか、はたまたハンガリー全体の相場なのか、パンの値段も随分安い。
メテムの顔ぐらいにあるサイズのパンがなんとたったの百フォリント、つまり三十円で買える。
これぐらい安いなら住民の生活も楽だろう。
そんな事を思いながら僕たちはそのパンを一つ購入した。
マーケットを堪能した僕たちは、その足でまっすぐ鎖橋へと向かった。
途中少しだけ道に迷ったが、まあとにかくドナウ川を目指せばいつかは着くわけだ。
大体の方角に目安をつけて僕たちは進んだ。
すると程なくしてドナウ川へ辿り着いた。
岸辺から眺めると、確かに巨大な橋がいくつも作られている。
お目当てのセーチェニ鎖橋は……というと、ここからでは残念ながら区別がつかなかった。
仕方ないので歩く人に聞きながら探し、しばし歩いた末にようやく見つけることが出来た。
セーチェニ鎖橋は先程言ったように、入り口の左右にライオン像が飾られている。
例えに出すのも若干変だが、日本橋三越のライオン像をもう少し大きくした形を想像してもらえるとわかると思う。
まあそんな感じだ。
それから僕たちは橋を渡り始めた。
幅の広いドナウ川にかかってるだけあって、歩くと結構距離がある。
それでもすれ違う人に挨拶しながら進む内に、中央部分へと辿り着いた。
着いてみて分かったのだけれど、この巨大な橋は多くの橋がそうであるように作りがむき出しになっている。
つまり橋の芯であるアイバーチェーンやら基礎の部分に触ることができる。
そしてあろうことか若者は皆その部分によじ登り、休んだり写真を撮っていた。
「うは、凄い事してるね、彼ら」
驚き半分呆れ半分僕はメテムに言った。
「そう? あそこ結構休めそうでいいと思うよ?」
「え、何、メテムもああいうの大丈夫な方?」
「うんうん、全然問題ないよ。高いところ好きだもん」
「そ、そう。僕も苦手じゃないけど、どうしても人の目気にしちゃってさ」
「人の目ったって、皆登ってるじゃん」
「そうだね、ハンガリーなら大丈夫なのかもね」
「うんうん、日本人はそういうところ気にするからなあ」
「まあ同調主義だからねえ。さて、メテム、この後どうする?」
「どうするって?」
「いやほら、ブダペストの街を高いところから眺めてみたいなと思ってるんだ。近くにゲッレールトの丘ってところがあるんだけど登って見てみない?」
「ん? 高いところ? 別にそこ行ってもいいけど、もっと便利なのが今目の前にあるのに?」
そう言うとメテムは首を傾げながらこちらを向く。
「え、高いところ? どこのこと?」
すぐに聞き返すと、メテムが顎をくいっくいっと頭上に向けた。
何か飛行船でもあるのかと思って見てみたが、そんなものはなく、そこにはただ橋の主塔があった……。
「メ、メ、メテム、ちょっと待って、ちょっと待って」
僕は全身をバタバタとさせながら、メテムの背中に話しかけた。
「なんだよ。落ち着きなって。大丈夫だからゆっくりついてこいよ」
「大丈夫って、とても大丈夫じゃないんだけど……」
そう言うと僕は必死になりながら空中を「飛んだ」。
メテムがかけてくれた魔法、シルフィードというらしい。
何やら重力にある程度逆らって進める魔法のようだ。
しかし使い慣れているメテムと違って、初めての僕にとってはもう生きた心地がしない。
誰かに見られてはいないかと最初は気を使っていたが、今はもう登るのに必死だ。
アイバーチェーンに足をつき、また蹴上がる。
すると普通のジャンプとは違い大きく勢いがつき飛び上がり、そしてまたゆるやかに落ちていく。
それからまたアイバーチェーンを蹴るという感じだ。
橋の中央で基礎部分に跨っていた若者とはわけが違う。
正真正銘僕たちは立入禁止の主塔の屋向かって進んでいるのだ。
「キャッホーイ」
目の前でメテムの声が上がった。
どうやら屋上へ到達したようだ。
無邪気にこっちに向かって手を降っている。
僕はもう怖いので下を見ないようにしながら向かっていた。
