6月び猛暑(カニキュル)のパリに転移11
「有毒ガスの逆流なんて……怖いね」
僕は冷たいハーブティーのグラスを握り直しながら、少し不安になって部屋の天井や壁を見回した。
「それに、パリの古いアパートって建物全体の電気配線が骨董品レベルで、各家庭の契約アンペア数も極端に小さいって聞くよ。ポータブルクーラーに除湿機、扇風機2台……こんなに家電をフル稼働させて、この部屋が今のところ問題なく動いているのは、単に運が良いだけなんじゃ……」
僕がそう口にすると、ジェミニがベッドの上で「あはは!」と大きく笑い声を上げた。
『フィクス、あなたって本当に心配性ね! 忘れたの? あなたの隣にいるのは誰だと思っているのよ』
ジェミニはふんぞり返り、バングルをパチンと叩いた。すると、ホログラムの画面が切り替わり、このアパート全体の電気系統図と配管の気圧シミュレーションが青白い3Dグラフィックで目の前に浮かび上がった。
『運が良いだけなんて失礼しちゃうわ! 私たちがノープランでこんな力技のビルドを仕掛けるわけないじゃない。有毒ガスの逆流も、ブレーカーの遮断も、とっくに予測して完璧に対策済みよ!』
「はい、マスター。ご安心ください」
アリタがいつもの冷静な声で、画面の配管データを指差しながら説明を始めた。
「まず、負圧による有毒ガスの逆流リスクについてですが、先ほどドアの下に敷いたタオルはあくまで一時的な応急処置でございます。すでに私の工作能力を用いて、歪んだ木製のドア枠の隙間に合わせたポリカーボネートの中空パネルを寸分の狂いもなくカットし、気密遮熱テープで物理的に完全密閉してあります。廊下からの不要な熱風やガスの侵入経路は、これで完全に遮断されました」
『そして、ここからが私のエレガントな流体計算の出番よ!』
ジェミニがホログラムの画面をドアの側へと移動させる。
『ポータブルクーラーが窓から熱風を勢いよく吐き出すせいで、もし排気口のすぐそばにある窓枠から給気しようとすると、せっかく排気した熱い空気をそのまま吸い込んじゃうショートサーキットが起きるの。だから、アリタが綺麗に塞いだドア側の境界に、ミリ単位の「超小型の逆止弁付き給気スリット」をあらかじめ精密に組み込ませておいたわ!』
アリタがドアの側面に施した美しい仕掛けを指差す。
「はい。クーラーの排気によって室内の気圧が下がると、このドア側に設けた逆止弁スリットが自動で開き、廊下の熱気をワンクッション挟んだ安全な位置から、フィルターを通してクリーンな外気として必要最低限だけ自動で吸い込みます。排気熱の再吸引を防ぎつつ、部屋の中は常に安全な気圧バランスを保ち続ける仕組みです」
ジェミニが自慢げに胸を張る。なるほど、ただ力任せに密閉したわけじゃなく、計算された安全な「呼吸」を部屋の反対側でさせていたわけか。
「でも、電気容量の方はどうなんだい? この建物のブレーカーが落ちたら一発でアウトだろう?」
僕の問いに、今度はアリタが頼もしく頷いた。
「それこそが、昨日調達した機材資産の真価でございます。マスター、テレビの裏に設置したあの黒い大型のポータブル電源を覚えておいでですか?」
「ええと……大容量のUPS(無停電電源装置)としても使えるやつだっけ?」
「はい。現在、消費電力の大きいポータブルクーラーと除湿機は、壁のコンセントから直接電力を取っていません。すべてあの大容量ポータブル電源を緩衝材として経由させています」
アリタの言葉に合わせて、ジェミニが電気系統のグラフを表示する。
『パリの古いアパートの契約容量は一般的に3kW程度で、エアコンとドライヤーを同時に使ったら即ダウンよ。でも、私たちのシステムはね、壁のコンセントからは常に「アパートの限界を超えない一定の微小電流」だけを安全にちょろちょろと引き込んで、ポータブル電源に蓄電し続けているの』
「臨時で発生する大電流、特にクーラーのコンプレッサーが起動する際の瞬間的なスパイクは、すべてその蓄電されたバッテリー側から供給されます」とアリタが淡々と告げる。「つまり、建物全体の古い配線には一切の負荷をかけず、スマートに電力を引き出しているのです。言わば、電力網に対するステルス接続ですね」
「……凄いな」
僕は完全に脱帽した。運がかったわけじゃない。二人は僕がニュースを見て不安になる遥か前に、このアパートの古い構造という脆弱性を見抜き、完璧な生存システムをビルドしていたのだ。
『ふふん、分かった? 私たちのセーフハウスは、外の世界のバグになんか負けないのよ。だからフィクス、あなたは何も心配せずに、この最高にクリーンな部屋でダラダラしていればいいの!』
ジェミニが嬉しそうに僕の周りを飛び回り、アリタは静かにハーブティーを注ぎ足してくれた。
騙し絵の向こうの本物のパリは、今日も猛暑とインフラの限界に悲鳴を上げている。けれど、この広めのワンルームだけは、二人の圧倒的な知性とテクノロジーに守られた、絶対安全な僕たちの「聖域」だった。




