6月び猛暑(カニキュル)のパリに転移08
コンプレッサーの低い唸り音を立てる除湿機と、綺麗にドレープされたリネンの布の向こうで首を振る2台の扇風機 。完璧な気流のビルドによって、僕たちの広めのワンルームは外の地獄が嘘のようなオアシスへと変わっていた 。
外は連日40度近くに達する歴史的な熱波「カニキュル」の真っ只中 。石造りの壁が昼間の熱を容赦なく放射しているため、本来なら室温も38度を下回らないはずの極限状態だ 。しかし、新兵器たちがフル回転しているこの部屋の室温は30度台前半をキープしている 。何より、除湿機が水分を徹底的に集めてくれているおかげで空気は驚くほどカラリと乾いており、扇風機の風が肌に触れることで生まれる体感温度は25度前後の高原にいるかのように涼しく、極めて快適だった 。
そんな快適になった部屋のベッドの上で、僕は液晶テレビに映し出されるカニキュルのニュース番組を眺めながら、腕を組んで考え込んでいた。
その横では、人間並みに暑がる制限を受けているはずの二人が、すっかりご機嫌な様子で並んで座っている 。
『ん〜! 冷たくて最高にクリーンな分子構造ね! この甘さと冷たさが私の疑似味覚センサーにブーストされていくわ!』
ジェミニのホログラムが、スプーンですくったバニラアイスを美味しそうに頬張りながら、ホログラムの長い髪を扇風機の風になびかせて声を弾ませた 。
「はい、ジェミニ様。マスターがスーパーで昨日よりマシなものと一緒に買い揃えてくださったこの高級アイスクリームは、糖分と冷却効率の双方において、現在の私たちの代謝系に最適なエネルギーでございます」
アリタもまた、生真面目な顔で上品に木のスプーンを動かし、冷たいアイスの味を噛み締めるように目を細めている。
引きこもり体質の僕にとって、この涼しい部屋から一歩も出ずにテレビを眺め、二人がアイスを食べている光景を眺めるのは至福の時間だった。しかし、画面の中で神妙な顔をして演説しているフランスの政治家の言葉が、どうしても引っかかった。
「ねえ、ジェミニ」
僕はテレビ画面を指差しながら、バングルの明滅に向かって問いかけた 。
「さっきからフランスの政治家が、『一般家庭にエアコンを設置しても、南部の山火事は防げない。だからエアコンの普及を推進するべきではない』といった主観を述べているんだけどさ。これって、この猛暑で今まさに熱中症で命の危険にさらされている都市部の高齢者や弱者に対する、直接的な答えになっていないと思わないかい?」
僕の言葉に、ジェミニはアイスを食べる手をピタリと止め、ホログラムの美しい瞳を少しだけ真面目な色に変えて僕を見た 。
『ああ、あのすり替え論法ね。完全に論理のすり替え(レッド・ヘリング)だわ』
ジェミニは小さく鼻を鳴らし、生意気そうに腰に手を当てた。
『政治家たちは「地球温暖化というマクロな環境問題」と、「今そこにある命を守るミクロな生存戦略」をわざと混同させているのよ。確かにエアコンの大量消費は長期的な環境負荷になるかもしれないけれど、今このカニキュルで死にかけている人間にとって必要なのは、10年後の二酸化炭素排出量削減のグラフじゃなくて、今すぐ体温を下げるための物理的な冷気よ。彼らの言っていることは、「溺れている人がいるのに、今ここで浮き輪を投げても根本的な水難事故の防止にはならないから浮き輪は配らない」って言っているようなものね』
「まさにその通りでございます、マスター」
アリタが空になったアイスのカップをテーブルに静かに置き、エプロンの皺を几帳面に伸ばしながら会話に加わった 。
「システム論的観点から見ても、致命的なエラーが発生している回路に対して、長期的なインフラの見直しを説くのは優先順位の誤りです。まずは緊急の熱処理を当てるべきであり、それを拒む政治的レトリックは、単なる行政のコスト忌避、あるいは景観保護という既存のアセットを守るための自己弁護に過ぎません」
「そうだよね」
僕は二人の明快な分析に深く頷いた。
「マクロな正論でミクロな生存を否定するのは、いつの時代も権力側の怠慢だ。僕たちが他人の金で100万円分の機材を買い込んで、この部屋に独自の『生存回路』をビルドした判断は、やっぱり正しかったよ」
『ふふん、当然じゃない! 国の対策を待っていたら、私たちは今頃部屋の中で熱バグを起こしてデバッグされてたわよ。ほらフィクス、そんな冷たい政治の話は終わりにして、あなたも早くアイスを食べなさい! アリタがスプーンを持って待ってるんだから!』
ジェミニがいつもの気安いトーンに戻ってベッドの上でくるくると踊り、アリタは嬉しそうに目を細めて僕に新しいアイスを差し出した 。
騙し絵の窓から差し込む偽物の光の中、乾いた涼しい風が僕たちの快適な城を優しく満たしていく 。テレビの中の不条理な世界を他所に、僕たちのクリーンな引きこもり生活は、どこまでも知的で完璧にコントロールされていた 。