そして最後の方はあまりの高さに足がガクガクとしていたが、何とか何とか辿り着くことができた。
「ふぃ……」
屋上に腰を下ろすと、僕は思わず安堵の声を上げた。
「なんだよ、大げさなやつだなあ」
「そうは言うけどね、僕たちの世界ではこんな体験する人はいないんだよ」
「まあいいさ、ほらこっち来てみ。めちゃ眺め良いよ」
「ごめん、今足がガクガクしちゃって行けない」
「もー、ほら、来いって」
そう言うとメテムは僕の腕を掴み体を引き上げた。
メテムの手に引かれるようにして屋上の縁にたどり着く。
するとそこには地上からは想像出来ない絶景が待っていた。
「うはー、こりゃ凄い……」
思わず言葉が出る。
当然だ。
ここからは遮るもの無くドナウの真珠と謳われたブダペストの街が一望に出来たのだ。
「流石に綺麗だねえ」
メテムも横で呟く。
「うんうん、東側の旧市街ブダは煌々と灯りがあって石造りが映えるから見事だね。西側も議事堂や王宮が厳かな雰囲気するね」
「ほら、やっぱ登ってみて正解だったじゃん」
「いやそうだけどさ、ほら、登るための手段と言うか何というか……まあいいか」
そう言うと僕は縁に登り腰をかけた。
メテムも機敏に飛び乗り隣に座る。
「んっん~」
大きな声をあげてメテムが体を伸ばした。
釣られて僕も体を伸ばす。
「でもメテム、とりあえず最初の国の選定としては間違えてない感じがしない?」
「今のところは、ね」
「うん、今のところは」
「まあでもハンガリーのイメージが決定づくのは次かな」
「次? ああ、リバマーイ?」
「そうそう、果たして本場のフォアグラがどんなもんか、いっちょ試してみようじゃないの」
「そうだね。美味しいといいね」
「いやもうここまできて美味しくなかったら、私もう暴れちゃうね。シェフにこっそりファイアーボールでもぶつけちゃうと思うよ」
そう言うとメテムは口を横に広げて笑った。
「で、ユウキ。お店は当てがあるの?」
「もちろん。ホテルの近くに高級ハンガリー料理屋があるの確認済み」
「いいね。でも高級なんだ」
「うん。庶民のところもいいけど、どうせなら良い物試してみたくてね」
「そか。それなら楽しみだねえ。他に有名な食べ物は何かある?」
「ハンガリーは他にパプリカが有名だよ」
「パプリカ?」
「うん、パプリカを使ったスープ、グヤーシュスープっていうんだけど、それが名物らしい」
「ほうほう、じゃ、それも頼んでみますか」
「そうだね、楽しみだ」
「ちょっとさ、まだお腹底まで空いてないから、もう少しゆっくりしたら行こうか」
「勿論。せっかく怖い思いして来たんだから、まだいるよ」
「キシシ、そだね」
それからメテムは僕の肩に小さな頭を傾けてチョコンと乗せる姿勢を取った。
すぐに体重の多くが僕にかかってくる。
何一つ疑うこと無く全身を預けてくるメテムを、僕は包み込むように腕でくるんだ。
それから僕たちは、少しずつ街の色がオレンジ色に染まっていくのを誰もいない主塔の上でゆっくりと見ていた。
「よし、そろそろ行こうか」
辺りがすっかり薄暗くなった頃、メテムが突然すくっと立ち上がった。
「そうだね、そろそろ頃合いかも」
僕は縁に立ったメテムを慌てて落ちないように手で囲いを作りながら答えた。
「お腹も適度に空いてきたね」
そう言うとメテムは呪文書を広げて、僕とメテムに呪文をかけた。
おそらく先ほどのシルフィードだろう。
それから縁をそのまま器用に歩き、アイバーチェーンの接触部分へ向かっていった。
僕も慌てて地面に降りてメテムの元へと向かう。
「よし、んじゃ一気に急降下。リバマーイまでレッツゴー」
そう言うやいなや、メテムはまるで身投げをするように体を外に投げ出した。
僕は「あっ」と声をかけて縁の外を覗きこんだが、すでにメテムはアイバーチェーンの上を颯爽と勢い良く降りていた。
僕も足元のアイバーチェーンの上を外すことの無いよう注意しながら後を追った。




